湯けむり温泉郷【5】予知能力
イラスト:運命の娘『アリス』
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魔王ラヴェイドの領地は、魔族領の最北に位置する生産性の低い低温地帯にある。一年の半分以上が雪に被われる土地で、温泉という観光資源がなければ他国からの往来もない寒いだけの土地だった。
ここには古来より戦闘系兔種と呼ばれる種族が住み、温泉が湧き出る限られた土地を争い合いながら暮していた。その亜種である幻惑兔と呼ばれる幻術が得意な部族の長であったラヴェイドの曾祖父が創った国『エイド』が、現在までに至る礎となっている。
ラヴェイドの統治する領地は、魔王領としてはかなり小さい。彼が魔王の中では新参者であるせいでもあるが、元々が戦闘力があまり高くない種族であったため、前領主の時代まで広い領土を持てなかったのだ。
住める土地は限られ、増やすには侵略して奪うしかない。戦闘系兔種の歴史上、はじめて魔王の啓示を受けたラヴェイドによって一つに統合され、過去最大の面積を有する国となったが、それでもやはり領地としては小さなものだった。
魔王の啓示は、ある日突然体の一部に印が浮かび上がるとされる。その規準も尺度もばらつきがあって、分からない部分の方が多い。ただ分かるのは、飛び抜けた才覚を必ず一つは持っているという事で、ラヴェイドの場合は脚力であり、故に脚王を名乗っている。
脚王ラヴェイドは、一族の繁栄には強い遺伝子が不可欠だと思っていた。現に彼の息子達は同族の中では格段に強く、その息子達の活躍によって領地は飛躍的に拡大して豊かになった。しかし、敵を増やした為に外敵からの侵略に脅える事にもなり、ラヴェイドは領地を守る為に優秀な母体となる娘を集め、ひたすら子を産ませ続ける事になったのだ。
今では、軍の上官クラスの9割が彼の息子達である。その子供にはナンバーが付けられているが、単純に産まれた順番ではない。それぞれの役目や優秀度によって番号が与えられていた。
また、複数存在する王妃達もそうである。
第七妃までは代々のしきたりなどで貴族などの良家の出でなければ名乗ることを赦されなかったが、第八以下は完全に実力だった。貴族の血をひく麗々は、第七妃までの資格者の中で最も優秀であり、平民出身のアフロディアはそれ以外の者の中で最も優秀だった。
真に優秀なのはどちらかと比べるのはタブーだ。
もしもその話をしているところを誰かに見つかれば、確実に極刑が待っている。故にこの話題に触れる者は誰ひとりいないが、仮にどちらが優秀かと聞かれた場合、誰もが同じ女性の名を思い浮かべた。
“ローツォのアフロディア” 古代の神を祀る少数民族ローツォの巫女として育てられていた幼少の頃、彼女の才覚に見惚れたラヴェイドが無理やり連れて来て幽閉し、成人して子を産める体になってから孕ませたのがリュオンであり、シュジュであり、アリスだった。
アフロディアの娘シュジュには予知能力がある。
過去に大きな自然災害を言い当てたり、12年前の人類軍による大規模侵攻を事前に予知した事から周囲にも知るところとなった。その妹アリスにも同様の力があると言われるが、アリスに纏わる話はあまりにも異質な為、ただの噂と思う者も多い。それにアリスは極度の人見知りのため、家族以外と口を聞いた事がほとんどなく、無口な不思議系少女としての印象が濃かった。
そのアリスがはじめて人前に出て雄弁に語る。
彼女のそんな姿を見るのは、ほとんどの者にとってはじめての事だった。場はシンと静まりかえり、アリスの声だけが岩岩に反響するように響く。
「父上がこの作戦を思い立ったのは、猿王様との試合に破れ鬱ぎこんでいた時の事です。あの時すでに次の召喚者が史上最強のアダムだという噂は魔王さま達の間で秘めやかに囁かれていました。
それを知った父上は、最強遺伝子を手に入れ猿王様に復讐しようと考えたのです。もちろん一族の繁栄を願う気持ちは本物ですが、本心は別のところにありました。母さまはその暗い復讐心に気付き、正しくあるべきと幾度も進言しましたが、結局は押し切られ聞き入れて貰えませんでした。
やがて赤合の時を迎え、闇のアダムが召喚されました。暗黒のイヴの兄が妹の命を引き継ぐかたちで召喚されるなど、過去にはなかった事です。最強の噂は真実だと感じた父上は、即座に計画を実行に移しましたが、作戦はいきなり頓挫します。
誰よりも先にアダムと懇意になり、娘を嫁がせ関係を盤石なものとするプランは、目覚めを迎える前に交魂の儀を済ませた夢魔王により阻止されてしまったのです。それに、こともあろうか天敵の蛇王とも交配の約束を交わしている事が判明しました。
最大の敵になりうる蛇王との混血を防ぐ妨害工作プランBは、発動される前に失敗に終わります。後は薬物と幻惑術を使ってアダムを寵略するプランC、幻惑が通用しなかった場合の禁術を使用するプランDを残すのみとなりますが、父上はもう一つの禁忌を犯します。それは・・・」
「ちょっ、ちょっと待った!話を止めろ!」
大声でアリスを止めたのは凛々だった。
「何故そんな最重要機密を知ってる!?
リュオンが喋ったのか? だとしたら重大な軍規違反だ! それに、父上が復讐心からこれを計画したなどデタラメを言うな! いくらリュオンの妹でも許されぬ事だ!」
異常なほど詳しく内情を知るアリスに、凛々は怖れさえ感じていた。それに、父ラヴェイドが復讐心から今回の作戦を考えたなど寝耳に水だ。とても受け入れられる話ではない。
生粋の軍人である凛々は、性格的に難があるとしても父の事を尊敬し、その強さに憧れていた。今回のごり押しともいえる強行策も、一族繁栄の為には仕方のない事だと自身を無理やり納得させ従ったのも、父親に対して絶対的信頼があったからだ。それを揺るがすような情報に否定的になるのはごく自然な事だった。
「いえ。兄さまは何も喋っていません。私の能力を知っていましたから、作戦の内容を父上から聞かされて以降一度も会いに来て下さりませんでした。お疑いでしたら、禁書庫を調べてみると良いでしょう。日記があります。そこには半年もの間ひたすら復讐の事を考えた経緯が記されています。凛々姉さまは父上を慕っておいでですので、あの日記を読むのはお薦めしませんが・・・」
「能力?あの噂の力の事か? それに、日記だと?」
何を馬鹿な事を言うな!あの父上が日記などつける訳があるまいと鼻で笑う凛々だったが、そもそも禁書庫の存在すら自分は知らされていない。
噂は本当なのだろうか?
千里眼のアリス・・・
全てを見通す不思議な夢のアリス
「何でも分かっちゃうっていうアレだよね?紛失物や尋ね人、それに現在、過去、未来までの全てを自在に見ることが出来るっていう夢みたいな予知能力のお話し」
話に割って入って来たのは蘭々だった。姉の凜々よりも若干子柄ではあるが、均整のとれた鍛え抜かれた身体をしている。動きは俊敏でスキが無く、何か特殊な格闘技を極めている風がある。妖力とやらを纏ったせいかも知れないが、俺の目に映る爛々の姿は二重にダブって、何やら奇しい雰囲気をかもし出していた。
「数々の失踪事件や殺人事件など、迷宮入り確実といわれた難事件や怪事件を解決に導いた謎の手紙の差出人がアリスちゃんだっていう噂は警察機関である第8部隊内では有名な話だもんね?」
それにね、と続ける蘭々・・・
「今の話が全て事実だとしても、今この場で話すなんて聡明なアリスちゃんらしくないよね?だって、ここには今回の作戦には無関係の、いわば連れてこられただけの娘達もいるんだよ?
ねぇアリス・・・こんな事まで知っていると明言すれば、ただで帰せない事は充分に予想できただろう?なぜ話した?もう日常には戻れないぞ」
蘭々は途中から雰囲気をガラリと変え、威圧的な口調でアリスを威嚇した。その変化を気にするでもなく、アリスは平然と真正面から向き合っている。ある意味一番不気味な存在である爛々と対等に渡り合う胆力には、姉の凜々でさえ驚く様子を見せた。
「プランDが発動した時点で、既に普通の生活には戻れません。たとえ作戦が成功しようと闇のアダムとの接点を隠さねばならないため、私達は外界から隔離され監禁されてしまいます。失敗した時は・・・全てを言わずとも蘭々姉さまが一番よくご存知のはずですよね?」
「失敗したら全員が処分されるって言いたいのか?
娘長であるアタシや蘭々がここにいるのに、そんな事させる訳ないだろ!」
凛々は「なあ、蘭々?」と妹の方へ振り返るが、蘭々は姉の視線を受け流し、横を向いて悔しそうに唇を噛んだ。
「蘭々?お前・・・まさか?」
「そのまさかです」
答えぬ蘭々の代わりに会話に入って来たのは、先程まで岩場の上で気を失なっていた第一王妃の麗々だった。まだ大半の者は伏したままの状態であったが、麗々を含めた9名の夫人達は絶頂の余韻から覚めるとすぐに起き上がり、娘達の集まる元丸岩があった湯の中心へとゆっくりと進んで来る。
「蘭々にはあの人から直々に極秘任務が与えられているのです。任務とはいえ辛い思いをさせました。――――でもそれも、間もなく終わりをむかえます」
何かを言おうとした蘭々に目で制止をかけ、軽く手で合図を送る麗々。その一連の動作には全く無駄がなかった。ただ歩いているだけであるのに、目を引き付けて離さないような特別な雰囲気を纏わせている。
その完璧なまでに磨き上げられた肢体を隠そうともせず、冗談かと思われるほど細く括れた腰に手を添え、頭から垂れた白銀に輝く長い耳が形のよい乳房の上で揺れている。その後ろの女性達も目を見張るような容姿をしているが、麗々のそれは全く次元が違う美しさだった。
「房中術を極めた私達までが、これほど簡単に手玉にとられてしまうとは思ってもみませんでした。完敗です。生娘たちには手を出さずにいて下さったのね?」
麗々は手を伸ばせば届きそうな距離まで近寄ってくると、娘達の様子を見渡してから視線を俺に戻し上品に微笑んだ。
「ちょっと待て。その言い方は間違っているぞ。
俺は始めからずっと一貫して主張している通り、こちらからは一切動いてないし手は拘束されていた。お前達が勝手に動いて勝手に玉砕したんだ。手を出さずにいたとか言わないでくれよ。事情を知らない人が聞いたら完全に誤解するじゃないか。俺には元々そのつもりはないんだからな」
俺は理不尽なまでに間違っている点を強く主張した。ちゃんと言っておかないと、俺が自ら望んでしたかのように話が運ばれてしまいそうで恐かったのだ。
この麗々という女性には、気品の中にも一種独特のオーラのようなものがあり、この人がこうと言えば事実がどうであれそうなってしまいそうな雰囲気がある。カリスマ性と言えばそれまでだが、俺には何か別の力が作用しているように感じられた。そんな俺の言葉を聞いた麗々は手を口に当て、なにやら楽しんでいるようにホホホと笑った。
「本当に凄いのね。私の瞳術が全くの素通りとは・・・それはアダムの特性因子?それともオリジナルかしら?」
―――くそ、やっぱりなんかしてたのか!
「言われる通り、私達が貴方の意思に関係なく勝手に始めた事です。小細工も効かないようですし、こちらからは何も打つ手が無くなりました」
一瞬うつむき、苦痛の表情を浮かべたように感じたが、すぐにまた顔を上げて笑顔を見せる。先程とは雰囲気が違い、自然な笑顔のように見えた。
「でも、途中からは貴方も楽しんでおられたでしょ?」
「うっ・・・?」
「私は楽しかったですよ。これ程の男とする機会なんて匆々あるものではありませんから。途中からは目的も忘れ、ひたすらに自分の中の欲望に突き動かされてしまいました。こんなに満足させていただいたのは本当に何十年ぶりです。年甲斐もなく乱れてしまってお恥ずかしい限りですよ」
麗々はその時の事を思い出したのか、頬をほんのりと染め潤んだ目で俺を見てくる。その視線の先は主に俺の股間に集中していたが、薬を盛られ俺の意思とは無関係に元気いっぱいなのであって、くどいようだが俺の望んだ状態では断じてない。
まあ、途中からエネルギーのようなものがドンドン流込んで来るし、気分も良くなって楽しんでいなかったと言えば嘘になるが・・・
「あんたら種族って歳を食わないのか?俺から見ると全員20代に見えるのに、話からするとかなり差があるんだろ?」
俺は罪悪感から逃げるように話題を変えようとした。
「女に歳の話をさせるんですの?でも、若く見ていただけるのは嬉しいわ。私達は戦闘系兎種)ウォーリアラビット)と呼ばれる種族で、成長速度は他の種族とあまり変わりませんが、成人以後、死ぬまで外観的な変化が少ないのが特徴ですの。子どもを産める期間も長く、個人差はありますが100年以上は普通に大丈夫です。これは我等が個体として弱い種族である為に、そのような生態であると言われています」
「なんかどこかで聞いたような設定だな?でも生娘と一目して見て分かったのはどういうワケだ?」
「耳です。若い娘達は耳が短いでしょう?
ピンと立っている娘はまだ男を知らない娘達。片耳が折れている娘達は出産経験のない証拠。両耳が折れているのは出産経験があるという事です。耳は毎年少しずつ伸びますので、それで年齢が分かります」
そう言って、自分の長く垂れ下がった耳を恥ずかし気に撫でる仕草をする麗々。ここにいる女性達の中で最年長である事を示す耳の長さを恥ての事だろうが、俺だって中身は中年のオッサンだ。見てくれがどうであれ、歳をとる事が恥だなんて考え方には賛同出来ない。だから俺は、言わなくても良いのに余分な事をついつい口にしてしまった。
「歳を恥るのは間違っていると俺は思うぞ。
歳に恥じぬ生き方をして来た自分を誉り、さらに前へと進む糧とし、後に続く者に勇気を与え手本を示す。あんたが先ず先陣を切ってみせたのも、不慮の事態に備えての事だろう?俺は異世界から来た人間だ。あんた達から見たら得体の知れないバケモノだからな。いくら完璧に準備していたとしても、何が起こるかなんて誰にも分からない。あんたは凄いよ。下の者の為に体を張ってみせるなんて、なかなか出来る事じゃない」
俺がそこまで言うと、ふふふと微笑みながら聞いていた麗々の頬を一筋の光が通過し、湯の水面に円を描いた。
麗々のまさかの涙に、周りにいた者達が驚いて其々に目を合わせる。それは俺も同様で、動きを止めて麗々を凝視してしまった。何かのツボに嵌まったのか、一度流れ出した涙は留まる事を知らず、次々と流れ落ちては水面に描かれた円を乱した。
そんな麗々の姿を見て一番驚いたのは凛々だった。
うええ??と言いながら万才した格好で仰向けに湯のなかに倒れてしまった。気管に入ったのか、ゴホゲホと咳き込みなから立ち上がると、妹の肩を掴んでブンブンと揺すった。
「母さまが変だ!母さまが泣いている!」
「何を大袈裟な。母さまだって泣く時くらいあるわよ。見たことは一度もないけど・・・」
「そうだろ!おまえだって見た事ないよな!アタシだって母さまが泣いている姿なんて初めて見た。これは一大事だ!」
「酷い事を言う娘達ね。私だって女なのですから涙を流す事だってあるわ。悲しい時や悔しい時に流す涙は無いけれど・・・」
凛々と蘭々の会話に笑みを浮かべ、崩れかけた体勢を元に戻した麗々の目に涙は既に消えていた。
「貴方は酷い御方ですね?覚悟を決めたばかりだというのに、そんな優しい言葉を掛けられてはせっかくの努力も水の泡。私の女の部分が揺らいでしまいます。このような人柄の方とはじめから分かっていたなら、私も全力であの人の考えを正そうとしたでしょうに・・・でも、こうなってしまってはもう後戻りは出来ないの。私達もお供致しますゆえ、どうか赦して下さい」
――――なんだ?何を言っているのかさっぱり解らん。
万策尽きたと言ったばかりで、まだ何かするつもりか?
「まさか、母さまも飲んだのですか!?」
「蘭々、あなた達『紅兎』にだけ辛い役目を負わせるなど出来る筈がないでしょう。私はあなた達の長である前に母親なのだから。この許されざる罪、私も背負う覚悟です」
紅兎とは、ラヴェイド直下の諜報部隊の中でも特別な任務を課せられた女性のみで構成された特殊工作員の事だ。麗々の世代が引退した今では、ほとんどラヴェイドの娘達で構成されていた。
敵国に潜入潜伏し、その飛び抜けた容姿を活かして要人に取り入り情報を入手。時には暗殺も行うという。簡単に言えば女スパイだが、幻惑言という言葉と仕草に幻術を乗せた言霊術を得意とし、毒や薬なども普通に使う。だからといって決して体術が不得意な訳ではなく、男の工作員と比べて劣る所はどこにもない。そのトップともなれば、並の男衆が束になっても敵うべくもないのは当然だった。
紅兎衆のトップエージェント。それは言うまでもなく蘭々だった。歴代最強と言われる彼女は、ラヴェイドからの信頼も厚く、娘だという事もあってか、数々の汚れ仕事を一身で請け負って来た。その中でも今回の任務は特に最悪だった。
丸薬を渡されるともにラヴェイドから極秘指令を言い渡された時、気丈な爛々でさえ流石に正気を疑った。万に一つも失敗の可能性はないといえ、相手が異世界人である以上は100%はあり得ない。
そのとき蘭々は、父親に対し質問をした。参謀役ですらないエージェントが王に質問するなど許されぬ行為であったが、どうしても聞いておきたかったのだ。
「父上は我々娘たちを愛しておられますか?」
ラヴェイドは答えず、作戦本部の大きな机の向こう側で背中を向けたまま手を振り、さっさと行けの合図をした。蘭々は一礼してその場を去ると、足早に仲間のもとへと向かった。血が出るのもお構いなしに唇をきつく噛みしめたその表情は、空を睨み、激しく苦痛に歪んでいた。瞳は深き闇のように光を押し込め、感情のいっさいを消そうともがいていた。
「父上は・・・狂っている!」
まっすぐな性格ゆえ母のあとを継いで『影』に入る事を拒んだ姉に代わり、自ら志願して『紅兔』に入った時より覚悟はしていた。
弱小であった祖国が強国と肩を並べるまでになった裏には、決して表には出せぬ汚い事もたくさん行われて来た。だが、それでも信じていた。愛があると信じていたからこそ耐えて来たのに、そのとき爛々ははじめて父親の行為を恥じ、そして限りなく憎悪したのだった。
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麗々は悲しげに笑みを浮かべ俺を見ている。
娘の罪を自分も背負うと言ってからしばらく沈黙が続き、周りは緊張した空気に包まれていた。誰も動こうとせず、麗々の一挙一動に皆の視線が集まっている。
「もう後戻りは出来ないとはどういう事なんだ?」
沈黙を破ったのは俺だ。先程から彼女ら母娘が言っている内容が全く把握できない。飲んだとか飲まないとか、なんの事だかさっぱりだ。中途半端に情報を小出しにされても、かえって状況判断が難しくなるだけで良い事は何もない。
今のところ最善策として思い浮かぶのは、ラヴェイドが戻って来たら皆に説得して貰い、闘いを回避した後は城まで送り帰して貰う事だ。せっかく能力を開花させて一度は城の近くまで戻って来たのに、温泉と鍋料理につられてこんな遠方まで来てしまった。誘われてのこのこ着いて来た挙げ句、まんまと罠にかかっていれば世話はない。
協力者以外の魔王には気を付けろと、ゆかりに言われていたのにこの様だ。リンクが回復した後にどんなに叱られるか、想像しただけで憂鬱になる。
先程のアリスという小柄な娘っ子の話では、この計画は随分前から準備されていたらしい。ラヴェイドの奴は、師匠との勝負に負けた事をめちゃめちゃ根に持っているサイコ野郎のようだから、ここを無事に切り抜けた後は一切関わらないでおこうと思う。
幸い大事には至っていないし、誰も傷付いたりしてない。ここで騒いで事を公にすれば、サイコ野郎は俺を恨んで様々な嫌がらせをして来る可能性は大だ。あの手のプライドが高くて付き合いにくい奴とは、極力接点を持たない方がよいというのは常識だ。
異世界への扉云々の事は気になるが、ここを穏便に乗り切るのを最優先して何とかやり過ごそう。と、俺は考えていたのだが、俺の予想を越えたところで事は最悪の事態になっていたのだ。