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プロローグ【2】

プロローグ【2】

 挿絵(By みてみん)

《狼と山の化身》



『ブリザード』吹雪を伴った冷たい強風で、局地風の一種。もとはアメリカ北部やカナダで冬季に見られる局地風をさす用語であったが、今日では世界各地の同じような防風雪に対して使われるようになった。アメリカ合衆国気象局では、風速毎時32マイル(約14m/s)以上、視界150m以下のものをブリザードと定義している。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「懐かしいな。8年ぶりか?」


山岳写真家の藤村修一は、山中での滞在5日間の予定で西カナダ側から冬のロッキー山脈に入った。天候は穏やかで、週間予報では当分の間この状態が続くという。ガイドを雇い、装備を整えて万全の体制で臨んだ雪山景色の撮影登山。今日を入れて三度目のチャレンジだった。


 氷河による侵食景色で有名なロッキー山脈であるが、春や夏の景色もさる事ながら、この山々が織り成す雪景色は、世界一美しいのではないかと思えるほどに藤村の心に深く訴えかけるものがあった。


 もう一度あの景色を見てみたい!

 あの時の感動をフィルムに焼付け、永遠のモノにしたい!


 その思いは、歳を重ねる毎に強くなって行った。体力的な事も考えると、次があるなら次が最後だし、なければ今回が最後の挑戦になるだろうと思われた。


 藤村は、12年前と8年前に全く同じルートでロッキー山脈に入っている。まだ若く、山岳写真家としても駆け出しの頃で、今のようにスポンサーがついている訳でもなかった。


 初挑戦の12年前などは特に、お金も人脈も何も有りはしなかった。アルバイトをしながらやっと貯めたお金で渡米の資金をつくり、念願叶って憧れのロッキー山脈に辿り着いたときは、夜も寝られないほどに興奮したものだ。


 その頃は、今のように正確な気象予報がインターネットで調べられる時代ではなく、山の天気など現地入りしてみないと分からなかった。ましてや、山中深くに入り、撮影が可能な状態かどうかなど完全に賭けだったのだ。


 現地で案内人(ガイド)も雇わねばならないし、飛行機代も高額だった。収入も生活するに汲々で、簡単に何度も挑戦できるようなモノではなかった。だからあの日、たった一日撮影しただけで帰ることなど、当時の彼には受け入れられなかったのだ。



 12年前の撮影二日目の事だ。

朝をむかえ朝食を済ますと、ガイドのマイケルが午後から天気が荒れるからすぐに支度をして山を降りると言い出した。空はまだ晴天であり、そんな気配は何処にも覗えなかった。2時間くらいなら大丈夫だろうと言うのに、案内人(ガイド)は直ぐに荷物を纏めて下山しなければブリザードに巻き込まれて死ぬ危険性があると言った。


 藤村はそれが信じられず、口論のすえ2時間だけ撮影時間を取り付けた。しかし藤村は3時間が過ぎても戻らなかった。午後に入ると空が急に曇り出し、冷たい風が吹き出してからようやく危険を感じてテントの設営場所へと戻ったのだ。


 だが、テントがあった場所には既に誰もいなかった。自分のテントはそのままあったが、二人の案内人が使っていたテントは撤収され、彼らの足跡は降り出した雪によって完全に消えていた。


 まさか置いて行かれるとは思ってもなかった藤村は、慌ててテントに入り荷物を纏めて下山しようとした。しかし、荷物を纏めている間にも風はどんどん強くなり、本当にあっと言う間に猛吹雪となった。


「下山は無理だ。今外に出たら死ぬ!」


 直感的にそう感じ、諦めてテントが風に吹き飛ばされないように補強するのを優先した。補強と言ってもロープと杭があるだけだ。雪に埋もれて重みが掛れば、こんなテントなど簡単に潰れてしまうのではないかと思われた。でなくとも、完全に雪に埋もれてしまった場合、テント内は酸欠状態になるのではないだろうか?登山用の酸素ボンベが有るには有るが、救助が来てくれるまで保つかどうかなど分からない。


 あの時、ガイドの言葉に従っていれば!

 約束通り二時間で下山をはじめていれば!


 そんな後悔も今更だった。

とにかく生き残る為にやれる事をしなければならないと思い、ロープと杭とハンマーを手にして外に出た。その藤村を豪と唸りを上げてとてつもない強風が襲った。


「うわああぁ!」


 それはあっという間の出来事だった。

開けた入口から風が入り、持ち上げられたテントは風に舞い、真っ黒な雲が立ち籠める空に呆気なく消えて行ったのだ。呆然と立ち尽くす藤村に残された道は、視界が効かない猛吹雪の中を下山するという、ほとんど生還の可能性がない死刑宣告に等しい選択だった。



 どれくらい時が過ぎたのか?

 三時間?いや、四時間か?


 完全に方向を見失い、自分がいま山のどの辺りにいるのか全く見当がつかなかった。登る途中に見た山小屋を目指したつもりだが、見当違いの方向に来ているのかも知れなかった。三時間も歩けば見えて来て良い頃だし、ぽつんと目立つ高台の上にあったのだから、暗闇でなければシルエットくらいは判別できるはずだった。


 もし仮に、気付かずに通り過ぎてしまったのだとしたらもう完全にアウトだ。体力は限界に達し、他に休める場所の知識も何もない。肩に食い込む荷物の重さがとてつもない苦痛に思え、鈍る足を更に重くしていくのを感じながら、このまま死ぬのかと藤村は思った。


「どうせ助からないんだ。荷物は捨てよう」


 担いだリュックを肩から降ろすと身体が軽くなった。しかし、捨てた重さが自分の命だという事も充分理解できていた。運よく山小屋を見つけたとしても、食料も調理道具も寝袋さえ無くせば、空腹と寒さで凍え死ぬだろうと簡単に想像がついた。


 自分にはまだ死を想像できるだけの余裕がある。そう考えると知らず知らずの内に笑みが浮かんだ。意外に自分は逆境に強い男なのかも知れないと思うと同時に、プロのカメラマンとなり、誰も見た事のない凄い景色を写真にするという夢が達成出来ない事に悔しさを感じた。せめて昨日と今日でフィルムに収めた分だけでも世に遺せたのなら・・・


 リュックの中から金属の筒を取り出し、大切に入れてあった撮りきったフィルムを内ポケットに移すと、藤村はカメラマンらしく首に一眼レフを下げて再び歩き出した。


 ブリザードは更に激しさを増し、手足の感覚はもうほとんど無いに等しい状態だった。たとえ助かったとしても、ひどい凍傷で手足の指の数本くらい失う事になるかも知れないなどと考えながら、ひたすら前を向いて歩き続けた。





 ◆◇◆◇◆◇◆◇




「よう。目が覚めたか?」


 そう声を掛けられてから自分の状況を理解するのに、たぶん一分以上はかかったように思う。自分は山小屋と覚しき建物の中央に横たわり、暖かく毛足の長い獣の臭いがする毛布に包まれていた。暖炉には火が入り、炎が紅く周囲を照らし出している。


「体温も低いし体力もかなり消耗してる。今はまだ眠っていたほうがいい」


 不思議に染み渡る高くもなく低くもない男の声。

それが案内人(ガイド)達の使うカナダ訛りの英語ではなく、きれいな日本語であった事に疑問を感じる間もなく、藤村は極度の疲労から来る眠気で再び目を閉じ眠りについた。


 芳ばしい肉の焼ける匂いに目を覚ますと、暖炉の上部に取付けられた金属の棒に吊るされた、およそ8Kgはありそうな大きな肉の塊が表面を焦がしながら肉汁を垂らしていた。


 ゴクリと喉が鳴り、口の中に唾液が滲む。

強烈な空腹感と目眩がする程の食欲に理性が吹き飛びそうになり、グンと身を乗り出したところで手と床の間にあった毛足の長い毛布が「グルル」と唸った。


 グルルと唸った? 何が?


 唸り声に目を向けると、そこには牙があった。

大きな上下の顎から突き出した鋭い牙が、ぬらぬらと妖しく光りながら顔のすぐ横に並んでいた。自分の視線と、その牙の持ち主との視線が重なったとき、湧き上がる恐怖に無意識に悲鳴が飛び出していた。その情けない程に恐れを剥き出しにした悲鳴が自分のものだと気付いたころ、部屋中にこだまするような笑い声が藤村の背中ごしに聞こえて来た。


 それが夢うつつに聞いた男の声だと気付く前に、目の前にいる恐怖の対象から逃れようとして身を反らした。すると背中にまた毛足の長い物が当たり、そちらの方からも同じように唸り声が上がった。恐る恐る振り返り、そこに予想した通りの姿を認めると、藤村は身を硬直させ震えながら小さく叫んだ。


「た、助けてくれ・・・く、食われる!」


 それを聞いてもう一笑いした男は、大丈夫だから心配するなと言ってその二匹の名を呼び来いと命令した。立ち上がった毛皮の主は素早く動き、男の足下に身を伏すと藤村を睨んだまま"伏せ"の態勢をとった。


「そんなビビらなくても大丈夫だ。アンタを見付けて雪の中から掘り出してくれたのも、体温を奪われて死にそうだったのを温めてくれたのも彼女たちなんだぜ?」


「で、でもソレって、オオカミだろ?

オオカミは人間には絶対に懐かない。そんな事は常識だ!」


「なら彼女たちはオオカミじゃないんだろうさ」


 冗談混じりに真剣な表情をして腕組みをする男は、野性味のある風貌をした黒髪の青年だった。


「バカな! 私は写真家だ。犬とオオカミを間違えたりはしない。その二匹は間違いなく純粋な灰色オオカミだろう!」


「まあ、そんな事はどうだっていい。

それよりメシだ。腹が空いてるんじゃないか?」


 空腹を指摘された途端、湧き上がる食欲に突き動かされ、どうしても視線が焼けた肉の方に向いてしまう。目を離したら飛び掛かられるかも知れないという恐怖より、あの肉汁の滴る超絶うまそうな肉にかぶりつきたいという欲望が藤村の心を支配して行く。


 木箱の上に座っていた青年は、まるで体重を感じさせない軽快な動きで暖炉の所に行き、Gパンの臀ポケットから出した折りたたみ式ナイフを器用に使って、焼けた部分の肉を削ぎ落としながら反対の手に持った串にサッサと手早く刺して行く。屋台で見るシシカバブみたいな感じだ。


 ホレと差し出された肉の串を受け取った藤村に、白くいびつな形をしたビー玉くらいの大きさの石を手渡し、砕いて使えと言った。それが岩塩である事はすぐに分かった。当時の日本では岩塩をそのまま使うのは珍しい事だったが、カナダのこの辺りの街ではレストランにも普通に岩塩が置いてある。水も有料でサービスじゃないし、もちろん塩もお金を払わねば出て来ない。内陸であるこの地域では、海水からとる天日塩ではなく地層から出る岩塩を使う事は藤村も何度か見て知っていた。


「君は日本人だな?でも少し目の色が違う。ハーフか?」


「クォーターだよ。祖母がフランス人でカナダに嫁いたんだ。カナダで農場やってた祖父は日本からの移民だったって話さ」


「なんにしても感謝するよ。助けてくれてありがとう」



 肉にかぶり付きながら礼を言う。

他には誰も見当たらないところを見ると、このクォーターの青年が自分を吹雪の中から助け出し、この山小屋まで運んでくれたのだろう。


「アンタほんとに運がいいぜ。たまたま麓でマイケルに会ってさ。えらく動揺してるから理由を聞けば、今から山に置いて来た客を助けに捜索隊を出すって言うじゃないか。ブリザードの中に捜索隊なんか出したらミイラ取りがミイラになるのがオチだ。だからこうして俺が来たんだよ」


「まさか、あのブリザードの中をひとりで!?」


「ひとりじゃない。ジュリアとマリーを連れてさ。コイツらは俺が二年前に拾った子だ。母親は俺が撃ち殺しちまった。傷付き逃げて行った先の巣穴に、産まれたばかりのコイツらがいてさ、可哀想になって育てる事にしたんだ」


「でも、たとえ子どもの頃から育ててもオオカミは人には懐かないって言うぞ?何か特別な飼育法でもあるのか?」


「そう言われても俺には分からないな。普通に育てただけだ。それより、あと二時間もすればブリザードは止む。この小屋に迎えを寄こすようにマイケルに言っとくけど、以後ガイドの言う事はちゃんと聞く事だ。山をナメると簡単に死ぬぞ?」


 そう言って小屋を出て行こうとする青年に、藤村は慌てて声を掛けた。外はまだブリザードが吹き荒れている音がしているというのに、何を考えているのか分からない。


「オイ、まだ外は吹雪だ!それに、そんな格好でどうしようってんだよ? 五分も経たずに凍死するぞ!」


 Gパンに薄手のTシャツ、その上に少し厚めの革ジャンを羽織っただけの春先のような軽装で、青年は防寒着も身に着けずに外に出て行こうとしている。気でも狂ったんじゃないのかと思う程の異常さに度肝を抜かれ、彼が一瞬何をしようとしているのか思考が追い付かないまま硬直してしまったほどに驚いた。 


「大丈夫だ。俺が走り抜ける間は吹雪も止んでくれるはずさ。それに、俺は寒いのも暑いのも平気なんだよ」


 そんな馬鹿な話があるか!

山をナメると死ぬぞとか言ってる本人が、一番自然をナメてるじゃないか!


 藤村は声には出さなかったが、そう心の中で叫んだ。しかし、小屋の中には彼が着て来たはずの防寒着は見当たらないし、あるのは壁に掛けられ干してある自分の服だけだ。まさか本当に革ジャン一枚羽織って自分を捜索しに来たというのか?


 そんな事はあり得ない。もし事実だとしたら、それはもう人間業じゃないし、奇跡としか言いようがない。



「んじゃ、写真家さん。達者でな!」


 止めるのも無視して、青年は扉を開けた。

不思議な事に、今の今まで吹き荒れていたはずの風がピタリと止み、一瞬ではあるが外には静寂が訪れていた。目の前で何が起きているのか藤村には全く理解できなかったが、扉の向こう側には見たことも無い絶景な景色が眩い光を放ちながら広がっていた。一筋の光が天から降りて、ブリザードの分厚い雲を真っ二つに分断していたのだ。



「ま、待ってくれ! せめて君の名前を!」


 叫ぶと同時に豪と風が吹き、視界は再び雪のスクリーンに覆われた。風に煽られ尻もちを付き、痛ててと顔をしかめてから頭を上げた時には青年の姿はそこにはなかった。


 それらきっかり二時間後、ブリザードは嘘のように止んだ。雲の合間から刺す光のカーテンが地上を照らし、白銀の世界を眩いばかりに輝かせている。


 それは心を揺さぶる幻想的な風景だった。

藤村修一はカメラを握り、外に飛び出すと夢中になってシャッターを切った。ただひたすらにフレームに入ったその景色をフィルムに焼付け、興奮で上気した体からは大量の湯気を上げていた。自分でも信じられないが、マイナス18℃の中を上着を羽織っただけの軽装で写真を何十枚も録り続けたのだ。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




「藤村先生、おめでとうございます!」


「流石は我が国の誇る山岳写真家ですな。今回の個展も盛況で何よりです。東京にはいつまでご滞在で?」


 それぞれ祝いの言葉を口にしながら、カメラやマイクを向ける報道陣に囲まれた藤村修一は、笑顔をつくり質問に応えながら別の事を考えていた。三度目のロッキー山脈への遠征が天候に恵まれた事もあり、その作品群を発表した展覧会では過去最高の高評価を受けてテレビなどにも紹介された。


 しかし、自分の中にあるあの風景にはまだ遠く及ばないと藤村は思う。一瞬だけ吹雪が止み、時間さえも止まったような静寂の中に見たあの時の風景は、雲が裂け、地上に一本だけ太い光の柱が立って天と地上を結んでいた。ただの幻覚かも知れないが、その時の感動と衝撃が今も自分の作品に向ける原動力となっている。


 あの日、現地の案内人(ガイド)から聞いた話では、ブリザードの中でほんの数秒間だけ完全に風が止んだように感じる時が確かにあったそうだ。山にぶつかった風が渦を巻いてハリケーンの目のような無風状態を作り出すと言う。


 しかしそれは一生の内に何度も遭遇できる事ではなく、気象研究家の間でも公式には発表できるだけのデータが取れていない為、未だ幻の現象だと云われているそうだ。12年前のあの日、現地では確かに数秒間だけブリザードが止んでいたらしい。


 現地案内人のマイケルが救助隊を引き連れて山小屋に来てくれた時、その不思議な現象の事を話すと「君には山神の祝福があったのさ。ラッキーだったな!」と拳を前に突き出して来た。その拳に自分の拳を合わせるとマイケルは急に涙ぐみ、生きててくれて良かった!と強烈にハグして来た。


 ギリギリまで修一を待ったが帰って来なかったので、このままでは全員がブリザードに飲み込まれて死ぬと判断したリーダーのマイケルは、下山して救助隊を組み、再び撮影の為に設営したテントがある場所へと向かう事にしたのだと言う。だがそのとき偶然にも『化身』が現れ、俺が行ってやるから皆は山に入るなと告げてひとりで捜索に向かってくれた。



 彼に任せておけば全てが上手く行く。

いつも通り遭難者を救助した彼は、客は山小屋に入れておいたからブリザードが過ぎたら適当に迎えに行ってやれと言ってマイケルの前から消えた。


 彼については、三年前に来た不思議な日本人としか分からない。どこかの農場で住み込みで働いているらしいが、ハヤミという名前以外の事は何も分からないのだと言う。ふらりと現れ、いつの間にか消えている。そんな彼を、現地の人々は山神の化身と呼んでいた。


 精悍な顔立ちと、飄々とした雰囲気にそれなりに人気はあったが、あまりにも常識外れな『うわさ』ばかりが先行している事と、連れている二匹の雌オオカミが女性が近づくのを許さない為、人間の恋人などいないのではないかとの噂もあるそうだ。


 藤村修一は、今回の遠征で彼に会えるかも知れないと密かに期待していた。しかし、5日間の滞在中に彼に会う事は出来なかった。マイケルの話では数年前に日本に帰ったという噂があるという事で、もう10年以上も彼の姿を見た者は誰もいないのだと言った。


ーーー日本に帰ったのなら、何処で会えるかも知れない。


 そんな思いがあるが、カナダほどではないが日本も充分に広い。そんな都合よく彼に逢えるなどある訳がないと藤村は思っていた。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




「ねぇ先輩、仕事中ですよ? こんな写真展なんか見ながらサボってていいんですか? また課長に怒られますよ?」


「うるさいなぁ、お前は変な所で真面目だな? 別にいいんだよ。俺達は営業なんだから、ノルマさえ果たせば他の時間ナニしてようと文句を言われたりしないんだ!」


「そんな事を言って、昨日怒られたばかりじゃないですか! それに、あと2件も契約を取らないとノルマ達成になりません」


「真面目はいいが、真面目過ぎると嫌われるぞ?」


「何でですか! ボクは普通です。速水先輩が不真面目なだけですよ! それに、休憩するなら喫茶店にしましょう。写真なんか見てても喉の渇きは癒やされません」


「なんだお前、喉が渇いてたのか?

その角にウォータークーラーがあったぞ?」


「東京の水なんて不味くて飲めませんよ! カルキ臭くて鼻が曲がります。皆よく平気でごくごく水道水なんか飲めますよねぇ。ボクの味覚に東京の水は合わないんです!」


「田舎者が! 東京に来たなら東京の水に慣れろ。大阪のミナミなんてもっと不味いぞ」


「そんな不味いんですか?」


「都会で水道水が旨いのは名古屋だけだ。そんな事も知らないのか? もっといろいろな土地に行って仕事してみたら分かる」


「ボクの田舎は富山県ですからね。とにかく水が旨いんです。たぶん日本一じゃないですかね?」


「そうか? 他にも水が旨い土地はいっぱいあるぞ? 名水100選を全て周って、自分の舌で確かめないと何処が一番だなんて言えないと思うがな?好みもあるし」


「先輩は何処が一番だと思うんですか?」


「うん? 一番と聞かれると難しいな・・・」


 藤村修一は記者団との会話を終えて会場内を見渡していた。まばらに記者達の姿があるが、ほとんどの者はさっさと帰ってしまい、作品を褒めちぎったくせに写真を見て行く様子もない。事前に見ているのかも知れないが、全く見ずに仕事だから来たという者も少なくはないだろう。


 会場の中に、背広スーツに身を包んだ30半ばくらいの男と、いかにもフレッシュマンですと言った感じのスーツが似合わない若者が自分の作品を前に「水が旨いのはどの県か」という話題で盛り上がっていた。ほとんどの客が無言で写真を見ている中、喋っていたのは彼らだけだったので、自然に目がそちら側に向いた。


 彼らの会話に興味があった訳ではないが、あまり大きな声で写真とは関係のない話で盛り上がられるのも少し不愉快であった。若者の方は全く写真に興味があるようでもなく、先輩という男はただ外が暑いからエアコンの効いた会場に来ただけかも知れない。それに、彼らの会話はまだ続く様子だ。



「水が旨いといえば、こちらの写真にある山の麓にある村は水がやたらと旨かったな」


「ロッキー山脈って言えばアメリカ北部ですよね? 行った事があるんですか?」


「お前バカか? この写真はカナダ側だよ。このプレートにも地名が書いてあるじゃないか」


「英語は苦手です。読む気にもなりません」


「あっ、そう? まあ、興味がない人間には説明しても仕方ないよな。俺は20歳から3年間カナダに住んでたんだ。この山も懐かしいぜ。毎日この山から登る朝日を見て、反対側の山に沈む夕日を眺めながら生活したんだ。ジュリアとマリーは元気にしてるかな?」


「ジュリマリ? 彼女ですか?」


「いや。オオカミの名前だよ。俺はカナダでオオカミを飼ってたんだ。日本に帰る前に山に返したが、よく言う事を聞く可愛い奴らだった。お前とは大違いだな」


「また馬鹿な話を! オオカミが人間に懐くわけないでしょう? それくらいの事はボクでも知ってます」


 背中越しに聞こえて来たその会話に驚き、藤村はスーツ姿の二人の後を追おうと歩き出した。カナダでオオカミを飼っていたなんていう日本人が他にいるはずがない!あの時『山神の化身』と呼ばれていた青年が従えていたオオカミも、確か名前をジュリアとマリーと言っていた気がする。


「ま、待ってくれ! 君はあの時の・・・・」


 だがタイミング悪く、主婦のおばさん軍団が藤村とスーツの二人組の間に入り「中野フォトクラブ婦人会のメンバーです。先生、是非ともサインを!!」と囲まれてしまった。


 ちょっと取り込み中だからサインは後にして欲しいと説明し、おばさん軍団を掻き分けて二人の姿を探した。しかし会場内に姿はなく、反対側のエレベーターの方を見ると、ちょうど扉が開いて他の数名に混じり乗り込む様子が見て取れた。


「待ってくれ! 私は君にお礼がしたいんだ!」


 藤村は走った。しかし扉はそのまま閉じようとしている。


「ハヤミ! 君はあのとき私を助けてくれたハヤミではないのか!?」


 声に気づいてくれたのか、男は藤村の方を見た。あの時と変わらぬ不思議な光が、その瞳の奥に確かにあったように感じた。


 間違いない!

 あの時の彼だ!

 彼は日本にいる。東京の街に帰って来たんだ!


 自分を見つめるその瞳は澄んで限りなく優しく、何故か不思議な安心感を藤村に与えた。君の事は見ているから、これからも頑張れよと言っているように藤村には感じとれた。


 扉が閉まる瞬間彼の唇が動き、彼は確かにこう言った。


 んじゃ、写真家さん。達者でな! と・・・




イラスト追加のため数日いただく事もありますが、できるだけ毎日更新できるよう努力します。応援下さると今後の活力になりますので、ブックマーク、ご感想など下さると嬉しいです。

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