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招かれし者【2】後悔


 開け放たれた扉の向こう、窓から射す赤い月の光が生み出す漆黒の影の中に眼光が浮かぶ。


 いつからそこに居たのか?

それは、明らかに怒気をおびて俺を見つめていた。嵐のような羊っ娘が去って、再び独りになった俺の姿をじっと見たまま動こうとしない。


「グルルルル」と、低い獣の唸りが聞こえてくる。

怒気は伝わって来るが、不思議と恐怖感はなかった。むしろ慈しむような暖かさすら感じた。例えば、子どもの悪戯を叱る母親のような、深い愛情を彷彿させる眼差しだった。


 何者なのだろう?

この感情の波形を俺は知っていた。このような誰ひとり知らない場所で、誰がこのような視線を向けるというのか?


 その目は告げていた。


 貴方の事をよく知っていると。

 貴方の事を待っていたのだと。

 貴方の事を大切に想っていると。


 懐かしい目だった。再び逢うこと叶わぬ、遠き日の想い出の中でしか存在しない、深く優しい、そして厳し目だった。


 ・・・母さんと同じ目だ!


 15歳の春、俺は両親を失なった。

 交通事故だった。本当に酷い事故だった。


 逆走して来た高齢者が運転する車を避けてハンドルを切ったとき、反対車線には大型トレーラーがいた。そう警察からは聞いているが、ニュースなど見る気にもならなかったし、口伝えに聞いたに過ぎない。


 父と一緒に獣医として働く母は、いつも口うるさいくらいの厳しい母親だった。父が怒ることは滅多になかったので、子供を叱るのは母の役目だったのだろう。


 その役割分担に気づいたのは、両親の口げんかの現場を見てしまった小学3年のある晩のことだ。父さんは怒らないのに、母さんは何故いつも怒ってばかりなのだろう?自分の事が嫌いなのだろうか?などと悩んでいた事が一瞬にして解決した夜、俺は部屋に戻って大笑いした。笑いながら泣いて、泣きながら安心した。そしてまた笑いながら涙を浮かべた。親に好かれているかいないかは、子どもにとって世界で一番重要な事だからだ。


 本当の気持ちを知ったその晩以来、母さんが怒る事がそれほど気にならなくなった。怒らせて平気になったという事ではない。怒る理由が分かったから、愛しているから怒るのだと知ったから、以前よりも素直にその言葉を受け入れる事が出来た。しかし急に態度が変わる訳もなく、事故が起きたあの日の朝も洗濯物の事で母を怒らせてしまった。


 俺は野球部に所属していたので、練習着を毎日洗濯しなければならなかった。両親は白衣を着る。日に何回も着替える事もあって、仕事着と家庭のものは洗濯曾を分けていた。


 どうせ洗うんだから別に気にしなくてもいいだろ!っと、動物の体液などがついた白衣の入った洗濯曾に俺はたびたびユニフォームを投げ入れる事があった。家族の健康を気にしての約束事を理解していなかった俺は何度もルールを破り、その度に母さんに怒られた。


 もの心ついた頃から動物と一緒にいて彼らに囲まれ育った俺には、動物の体液や血液が汚ないという感覚がなかった。むしろ汚ないからと洗濯物を別にする母さんに反発しさえした。動物特有の病気などというものの知識がなかったのが原因だ。


 早朝から言い争いをして気分を害した俺は、いってきますの挨拶もそこそこに朝練に出掛けた。二限目の授業中に教頭先生が教室に現れ、俺に家族の急事を告げた。担任の吉橋と一緒にタクシーで病院に向かう中、事故に遇って重態で病院に搬送されたのだと聞かされた。病気で動かせない大型犬の診療のため、車で飼主宅に向かう途中での事だった。


 俺が到着したとき父さんは死んでいた。

母さんも虫の息で、救命救急センター(ICU )で機具に繋がれた姿を見ても現実として受け止められなかった。呆然と立ちすくみながら膝が震えて手足の感覚がなかった。ふわふわと床や天井が揺れながら波打つような気持ち悪い感じがいつまでも消えなかった。


 葬式が終わり墓の前に立っても、両親とはもう会えないのだという実感がまるで湧かなかった・・・それから夏までの記憶はほとんどない。自分が何をしていたかも、毎朝ちゃんと学校に通っていたかも覚えてなかった。


 母親の実家で不登校になった俺を、長野の叔父さんが姫城の実家に連れて行き、そこでの日々が俺を現実に引き戻してくれた。薄暗い部屋でしがみつきながら必死に生きて欲しいと泣く従妹が、俺の心を現実と向い合わせてくれたのだと思う。


―――なんて事だ。

ゆかりへの思いをこんなカタチで思い出すとは・・


 両親を亡くしたばかりの俺を、自分達の都合で奪いあい、歪み合う親戚の大人たち。速水と姫城家の間でただ跡取りが欲しいだけに、俺の気持ちなど無視してタライ回しにした連中。俺という存在を純粋に愛してくれる者は、もうこの世界には居ないのだと知った時の絶望感と孤独感・・・


 ゆかりはあの時の俺の心を見抜いていたのだろうか?


 俺を純粋に心配して泣くゆかり。

震える小さな肩を抱き、死なないから泣かないでと俺は誓った。両親との思い出が強く残るこの過疎の村で、俺はゆかりによって救われたんだ。


 利害を含まぬ純粋な気持ちとは、これ程までにありがたく、これ程までに暖かいのだとはじめて知った。自分を無償に愛してくれる者などこの世界にはいないのだと思い冷めて閉じてしまった俺の心を、ゆかりは彼女らしい方法で溶かし、温め、引き戻してくれたんだ。


 この時から俺はゆかりの事を愛していたのだと思う。兄弟のない俺は、ゆかりを本当の妹のように想い、愛していたのだと思う。


 野犬に襲われて怪我を負い右目の視力をほとんど失なった俺に、自分のせいだと負い目を背負ったゆかり。見舞いに来る度に謝り、涙するゆかりの悲痛な顔を見るのが辛くて遠ざけた俺。もう来なくていいと告げた時のゆかりの顔を思い出すと、今でも心臓がぐっと締め付けられるように痛む。


 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう?

 ゆかりはどれほど傷ついたのだろうか?


 他にも言い方があっただろうに、あの時の俺はあまりにも子供だった。リハビリでバーに捕まり歩く訓練をしていた時も、遠くでゆかりの視線を感じていた。もう来るなと言った後も、毎日のように通うゆかりの事を知っていて俺は会おうとはしなかった。


ゆかりは、自分のせいで俺が怪我を負ったと思っている。違うのに・・・ゆかりを傷つけたのはむしろ俺の方だ。


 あの日、俺は慢心で立ち向かった。

極限に空腹でなければ、犬が人を襲って食うなどという事はない。犬はただ、縄張りに踏み込んだ俺たちを遠避けようと威嚇して来ただけだ。犬はどれも、それほどに痩せてはいなかった。ゆっくりと刺激せず、もと来た道を戻れば良かったのだ。


 結果、俺は重傷を負い、ゆかりの心に消えることのない罪の意識を植えつける事になった。あの頃の俺は、病院に見舞いに訪れるゆかりに対して、正面から向き合う事を避けていた。何かにつけて理由をつけ、この苦みから逃れようとする弱く卑怯な気持ちが頭の中に渦巻いていたんだ。


 そう、こんなふうに――――



 春に両親を亡くし、夏に右目の視力をなくした。

ぼくに関われば、ゆかりは必ず不幸になる。現に、こんなにも苦しんでいるじゃないか!


 この目は現代の医学では治せない。

主治医の先生がそう言っていた。この目が治らぬ限り、ゆかりはずっと苦しむだろう。気にするなと言ったところで悔やみ続けるに違いない。


 速水と姫城の家どうしが、この怪我をきっかけに更に不仲になり歪み合っているのを知っている。叔父さんや叔母さんがお見舞いに来た時、ことばの節々にそれを強く感じるんだ。


 速水の家はゆかりが僕に近づく事をよく思ってない。まるで疫病神のように疎ましく思っている。側にいれば、ゆかりへの風当たりはいっそう厳しさを増すだろう。お互いがお互いを想う事で互いを不幸にするならば、それはもう呪いと同じだ。どこかで断ち切らなければならないんだ。


 僕は怖い。

速水の人達が、ゆかりにとんでもない要求をするのではないかと怖くて仕方ない。あの人達なら網膜をよこせとか平気で言うだろうし、特にあの爺さんは何をするか分からないんだ。


 ゆかりは近くに居ちゃいけない。

必ず不幸になる。だから、もう忘れてくれ。病院にも来なくていい。いや、もう来てはいけないんだ!


――――と、


 そういう俺の考えも、今にして思えば自分かわいさの言い訳でしかなかったように思う。両家が破局状態にあった事も、賠償請求を考えていた事も事実ではあったけれど、きちんと話し合えば解決できた事はたくさんあった。


 この後、速水の家に入る事を条件に姫城の家に過度な要求をしない事を祖父に約束してもらい、姫城家とはいっさいの接触を絶つ事にした。当然、ゆかりとも退院した後も一度も会っていない。


 いろんな事が嫌になり、大学を中退して逃げ出すようにカナダへ飛んだ。関係を断っていたせいで、ゆかりが失踪した事や死についての情報が全く入って来なかった。日本では女子高生失踪事件としてニュースにもなったそうだが、その程度ではカナダで報道されたりはしない。ゆかりのお母さんから手紙をもらわなければ、日本に帰ったとしても知らずに過ごしていたかもしれない。


 俺は帰国し、ゆかりの墓参りをした。

葬式はとうに終わり、二日前に四十九日の法要を済ませた後だった。墓に遺骨は入っていない。発見された遺留品は返されたそうだが、骨らしき物が見つかったというのに良く分からない理由で返して貰えなかったという。


 仏壇には少し大人になったゆかりの写真があった。

線香に火を付け、手を合わせて冥福を祈った。あのとき俺は涙を流しただろうか?


 たぶん流していない。


 ただ唇を切るほどに噛み締め、物凄い怒りが込み上げて爆発そうな自分を必死に押さえ込んでいたように思う。


 愛した者は全ていなくなった。

もし神様がいるのだとしたら、なぜこれ程に辛くあたるのか?俺がいったい何をしたというんだ?なぜ全てを奪い去る!


 俺は運命を恨み、神を憎んだ。


 そして俺は、運命から逃げるようにカナダへ戻った。カナダの環境は、よほど自分には合っていたのだと思う。自然を相手に動物達と過ごすうち、俺はゆっくりと自分を取り戻して行った。


 俺は自然が好きだ。俺は動物が大好きだった。彼らに邪さはない。純粋にただそこにそうあるだけで、いつも正直で謙虚に生と向き合っている。


 カナダの人達も皆陽気で明るく親切だった。

数年が過ぎ、このまま農業をして生きるのも良いかと思うようになっていた頃、またも不幸な手紙が届いた。俺にとっては別にそれほど不幸という事でもなかったが、速水の祖父が急死したのだ。


 嫌いな爺さんだったが、速水の跡を継ぐ約束をしていた以上無視する訳にもいかない。日本には両親の墓もあるし、このままカナダにいたら里心がついて帰れなくなる。ちょうどいい頃合いなのかもな?と思い、日本へ戻った。


 祖父が死んで、直系男児の俺が速水家を継いだ。祖父は資産家だったので、かなりの財産を相続する事になったが、親族どうしの相続争いに気を煩わすのも嫌で、家の土地とその維持費のみを残してマンションなどは親族らで等分するよう告げて関わるのを避けた。親族とはその後も法事以外の場所で会った事もない。


 俺は速水家の人達が嫌いだった。

どうもあの価値観にはついていけない。江戸時代の初期から続く旧家らしいが、俺の知った事ではない。俺の代で終わりにしてやる。俺は結婚していないし、子供もない。いずれあの小うるさい親族達が死んだら速水の家と土地を処分して、あとはその金で悠々自適に暮らすのだ。


 子供なんて要らない。女も遊んでくれる相手がいればそれでいい。幸い不自由もないし、けっこうモテる。歳より若くみられるし、白髪ばかりか小皺ひとつも無い。それほど鍛えてもいないのに筋骨隆々だし、イケ面細マッチョのモテオくんだ。


 課長が俺に対し、必要以上にパワハラを仕掛けて来るのも、多分に俺の容姿が関係しているのは間違いではあるまい。女性関係のトラブルが、職を転々とする要因のひとつである事は否定出来ない事実だった。


 恋人は要らない。

 子供も要らない。

 愛情も要らない。


 俺を深く愛し、愛された相手は必ず不幸になる。


 父さん・・・

 母さん・・・

 ゆかり・・・


 だから、誰も愛さない。

 だから、誰からも愛されたりはしない。




 二十歳までに受けた心の傷は、頑ななまでに愛を恐れ、呪いという概念に取りつかれた不幸な男を作り出していた。だがそれが深き悠愛の情と渇望する家族愛の裏返しだとは、本人も気付いていなかった。正直に生きる事の素晴らしさを知ったのは、普通の日常を失ってからの事になる。





~~~~~~~~~~~~~~~~~


 俺は夢の中で不思議な体験をしている。


 そしてそれは、現在進行形で尚も続いている。

仕事で廃ビルを探索していたはずなのだが、非常口の扉をくぐると突然見たこともない巨大な赤い月が目の前にあった。


 そこには20年前に死んだ従姉のゆかりが立っていた。ゆかりは何かを告げようと俺に話しかけるのだが、その最中に塩の柱になって消えてしまった。


 気付くと場面は変わっていた。

 なぜか分からないが、俺の体は寝たままで動けない。なのに感覚や意識ははっきりとしていて、自分を少し上空から幽体離脱したような感じで眺めていた。


 そこに美女と美少女が交互に現れた。

彼女らが去ると、開け放たれた扉の向こうに俺を見つめる者がいるのに気付いた。


 明かに怒っているのだが、その目に懐かしい母の面影を感じた俺は、両親を交通事故で亡くしたばかりの頃の自分を思い出した。そしていつしかゆかりとの過去を・・・その当時に抱いていたゆかりヘの感情を、はっきりと思い出させることになった。



 なぜこうも心がざわめくのか?

 俺はとても大切な事を忘れている・・・

 そんな気がする。


 なんだ?

 なぜ俺は、こんなにも胸が苦しいんだ・・・



 引き裂かれるように胸が痛む。瞼に浮かぶゆかりの姿。あの頃と同じいたずらっぽい笑顔と、少しだけ大人びた優しく甘い声が言った。


「やっと逢えたね・・・お兄ちゃん」


 やっと?

やっととは、いつからを指しているんだ?

これが夢だとするなら、お前はなぜ俺の夢に表れた?

お前は何を伝えたかったんだ?


 最後に唇が動いてことばを綴った。


 思い出せ

 唇の動きを

 最後にゆかりが伝えようとした、その言葉を。


 体が熱い。

 バクバクと動悸が激しくなり、今にも心臓が裂けてしまいそうだ。だが、なんだ?重なるようにもうひとつの鼓動を感じる。動悸が激しくなるにつれ、その存在を強く感じるようになった。


 もうひとつの心臓・・・?


 そうだ!

 思い出したぞ・・・

 この感覚はあの時と同じだ・・・


 病院での事だ。

15歳の俺はお前に会って、何かを渡された。昏睡状態の俺の手を握りながら涙する11歳のお前ではなく、赤い月の晩に会ったお前に俺は会った。


 不思議な夢だった。

 お前は俺に橙色に光る玉の石を渡した。


 両の手を取って石を渡すと、それを俺の胸に押しつけた。光る石はスッと消えて、俺の心臓の隣でゆっくりと鼓動をはじめた。それを確認するとお前は頷き、何かを告げた。


 そうだ!

 同じだ!

 あの不思議な夢と同じように、お前は俺に同じことばを告げた。



 ワ・タ・シ・ヲ・ミ・ツ・ケ・テ



 そうだ!?

《わたしを見つけて》お前は確かにそう言った!



 バシッ!


 その言葉と、告げた時のゆかりの姿がはっきりと脳裏に浮かんだ瞬間、何かが俺の深いところで弾けた。


「う、ぐっ!?」


 途端、関を切ったように流れ込む感情の渦。


「これは・・・ゆかりの記憶・・・か?」


 ゆかりがどうしてここに居たのか。

 どうやってここで生きてきたのか。

 闘いと殺戮と尽きることなき恐怖。


 精神崩壊と隣り合わせのギリギリのところで踏みとどまり、その過酷な状況の中で、ただひとつの希望を支えに懸命に生きた16歳のゆかり。その20年間の感情と記憶がひとつになって、俺の心に流れ込んで来る。


「うわああああッ!!!」


 俺は叫んだ!

 頭を抱え、天を仰ぎ、

 大声で叫んだ!


「あああぁぁぁ!!!

 ゆかりぃぃぃ!!!」


 俺の体は白く発光し、景色の全てが光に包まれた。その俺の体から幾重にも重なる光の輪が飛びだし、壁を、城を、森を、山を突き抜け、大陸全土を走る不思議な感覚が完全なかたちで理解できた。世界の広さを知り、ここが何処であるか、その位置情報も一瞬で理解できた。そして・・・


「バシャッ!!」


 光の流出と同時に俺の躰は弾けとび、ベットの天蓋をも吹き飛ばして、壁という壁に粉微塵に砕けた肉の残骸とともに大量の血を叩き付けながら消し飛んでいた。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 赤く輝く巨大な月の交わりを経て、3日目の朝を向かえようと東の空がゆっくりと白み始めた頃、世界をひとすじ閃光が走り抜けた。それはほんの一瞬の事で、精神を研ぎ澄ませていなければ感知不可能な短い間の事だ。


「来た!!」


 声は魔王領内の各所でほぼ同時に上がった。


「フフフ、やっとお目覚めね?」

「いゃん、ダーリン。待ってたよぉ!」


 その波動をそれぞれに感じ取った魔王達はゆっくりと立ち上がり、それぞれの思惑を胸に皆同じ方に視線を向けた。大魔王の居城の隣に位置する、かつての暗黒のイヴが住まいとした離宮の方角を。


「ついに来たか!!」


 大魔王ゾーダは、玉座からユルリと立ち上がると隣に控えるチョロスに向かい言を下す。


「召喚は無事に成った。領民を一堂に集めよ。

チョロス、式典の準備だ!」


「は、直ちに」


「喜べ!史上最強にして最後のアダムの降臨だ!」


 同時刻、魔王領最南端に位置する山脈の、ひときわ高く雲を越え聳え立つ岩山の頂上に一匹の猿が禅を組み不動の姿勢のまま浮いていた。一瞬の波動を感知した彼は、口元をゆるめニヤリと笑う。


「来たな。この時を待っていたぞ!」


 その瞬間、猿から大魔王をも凌ぐ巨大なオーラがほとばしったが、瞬きする間に何事もなかったように消えた。


「いかん。いかん。オラもまだまだ修行が足んねぇ。嬉しくってつい、力を解放しそうになっちまった」


 その言葉も終らぬうちに、周りの岩山がガラガラと音を立てて崩れ出す。数本の岩山が完全崩壊し、その残骸が残った山の岩にぶつかり、ガツンガツンと音をたてて雲の下に消えて行った。


「ありゃりゃ、こいつはマズイな。またトトに叱られちまうぞぉ。下に集落はなかったよなぁ?」


 瞬きの如き一瞬の力の解放でこれだとしたら、この猿が全力を出したらどうなってしまうのか? 


 猿の名は孫悟空。猿王『孫悟空』である。


 見かけはそのままに猿だ。

だが、その体は鍛えぬかれた鋼のように硬く、そしてぶ厚い。筋肉の隆起が茶色の体毛の下からも分かるほどに盛り上り、それぞれを独立して際立たせている。


 顔には大きな傷痕が額から左頬へと走っており、その左の目は白く濁って機能していないようだ。隻眼の猿はゴリラよりは小さく、チンパンジーよりは大きい。身長にして170㌢程、体重は100㌔弱と言ったところか?


 目付きが鋭く、その動作ひとつには一分の隙もない。全身が動く凶器といった感じの肉弾戦に特化しているふうを想像させる容貌だが、実はそうではなかった。幻術を含め多彩な術を極めており、その能力は魔王達でも知らぬ者が多い。


「姫城ゆかり、オメェが言ってた史上最強の男が目覚めたぞ」


 彼女の最初の協力者であり、ともに三年近くを『賢者の心臓』を探し求める旅をした友人でもある。


「なるほどなぁ、一瞬だったがオラには分かった。だが、これは少し厄介かもしんねぇ。他の奴らにはわかんねぇぞ?」


 腕を組み、離宮の方を鋭く見つめる隻眼が光る。


「仕方ねぇ、約束だかんな。行ってやっか!」


 何が分かって、何が分からないのだろうか?

猿王は胴着を羽織ると帯を絞め、雲を呼んで乗り込むと凄いスピードで飛びたった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~


 俺は涙を流していた。

大粒の涙が、ボトボトとベットのシーツを濡らす。

俺は上半身を起こし、呻くように声を出して泣いていた。


 ゆかりが最後に何を伝えたかったのか分かった。

 塩の柱になる寸前、唇が動いてそれを告げた。


 ワ・タ・シ・ヲ・ミ・ツ・ケ・テ


 確かにそう動いた。


 ゆかりの事から目を背け忘れようとした日々。

お前はその事を言っているのか?それとも異世界に落ちたお前を見つけて、迎えに来て欲しかったのか?


 俺は混乱していた。感情が制御できない。

ゆかりは異世界に召喚されて、魔族と人類との戦争に巻き込まれていた。自分の出来うる最良の方法を探し、苦しみながらも必死に生きたゆかりの葛藤。それは少なくとも俺が想像できる範囲を大きく超えた苦痛を強いられる辛い毎日だった。


 圧縮されたゆかりの感情が一度に流れ込んだ事により、俺の自我は崩壊しつつあった。ぐちゃぐちゃに掻き回される感覚が脳から体に走り、全身を貫いた。そして耐えきれず、肉体は砕け散ったのだ。


 俺は死んだのだろうか?

さすがにあれでは生きてはいまい。現在の俺はというと、深い霧の中を歩いている。進む先に何があるのか、それはもう今は分かっている。


 しばらくすると霧が晴れて来た。


 目の前にはゆかりが立っていた。

赤い月の晩に会った姿ではなく、女子高生の制服を着ている。


「お兄ちゃん、久しぶりね?」


 ゆかりが優しく微笑み話しかけて来た。


「ああ、久しぶりだ。病院以来だから23年ぶりか?」


 ゆかりは表情を濁し少し苦しそうにうつ向くが、意を決したように顔をあげると俺の目を見た。


「私、お兄ちゃんに謝らなければならない事があるの」


「ゆかり、教えてくれ。俺は死んだのか?」


 ゆかりの表情から何を言おうとしているかを察した俺は、あえて話題を変えるように質問をした。


「いいえ。死んではいないわ」


「弾けてバラバラになってたぞ?あれで生きてたらさすがに退くだろ?肉片が集まって来て再生するとか?」


 それはナイナイと手を振りながら、ゆかりは表情を明るくしながら答えてくれた。


「飛び散ったのは表面だけだよ。下に新しい肉体が出来ているわ。本来はゆっくりと、日焼けした皮が剥がれていくみたいに1週間程かけて脱皮するんだけど、お兄ちゃんの場合は一秒にも満たないわずかな時間でそれをしたみたいだから、ああなってしまったのね。私も驚いたわ」


「脱皮?」


「魂と肉体では、この世界に順応するスピードには差があるみたいなの。肉体の方は召喚される際にこちら側に順応する形に、といっても初期設定の段階なんだけど再構成されるわ。でも魂はそう簡単にはいかなくて、召喚の規模で魂の用量がかなり違うから、魂が器に合わせて成長するのに肉体は邪魔なのよ。魂が充分成長し、肉体と同期すると召喚は終了するの。つまり、魂が肉体に定着するとき初期の肉体がそのサイズに合わせて再構成されて終了って事」


 ?マークを浮かべてないか、時おり俺の顔を窺いながら話しを進めるゆかり。先程の記憶が大量に流れ込んでいなければ、ついて行けない部分もあったが、おおよそ理解できた俺は頷きながら話しを進めるよう促した。


 俺は既にこの状況を夢だとは思っていない。

ゆかりの記憶を体験した事で、これが実際に起きた事なのだと理解したからだ。


 信じがたい事だが、ゆかりは20年前にこの世界に来ていた。そして、俺と入れ替わるかたちでこの世界から消えた。俺も20年後には同じ運命をたどる事になるのだが、ゆかりがそうならない為にいろいろと手を尽くしてくれたようだ。


 ゆかりの記憶が流れ込んで来た時は錯乱して気がふれそうだったが、今は不思議に落ち着ついている。やはりゆかりが何かしてくれたのではないだろうか?俺はこの疑問をゆかりに聞いてみた。


「うん。あのままだと精神的負担が大きすぎちゃうから必要最低限の記憶を残して、後はカケラに戻したの」


「カケラって『賢者の心臓』のカケラ?」


「そう。お兄ちゃんがこちらに来た時に渡したカケラに、私が今まで体験した知識がデータとして記録されているの。馴れれば必要な時に必要なだけ引き出して使えるけど、今はまだ無理みたいだから封印させてもらったわ」


「なるほどね。じゃあ、今こうして消滅したはずのゆかりと会話できているのはどういう事?」


「ここがお兄ちゃんの精神世界、個有空間だって事は分かる?」


「最初は分からなかったよ。死後の世界かなあ?とか思ってた。だけど今は分かる」


「これほど完成度が高い個有空間をいきなり形成できたのは少し驚いたけど、そのおかげで私の自我とお兄ちゃんの自我が混同せずにこうして会話できるのは凄くうれしいよ。今こうして話してる私は、カケラの能力を操作する為のOSみたいなモノなの。本物のゆかりではないけど、自我も記憶も本物だよ?」



 20年前にこちらの世界に召喚されたゆかりが、OSなどのPC用語を知っているのに少し驚いたが、リンク状態の今であれば俺の知識から理解しやすい言葉をチョイスして説明することも可能だと分かったので、すぐに疑問は解消された。ここでなら俺もゆかりに合わせて言葉を選ぶ必要はない。知識の共有は初めこそ戸惑うが、馴れてくると非常に便利だ。


「私を見つけてと言ったよね?あれは?」


「もう察してると思うけど、私を起動させるためのキーワードだよ」


 それでね、このカケラの事でお兄ちゃんに・・・と、言いかけたゆかりを制して俺は告げた。


「その事は言わなくていい。ゆかりは何も俺に謝るような事はしていない」


「でも、私があそこで渡したカケラのせいでお兄ちゃんは・・・」


 あそこでとは、俺が大ケガをして昏睡状態にある中学生の時をさしている。あの時の俺は完全な脳死状態だった。


 ゆかりは召喚の儀式の時に起こる超常現象を利用して精神界から時をさかのぼり、昏睡状態の俺に会いに来た。既に俺が次の召喚者として確定しており、ゆかりと存在を入れ変えるためのルートが確立している事を知っていたのだ。魔王達を説き伏せ、完全召喚パーフェクトリングを決行させた理由のひとつが、その時空ルートを作る為のエネルギーを確保するためだった。


 ゆかりはそこで、ある物を俺に渡した。

それが『賢者の心臓』の七つのカケラの内のひとつであった事が今の俺には分かる。このカケラの力によって俺は奇跡的に回復し助かった。でなければあのまま植物状態だったのだ。


 SF小説にある次元パラドックスが生じる条件に近い状況であったが、その点を上手く調整できたのは『賢者の心臓』が持つ修正力のおかげだ。しかし、その仕組みはゆかり自身も詳しく分かっていないようだった。ただこうすればいいという事が分かっていたに過ぎない。


 だが、そのカケラを持つ事により召喚のターゲットにされたのだとしても、感謝こそすれ恨むなどという事は絶対にない。しかし、ゆかりはその事に心を痛めていた。


 カケラを渡せば命は助かるが、その事で俺は召喚され、異世界で果のない闘いに巻き込まれる事になる。死ぬか生き地獄か、その選択をせねばならなかった彼女の心情を思うと、俺はあの時の軽率な行動を悔やみ自身を呪った。


「ここでならこれからも話せるのか?」


「そうね。お兄ちゃんがある程度『賢者の心臓』を使いこなせるようになるまでは存在できるかな?」


「その後は?」


「たぶん用済みって事で消滅してしまうんじゃないかと思う」


「そう・・・なのか?」


「そんな顔しないでよ。私はただのプログラムなんだし、もうこうなるのは何年も前に踏ん切り着けちゃってんだから。それに、1年や2年で私のデータが使いこなせる訳ないでしょ?時間はあるよ。それまでは仲良く一緒に頑張ろう!!ネ?」


 努めて明るく振る舞う彼女の気遣いに感謝しながら、俺はゆかりとしばらく会話を楽しんだ。知ろうと意識を集中すれば語らずとも分かってしまうのだが、今は久しぶりに再会した従妹のゆかりと喋りたかったのだ。その気持ちはゆかりも同じようで、ふたりは子どもの頃に戻ったようにお互いの事を語って聞かせた。


20年の空白を埋めるように・・・





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