プロローグ【1】
ぴき
ぱき
枝の折れる乾いた音が足元でする。
冷気が頬を刺し、風を切る音が耳を塞ぐ。
どれくらい走り続けたのだろう?
吐く息と心臓の音だけが異様に大きく鼓膜に響く。
村外れのバス停を曲がった先にある神社へと続く山道を、まだあどけなさが残る黒髪の少女が走っていた。
吐く息が白い。
夕暮れ近い時刻とは言え、夏にそれはあり得なかった。生まれ育った村の見慣れた風景が、まるで知らぬ異世界であるかのような違和感を少女に与えた。
「逃げても無駄だ」
遥か後方に置き去りにしたはずの声が、耳元のすぐ後ろで聞こえて来た。振り返る余裕はない。限界を越えて走り続けた為に、痛めた脚の感覚もすでに無くなりつつあった。
―――あれは何!? どうして私を追いかけて来るの!?
声を振り切るように走りながら、突如現れ、執拗に追い掛けて来る影の正体について考えてみた。しかし、それが何であるのかを知る手段もなく、知識もない。超常現象など経験した事もないし、そもそもオカルトとか苦手だった。
―――助けて! 助けて・・・お兄ちゃん
頭に浮かんだ青年の顔。
それは、子どものころ彼女を救う為に命を掛けて戦ってくれた想い人の姿だった。どんな窮地も救ってくれる彼女だけの騎士が、記憶の中で微笑んでいた。大丈夫だと励ましてくれ、任せておけと大きな背中で語ってくれた。
―――お兄ちゃん! お兄ちゃん!
しかし、叫びは届かない。
彼がこの場に現れる事もない。
彼はいま日本には居ないのだ。そうとは知ってはいても、奇跡を願わずにはいられなかった。あのときと同じように、絶望的な状況を覆す奇跡を。
「終わりだ。手こずらせおって」
再び声が聞こえた。 今度は背後からではなく、目の前に広がる何もない空間から聞こえて来た。
「今度こそ逃がしはせんぞ!」
視界を塞ぐほどの巨大な影が前方にあらわれ、彼女の影を呑み込んだ。大きく拡げた腕が、震えて動けなくなった少女の肩に触れんとする。
その時、それは起こった。
シャンシャン!
シャンシャン!
―――この音は・・・あの時の?
少女は見た。
不思議な鈴の音と共に現れた2つの輝く光りを。
光りは踊るようにリズムカルに動きながら、次第に人のかたちを作って行く。
「おのれ、忌々しい奴だ! またしても邪魔をする気か!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
今日で高校生活最初の夏休みも終わり、明日からは新学期がはじまる。山を二つ越えた隣町にある全寮制の進学校に通う少女は、また暫く一緒に遊べなくなる親友の美代子と門の前で別れの言葉を交わしていた。
「じゃあね美代子。次に戻れるのは再来月の16日だから予定あけといてよ。彼氏とのデートで忙しいとは思うけどさ」
「なに言ってんの。姫のこと優先するに決まってんじゃん! あたしを誰だと思ってるの? 姫の大親友、美代子様だぞ!」
笑い合い、そして別れるふたり。
姫と呼ばれた少女は、親友が視界から消えるまで見送ると、屋根瓦にびっしりと苔が生えた古く重厚な家の門をくぐった。
門に扉はあるが、閉めたことろを見た事はない。まるでお寺の山門にある扉のように分厚く重そうな木製のそれは、江戸時代より以前からずっとこの屋敷を守って来た。
時代は代わり、武家屋敷の表門としての役目を終えると、今はサビついて閉められる事もなく只そこに在るだけだ。彼女の家は広大な私有地を持つ村一番の旧家だった。古びた門から玄関までの距離は軽く40㍍はあり、大きな飛び石が点々と敷かれた通路の両脇には、色鮮やかに咲く花々や、手入れされた松などの庭木が立ち並んでいた。
少女は庭を抜け、ひときわ大きな庭石の隣にあるこれまた年代物の引戸を開けて家の中に入った。
ーーーえ!?
閉めて振り返り、ただいまと言いかけて少女の体が凍りつく。すぐ目の前に何かが居た。黒くずんぐりしていて大きかったので、はじめは熊が入り込んだのかとも思った。だが違った。それがゆっくりと立ち上がると、人の姿をしていると分かった。
ーーーお、大きい!?
その人型は、見たこともない程に大きかった。
胸の中ほどで天上と重なり、それより上の部分は隠れて見えなかった。
人のように見えるが、人ではない。
あまりにも大き過ぎる。それに、影には実体がないようだった。その証拠に、天上が壊れた様子はどこにも見当たらない。どう見てもこの世のモノに見えなかった。
―――幽霊なの?
それはノロノロと、まるでコマ送りの映像を見るようなスピードで動き出した。少しづつ動きが早くなってきたと感じられた矢先、いきなり頭上を大きく黒い塊がブンと音を立てて通り過ぎた。それが拳だと分かったのは、立っている場所から2㍍ほど離れた位置で止まっていたからだ。
少女を狙って放たれた黒い影の拳は、デホルメでもされているかのように不自然に巨大であった。仮にこれが実体であったなら、今ので家屋は半壊し、少女も無事では済まなかったに違いない。壊れた柱や梁の下敷きになり、運が悪ければ死んでいた。
普通の女子高生だったら、尻餅をついて恐怖に震えながら泣き出したに違いない。しかし彼女は違っていた。 踵を返し、ダッと駆け出した少女の背中を声が追う。それは、地の底を這いまわる討ち捨てられた亡者が絞り出したような、怨念の隠った禍々しい声だった。
「逃・さんぞ! お前だけは、なん・・ても殺さ・ば」
低く聞き取りにくい声。
電波の悪いラジオから聞こえて来るような途切れ途切れの音の中に、はっきりと“殺す”という意思が伝わって来る。
少女は逃げた。
途中で何人もの村の人とすれ違ったのに、誰も少女の事を振り返りもせず、注目もしなかった。巨大な影はもちろん自分の姿も見えていないのだろうか?
―――これは夢? 私は夢を見ているの?
あまりにも無関心な様子に、その可能性を考えた。しかしそれは絶対にない。先程まで一緒に遊んでいた美代子との会話や、駅の向かいにある喫茶店で食べたケーキの味、今日という時間の全てが夢だなんて考えられなかった。夢にしてはリアル過ぎるし、矛盾も感じなければ、場面がとりとめもなく変わる事も一度もなかった。
―――何よこれ? いったいどうなってるの!?
ズン、ズンと地響きを立てながら追いかけて来る影は、思ったほどに速くない。自分の足でも充分に逃げきれると思えた。それが間違いであった事に、走り出して2分もしないうちに気付く。視界から消え、引き離したと思って一息つくとすぐ近くに忽然と姿を表すのだ。
影は走っていない。ただ大股で歩いているだけなのに、逃げ切る事が出来なかった。走り続けているうち民家は消え、目の前には村外れのバス停にある停留所の屋根が見えてきた。
この場所には嫌な思い出があった。
だから、バスを利用する時はここより倍近く時間のかかる役場前まで足を運んだ。親友の美代子の家がその近くである事もあって遠回りしているのを意識することはほとんどなかったが、ここに来るのは本当に久しぶりの事だった。
バス停の左手には鬱蒼と繁る森が続き、小高い丘を登った先には神社の跡があった。かつて社があった場所にはコンクリート製の小さな祠が建てられ、御神体の銅製の鏡が焼け爛れた姿で納められている。
少女が産まれた年、16年前の嵐の日に雷が落ちて社を焼いた。完全に焼失した跡に奇跡的に遺された御神体の成れの果てを祠を造り祀ってはいるが、神主がいる訳でもなく、再建の話も出ていない。信神深い人がたまに手を合わせに来るのみで、普段は人の寄り付かぬ淋しき場所だった。大昔に神隠しがあったという噂のせいか、神聖なる神社であるのに心霊スポットと言われていた。
天宇受賣命を祀っているとも云われるが、確かな事は何も知らない。火事の時に全てが焼けてしまい、役場や寺などにも歴史的資料は無く、ただ口伝として残るだけで誰が建てたのかも分からないという話だった。
影から逃げるうち、少女の足はいつの間にか神社に向いていた。理由などなく、ただ必死だったのだ。だが不思議な事に、坂の手前にある最初の鳥居をくぐって神社の敷地内に入ると、影は目に見えて歩みを鈍らせた。みるみる引き離し、視界から消えても再び近くに現れる様子がない。神の結界というものが本当にあるのだとしたら、まさにそうとしか考えられない現象だった。
少女は心の内で神様に感謝しながら足を止めた。むちゃなペースで走り続けて限界が来たのか、脚がプルプルと震えて軽い痙攣を起こして力が入らない状態だった。
「情けないぞ私! この程度で走れなくなるなんて、中学でキャプテンだったなんて先輩の前では言えないよ!」
中学生の時は長距離走をやっていた。
本当は短距離がやりたかったのだけれど、先生にお前は長距離向きだと強引に駅伝メンバーに入れられてしまった。親友で幼なじみの美代子も、彼女の友達だという理由で陸上部に入れられ、同じく駅伝のメンバーとされてしまった。
そのとき美代子からかなり真剣にブーイングされたが、同じチームで襷を渡し他校と争っているうち、面白味が出てきて真剣に打ち込むようになった。いつしか二人は、駅伝黄金期を支える主要メンバーになっていたのだ。
二年の秋にキャプテンを任せられ、後輩たちを引っ張って指導しながら頑張って来た彼女だったが、高校に入学した春からは普通の一年生部員だ。中学と高校では体格も違うし、根本的に基礎体力レベルが違っていた。
―――あの影は何だったんだろう? もう追って来ないみたいだけど、振り切ったのかな?
神社に続くこの道は、緩やかな登り坂になっている。距離にして約3キロの女坂だった。男坂の方は夏祭りの時に盆踊りの会場になる広場から続く急坂で、そのほとんどが古びた石で出来た階段だった。
広場の先には役場や交番があり、最近はマンションも建ったりして、ちょっとした建築ブームに乗りそれなりの賑わいを見せている。少女はこのまま社跡の祠まで行き、階段を降りて町に入ろうと考えていた。人目がある場所まで行けばなんとかなる。そう思っていたのかも知れないが、自信があった訳ではない。先ほどと同じく、他のひとには見えない可能性もあるからだ。
「逃げおおせると思うなよ。娘ぇぇ」
今まで途切れ途切れだった声が、はっきりと聞こえた。大きな漆黒の影が坂の下から姿を現わし、ゆっくりと登って来る。
―――まだ追って来てる!? もう走れないよ・・・
重い足を引き摺り再び逃げようとした時、それは起こった。ぎちちち、と空間を引き裂くようなカン高い音が頭に響き、気温が急速に下がって鳥肌が立った。まるで真冬なみの寒さに震えが止まらない。
脚が・・・動かない!?
自分では走り出したつもりでいたのに、全く動いていなかった。一歩を踏み出した体勢のまま、体がぴくりとも動かない。ゆっくりと近づく影の気配が背後でするが、全身にまとわり着く見えない力に縛られ逃げる事が出来ない。
シャンシャン
シャンシャン
少女の耳に音が響いた。
シャンシャン
シャンシャン
―――これは・・・鈴の音?
体が動いた。どこからか聞こえて来た鈴の音を聞いた途端、嘘のように重苦しい空気が消えて再び走り出した。
「ええい、またか!」
背後で声がしたが、それを気にしている余裕はない。
「助けて! 誰か助けて!」
少女は走った。
痙攣する脚の痛みをこらえ、ただ懸命に走った。
助けを求める少女の脳裡に、温かな光を瞳に宿した青年の姿が浮かび上がる。少女が最も信頼し、絶対的好意をよせる唯一の存在の笑顔が彼女の心を支えた。
―――お兄ちゃん!
実の兄ではない。だが本当の兄のように慕い、小さな頃からずっと想い続けて来た。もし彼がここに居てくれたなら何も恐れる事はない。なぜなら、彼は人智を超えた凄い存在なのだ。この危機的状況も笑い飛ばすように解決してくれるに違いない。それが当然であるかの如く、本当に普通に、絶対的安心感を抱かせて。
少女の中にある青年像は、妄想も相まって劇的に美化されていたが、少女にその自覚は全くない。彼ならば何でも出来ると本気で信じていた。事実彼は、死んでから蘇ったのだから。
―――お兄ちゃん、助けて!
「逃げても無駄だ。あきらめろ!」
すぐ背後で声がした。振り向く勇気はなかった。そのまま走り続け、祠の姿を遠くに確認したと思ったその時、前方の景色が不自然に歪んで巨大な二本の腕が現れた。
黒く太い腕が見えない扉をこじ開けるように左右に動く。すると暗闇が現れ、その闇をくぐるように二本の角が現れた。続いて頭が、そして肩が、遂に全身が姿を表わす。
少女は見た。正面に立った影の全貌を!
身の丈にして約4㍍弱。なぜ全身が影で覆われているのか分からないが、影の向こう側にうっすらと実体らしきものが見えた。鎧兜を身に付けた武者のようだった。角に見えたのは兜飾りだったのだ。
「終わりだな」
影の向こうで、武者の笑う気配がした。
電柱よりも太い二本の腕が逃げ道を塞ぐように拡げられ、巨体がゆっくりと少女に向かって動き出した。体が竦み、動けないのを嘲笑うかのように、ゆっくりと時間をかけてジリジリと近づいて来る。
―――私、死んじゃうのかな? 兄ちゃんにもう一度会いたかったな・・・
シャンシャン
シャンシャン
逃げられないとあきらめ身を縮めて目を閉じた時、先ほど聞いた音が再び少女の耳に聞こえてきた。たくさんの鈴を一度に鳴らすような響きの集積音。神前で行う結婚式や祭りの時に、巫女が舞う手に持っている鈴がたくさん付いた木が奏でるような、涼やかで清んだ音がシャンシャンと聞こえて来る。
すると、どうした事だろう?
今まさに肩に触れんばかりに迫っていた巨木のような腕がピタリと止まり、鎧武者の巨体が震えはじめた。苦しむように体を捻り、何か見えない力に抵抗しているようにも見えた。
そして少女は見た。
シャンシャンと鈴を奏でたニつの輝く光を。
それはまるで舞うように流れ、交差し、近づいては離れを繰り返しながら一定のリズムで鈴を打つ。 ひとつがシャンと鳴らせば、続くひとつがシャンと鳴らし、透き通るように凜と響く鈴の音は一拍子の狂いもなく完全なるハーモニーを奏で上げる。
シャンシャン
シャンシャン
シャンシャンシャン
「おのれ、またしても邪魔をするか!」
音を払うかのように腕を振り回すが、鈴を奏でる光は更に耀きを増しながら武者の周りを踊るように回り、音の拍子を徐々に上げていった。
鈴だけでこれほど複雑な合奏が出来るとは信じられぬ程に、反響と止めを複雑に組み合わせた美しいメロディが周囲の空間を埋め尽くしていく。
シャンシャン
シャンシャン
シャンシャンシャン
どれ程の時が過ぎたのだろう?
一瞬であるとも、一時間は経ったとも感じられる不思議な感覚が少女を包み込んでいた。決して不快ではなく、なぜか懐かしく優しい気持ちになった。それは、鈴の音の作用であったろうか?
「クソ! また時間切れか・・・
覚えておれ! お前だけは、必ず殺してやる!」
そう言い残すと影は跡形もなく消えてしまった。プツンとスイッチを切ったテレビ画面のように、嘘のように呆気なく消えてなくなったのだ。
シャンシャン
シャンシャン
正確なリズムを刻んでいた鈴の音が、少し間を空けてからシャン!と合わせて大きく鳴った。すると不思議な光りもスウッと消え、周りには嘘のような静寂が訪れた。風の音も虫の声も何もない真の静けさが周囲を包んだ。
ひとり残された少女の瞳に涙が浮かぶ。
胸が熱くなり、自然に涙がこぼれ落ちて止まらなくなった。それは恐怖からではなく、安堵からでもなく、不思議に幸福に満たされた気持ちからくる熱い涙だった。理由は分からないけれど、自分が何者かに護られて今こうしてここに居るのだと確かに感じられた。そしてその感覚は、数日間ずっと続いたのだ。
不思議な体験から一ヶ月後の日曜日、少女は再び神社の祠に足を運んだ。彼女の死が報じられたのは、行方不明となったその日から半年が過ぎ、発見された遺留品とともに回収された白い粉が、地上では再現不可能な超高熱で焼かれた人骨であると判明してからの事だった。
そして物語は、20年後と進むのだ。
プロローグ【1】を読んでいただき、誠にありがとうございました。お気づきの方もおみえになるかも知れませんが、この作品は復刻版です。原作のデータは事故により削除されてしまいました。
以前連載していた続きから読みたいという方の為に、『続・召喚から始まる俺の明るい家族計画』も掲載する予定です。そちらの方はタイミングを見て連載再開致しますので、今後とも宜しくお願いします。