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第一章 あやしい食堂

一章 あやしい食堂


 子供の頃哲也には奇妙な癖があった。奇麗なものを見るとそれを口にまで持っていかないと気が済まない。彼の記憶にあるのは日の光を透かしてキラキラと玉虫色に輝くビー玉。哲也は手のひらの上で転がしているうちに催眠術にかけられたように、ユラユラ恍惚としてくる。ビー玉の表面に反射する光は、行ったり来たりちらちらと哲也の目の中に入る。

「この硝子玉の中に入ってしまいたい。」

哲也は気がつくと口に入れるいなや噛み締める。するとたちまち歯にするどい痛みを覚えた。その後歯医者に泣きながら連れて行かれた哲也は、すぐに祖母からビー玉を取り上げられた。けれども哲也はまだ寂しくなかった。

 次は哲也の家の庭に鮮やかに咲いていた、甘い香りのする薔薇の花。またもや哲也は口に入れずにはいられない。決まって後になると喉につまった花びらにむせ、涙を流しながら嘔吐するのだが、それでも懲りず小学校三年生の春まではこの癖はやめられなかった。そして十八歳の平岡哲也は薔薇は夢の中でだけ見る。

 哲也が祖父の反対を押し切り、京都で先祖代々呉服商を営む平岡家から東京の大学に入学し、初めての梅雨が来た。

哲也の父親だけは大学進学は賛成で、経済的な援助はしてくれたものの、一人暮しの開放的な気持ちもつかの間、炊事洗濯まるで駄目の、初めての一人暮しの彼がとりわけ困ったのが毎晩の食事だった。哲也はもともと食が細い上にアレルギー体質であるのに、食生活が変わったせいか東京に出て来てから、三ヶ月で体重が七キロも落ち、バイトも休みがちになりクビになった。社交的になる元気も出ず、友人も大学ではまだ一人しかできなかった。

「平岡あーー、料理が上達する前にこのままじゃ栄養失調だぞ。適当にそこいらの店で食えばいいじゃねえか」

美術史専攻の哲也だったが、大学の一般教養科目の時間は守田と近い席に座る。同じ中央線沿線上に住処を持つ友人の守田に、哲也はそのつど

<そうではないのだ、食品アレルギー。特に卵と油が合わないんだ>

などという細かい話をするのも情けなかったが、やはり恥を捨てて聞いてみるものであった。しかし京都で育った哲也には、この東京の友人との普通の会話では、いつも叱られているように違和感を感じてしまう。普通の会話なのに。

「馬鹿野郎、じれってえなあ。はじめに東京のことはなんでも俺に聞けって言っただろ」

とりわけ東京生まれの守田の遺伝子に組み込まれてしまったのだろう、この「馬鹿野郎」という言葉。まるで料理の最後に振り掛けないと気がすまない、味の素調味料のように使われるこの言葉。哲也はどうしても馴染めない。しかし、そんな哲也の気はおかまいなしに、守田は大きな声で笑いながら、大柄の身体に似合わぬ小さな目を細めた。哲也は裏表のない守田の明かるさがその都度ありがたいものだった。世話好きな守田にまた哲也は助けられた。

「そんな店があったなんて、僕は気がつかなかったなあ」

背丈だけは守田には負けない哲也だが、横目で自分のと守田の胸板の厚さを比べると、まるで高校時代からアメフト選手で鍛えてきた守田が、牛肉100パーセントのハンバーグステーキだとしたら、自分は豆腐で作った肉なしハンバーグなと思った。


 守田の話では、哲也のアパートがある中央線のN駅周辺には、学生にはうれしい値段も手ごろな飲食店が数多く並び、その中には無添加で、安全で、進歩的な自然食品の食堂もかなりの割合で存在しているのだと。しかし、そんなことには哲也が気づくはずもない。看板を見ても、どれもこれも同じ店に見えてしまうのだから。京都の町のように整然と区分けされていない、雑然とした町を歩くことは哲也には不得手で面倒で、ついアパートの前の弁当屋の揚げ物のたくさん入ったお弁当で毎回手軽に済ましてしまうが、おかげでますます胃腸の調子が良くない。

 親切な友人の守田は駅から店までの地図を書いてくれた。

「ビルの地下だ。駅から歩いて行けばすぐわかる。ここは俺の中学の友人の親の古い店で、見かけによらず食い物は結構うまかった。無農薬の野菜しか使わない、油も塩も天然にこだわるだの何だか言ってたから。おまえに合うんじゃないか?絶対行けよ、あとで俺が電話入れといてやるよ、今度俺が帰って来るまでにはちゃんとしてろよ」

そう言い終わると守田は、アメフトの合宿にでかけて行った。哲也は駆けていくまぶしい友の後ろ姿を見つめながら、自分も早く回復して新しいバイトを探さなければと思った。哲也はさすがの守田も心配せざるを得ないほど、衰弱していた。いかにも低体温な色々な意味でお寒い大学生。哲也は自分の体力が落ちているせいかだろうか、今日はいつになく守田が暑苦しく感じた。


 まだ夕食の時間には早い夕方五時頃だった。哲也は守田の話を聞いてからというもの、頭の中は夕飯のことしか考えられずに待ちきれない。友の話を信じるところによると、久しぶりに安価で安心して腹一杯に食べられる。そう思うと急に空腹を感じた。守田がここにいないのが残念だと思った。

 地図のとおりにあるくと駅のすぐ側に地下に食堂のあるビル。しかし扉をあけて入った店は、守田から聞いた食堂とはかなり印象が違っていた。まだ誰も客のいない無機質な白い壁の店内には、それより更に白いテーブルクロスのかけられた七つの四角いテーブルが並び、店内には角の隅に背の高い観葉植物がひとつあるだけで、カレンダーもなければテレビもない。空気清浄機が稼動する音だけが、静かな店の中に響いていた。哲也は高校の頃に通院した整体の医院を思い出した。壁にメニュー表は貼られておらず、楊枝や調味料などの瓶すら置かないテーブルに、隅に小さくメモが貼られているのみ。しかし一応ちゃんとメニューはあるので読んでみると。

「朝餉 A・B 昼餉 A・B 夕餉 A・B」

一行だけ書かれていた。少し変わっているとは怪しむけれど、とりあえず空腹な哲也は席につく。すると先ほどの入り口のドアの鈴の音が聞こえたのか、店の奥から店員らしき三十歳くらいの、世間慣れしていないせいか多少若く見える化粧けのない女性が静かに現れた。

「あら、はじめましてこんにちわ。えっと、、ごめんなさいお名前は、、」

彼女のその笑顔に邪気はなかった。

「平岡哲也です。」

「守田君の紹介で来ました。」

哲也はそう言えば、一品くらい増えるだろうかという期待を込めて、一言付け加えるのを忘れなかった。

「平岡さんですか、、守田さんの紹介でって?ああ、そうですかごめんなさい。何も知らず。今日はもお夕食ですか?ではとりあえず一度召し上がってみてください」

女性は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐに疑問は心の中で消したようだった。そして哲也は一枚のアンケート用紙と小さくちびた鉛筆を渡される。名前と住所、そして身長と体重に食べ物の好き嫌いは当然のことながら、下の欄には太枠で

囲まれて「近頃のあなたのお悩みは?」と書かれてある。思わず哲也は胃腸の不調とバイト探し、と馬鹿正直に書いてしまう。何故かこのときは、詳しく書けばそれだけおいしく丁寧な食事が出てくるように思ったのだ。

「ご協力ありがとうございます。お水はセルフサービスなので、あちらでどうぞ」

見ると部屋の隅にコーナーがありポリタンクが並んでいる。レストランと違うのは、水しか置いていないところ。そしてこのポリタンクには、哲也には見慣れない銀色の渦巻き模様のシールが星型に並べて数枚貼られていた。それはキラキラと部屋の光を反射していた。

女性が哲也の書いたアンケート用紙を持ち、店の奥に入ってから15分くらいしたところで、ようやく食事が出てきた。そこで初めて食堂らしい温かい匂いが広がった。

「哲也さんの体質に合ったメニューです。ここの料理は肉は使わないし、油も最低限しか使いませんから、半年も召し上がれば、身体中の血液がとても奇麗になりますよ。」

そう女性に優しく言われ、食事を口にするとますますその気になってくる。哲也はこの際、菜食主義になろうかなどと思いはじめていた。

(綺麗な血はどんな色をしているのか。いつかはこの不思議なポリタンクの中の水のように透明になるんだろか?)


 京都育ちの哲也の口には、薄味で淡白なこの店の食事が合った。特別おいしいとまでは思えないが、何しろ安心して食べられることが魅力で、しばらくこの店に通うことに決めた。ただ不満なのは、ふと思えばここの料理は、全てが学校の給食のように質実剛健で飾りのパセリなど決してつかず、地味すぎることだった。しかしそれもまた、この店内の殺風景な様子からすればバランスの良いつりあいだと思った。家から歩いて10分くらいの距離で、しかも安価で毎日ありつける店は他にはない。そして健康のためにはそんな贅沢など言うまいと、哲也は考えた。

 哲也がそろそろ食事が終わりかけたころ、店内にも夕飯に 夕餉AかBを食べに来店するらしい常連客が増えて来た様子。けれども、いたって変わらず店内は静かだった。彼らは申し合わせたように、気配を殺したように沈黙したまま静かに食事をするだけ。たとえ連れと一緒に店に入り、向かいあってテーブルについても口をきかない。万が一しゃべるときはとても小さな声でささやくような声で会話する。しかしこの晩哲也は、それら揃えたように地味な服装の店内の客たちに気がつかないまま、満足して店を出た。哲也に店内の様子を観察する余裕が出てきたのは、毎晩この店に通いはじめ胃痛も治りかけて来た一週間後。そしてその頃には哲也はもう、この食堂の奥の事務所で簡単な電話応対など事務のバイトをさせてもらえることになっていた。

「早速僕の悩みは消えた。すごい偶然だ。」

そしてこの店の経営理念と健康に関するビデオを、夕食の前に決められたとおりに一本見ると、その後の夕食が無料になる。そして哲也はそれら全てを実行し従った。

 もうすでに、この時点では彼も、この店の独特な異質な空気、普通の飲食店ではないことを察し、この店が飲食店ではなく、「支部」と呼ばれていることも、そして店内で食事をする客は、「支部」では「同士」と呼ばれていることも知っていた。それは合宿から戻り久しぶりに会った守田から話を聞き自分の勘違いに気がつく前に、薄々わかっていたことだった。

「悪かったな。実は店は三年前に隣のO駅に移転しているそうだ。」

 それからも哲也は自分の意志でこの「支部」に通い続けた。人は、自分に都合良くタイミング良く来る運命の波の誘惑には弱いもの。その次にまた大波が息をひそめて待ち構えて津波のように飲み込もうとしていることなど、つい見逃してしまう。哲也は一石二鳥でバイトも見つかり、最初に店でアンケートに書いた悩みなどとりあえずこれで消えた。哲也は何でも良いから早く健康を取り戻し、そして自分も守田のように暑苦しい大きな声で言えるようになりたかった。

「僕もこれからバイトに行くんだ。じゃあね。」

哲也は波に乗ってしまった。どこへ運ばれるのかもわからないまま。


 それから一ヶ月たった頃、哲也は肉食と塩分を極端に減らしていたせいか、さらに自分が植物的になっていくように思えた。そして哲也にはなつかしいあの、薔薇の夢が見えるようになったのもこの頃からだった。胃腸の方は大分具合が良くなり体重も増えてきた。しかし、近頃奇妙な憂鬱が哲也の頭の上に、重い厚地カーテンのように静かに下りて来るように感じることが増えていた。この舞台の緞帳のようなカーテンの重さは、友人の守田にも感づかれるようになり、そしてついにカーテンは、哲也と唯一の友との間を区切る頑固な扉となった。扉は哲也が「支部」に行くたびに大きくなり、今ではロダンが彫刻した「地獄の門」さながらに複雑な彫り物と共に成長していた。

「おい哲也、大丈夫か?あそこは変な、普通ではない、団体の経営する店だと噂だぜ」

守田には、近頃妙に言葉の端々が強気で、自信に満ちた目の輝きの、それでいてつきあいの悪い哲也が不可解だった。近頃は一般教養科目の授業のときもバラバラで座ることも多い。

「守田君、君はあくまでもそう言う自分の考えが正しいと言えるのかい?普通ではないとは、何と比較して普通ではないと言うのだろう?」

哲也は、あごを引いたまま、不自然に背筋を伸ばして、そして心の中ではあの地獄の門さながらの、開かずの扉の前に立ちはだかった。その姿勢は、いまだに薄いままの自分の胸板を強調する姿となったが、哲也はすでに自分の胸板の存在など忘れている。

「守田君。君も肉や油を食べるのをやめたらどうだろう。きっと今よりも血も綺麗になるし、賢くなれるよ」

それは守田にはできない注文だった。彼の生家は都内に手広くチェーン店を展開している焼肉料理店である。守田は哲也に見下されたように感じ、不愉快だった。

「俺はごめんだねえ。まあ君はせいぜい綺麗に、そして益々賢くなってくれ」

そして守田は哲也の不自然に輝く目を見てすぐに、これはしばらく長引く問題だぞ、厄介だ。と理解した。

(こういう場合、周囲が無理やり説得したり脅しても、逆にかたくなになるから逆効果だと聞いたことがあるぞ)

守田には哲也のその頑強な心の扉の鍵は、哲也が決して自分だけの力で閉めたものではないと分かっていた。守田には、哲也の心の中に突如出現した扉を撤去する方法がわからなかった。大きく哲也の心の中にそびえ立つ大きな扉には、数多くの言葉の彫刻がなされている。それは守田も、そして哲也本人も気がつかない。それは支部でビデオを毎日見るたびに刻み付けられていく複雑な模様。もし哲也や守田に読み取れるとしても残念ながら、おそらくこの言葉だけであっただろう。

「あくまでも、天使でも。我々が一番正しい」

哲也は友人の心配もよそに、支部で仕入れた健康うんちく話を話せば話すほど気分はますます昂揚していった。

(今日の守田はやけに素直じゃないか。俺の綺麗になったオーラがまぶしく感じているのだろうか?こいつにもあのビデオを見せてやたいものだ)

哲也の脳裏にマークが見えた。支部で見るビデオは最後には必ず、あの水が入ったポリタンクに貼りけられたシールと同じ模様の、星型に並んだマークが出てきた。哲也は目をつぶると今もこうして思い出すことができる。支部ではパワーマークと呼ばれている大切なものであると信じられ、最近は哲也も信じていた。シールは一枚300円である。

 勘違いした哲也には守田が以前よりも小さく見えた。そして自分にはない守田のもつ、むさくるしいまでに精力的な、若々しい生命力にも、もやは嫉妬は感じなかった。


「それより守田君。最近何か変わった夢でも見たことあるかい?」

哲也が最近支部で見せられたビデオの題名は「夢と健康」というもので、人に会うたび講義の間でも、夢の話をせずにはいられないほど関心が強かった。すぐに哲也は自分が支部長に言われた言葉を周囲の人を相手に再現したくなるのだが、守田ときたら全く関心なさげで、つまらない顔をしてすでに講義の終わった講堂を出る支度をし始めた。

「俺は、毎日練習でクタクタで筋肉痛で、眠っても夢なんて見ないなあ」

哲也はこれでは話が合わないと思った。もともと守田と自分とは体質が違うのだろうかとつまらなく思った。

「まあどちらにしても平岡、、大学にはちゃんと来いよ。でもあそこで変なもの買わされたり、無駄な金を使うんじゃねーぞ」

すると守田は帰り際に軽い男同士の挨拶のつもりで、何気なく哲也の背中を鍛え上げた分厚い手のひらで叩いた。哲也はその瞬間だけまるで憑き物が落ちたように、久しぶりに自分の薄い身体を思い出した。しかしすぐに不快感が沸いて来た。

哲也はその不愉快さをすっかり守田のせいにした。自らが持たない爽やかさ、青年が当然に持つところの覇気の無さを棚にあげて。




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