ほろ苦く ほの甘い
明日はバレンタインデー♫という事で、バレンタインにまつわる短編を…。
ガラガラガラ…
遠慮がちに開けられた教室のドアから現れたのは、ここに来るはずはないと思っていた少女だった。
「あれ?今日は浅井くんひとり?」
「なんで八重山?……他の奴らはたった今、昼メシ買いに行ったけど?ほら、4限終わる前に行けば選びたい放題だからさ。」
「そっか。じゃあ買ったら戻ってくるよね。」
彼女、八重山 麗は、笑顔でそう言うと、俺の座る席のひとつ前の席に座った。
高校3年生の3学期。
1月に学年末試験が終わってしまえば、3年生に授業は無い。本来なら登校する必要もないのだが、教室は自習室として解放されていて、希望者は学校でも勉強する事が出来る。
俺は、家も近いし、何より自宅の自室では、漫画やゲームといった誘惑も多いので、自宅学習日となっても毎日登校していた。
休み時間や、空き時間であれば、先生に質問が出来るのもメリットだったし、仲の良い友人達も数人、学校に出てきている。わざわざ登校する奴らだから、勉強の邪魔をする奴などおらず、時々お互い教え合い、頑張る姿勢に刺激を受けながら勉強出来る。
人の気配や、問題を解く鉛筆の音に慣れておく事も、試験対策として必要だ。
俺にとって、受験勉強するのにはとても良い環境なのだ。これを活かさない手はない。
学校へ今もこうしてやって来るのは、俺と同じような事を考えている奴らだけ。つまり、まだ受験が終わっていない奴らばかりだ。
ところが、姿を現した彼女はそうではない。彼女はもう進学先が決まっていて、受験勉強などする必要などないのだ。
なのに今日、なぜ彼女はここにやってきたのだろうか?
「八重山、進路決まってるだろ?今日はどうした?」
「専門学校に提出する書類をもらいに来たの。ついでに結城の姐さんのお手伝い。『暇ならついでに手伝え』って呼び出された。」
結城の姐さんとは、我が3年3組の担任、結城先生の事だ。生徒思いのとても良い先生なので、皆が親しみを込めて「姐さん」と呼んでいる。
八重山は、真面目で優しくて、良く気の利く生徒だったから、結城の姐さんは勿論、クラスメイト達にもよく頼られている。しかも、ものすごく可愛い。
そんな八重山がモテないはずもなく、憧れている奴はたくさんいた。高嶺の花だ。
望みは無いと分かっていたが、俺はそんな八重山に密かに好意を抱いている、大勢の中の1人。
彼女には好きな奴がいる。
彼女をずっと見てきた俺は、彼女が片思いながら恋をして幸せそうな姿も、彼女が彼を見つめて頬を染める姿も、彼女が彼に恋人がいる事を知り傷付いた姿も、思いを断ち切れず苦しむ姿も見てきた。
彼女へ気持ちを伝えるという選択肢はこれまで無かったし、今も無い。
伝えたところで、彼女を困らせてしまうだけだし、伝えてどうするというのだろう?それ以前に何て言うんだ?
好きだから付き合ってくれとでも言えば良いのか?付き合いたくない訳ではないが、それはなんだか違う。畏れ多いというか、俺と彼女ではどう考えたって釣り合わない。
ただ、仲の良い友人として彼女を笑わせ、その笑顔を近くで見る事が出来れば俺は満足なのだ。……何より、俺がそれ以上を求めてはいけない気がしていた。
彼女は、真っ白で無垢なのだから…。
彼女は、憧れなのだから…。
『仲の良い友人』という関係が、もどかしいけれども非常に心地良いのだ。
しかし、もうすぐそれも終わるだろう。
俺は必ず志望校へ合格し、この街を離れる。
そして、提携している英語圏の姉妹校へ2年間留学するのだから。
きっと、物理的に離れることが出来れば、きっと彼女への思いなど忘れる事が出来るはず。
それで良い。
これ以上彼女に執着するのはやめよう。
きっと、このまま思い続けたところで、何も変わらないのだ…。それに、好きでもない男にずっと思い続けられているなんて迷惑だろうし。
「今日って浅井くんと貴子の他に誰がいるの?」
「俺と中村の他?康介と啓……博之…委員長とオガちゃん、それから女子は長野 雪子くらいか?」
「浅井くんと貴子でしょ?山内くんと岡崎くん、冬田くん……委員長と小川くん、それからユキちゃんだね。ありがとう。」
彼女は紙袋の中からチョコレート菓子を取り出した。桜の絵がプリントされ、受験生向けのゲン担ぎのネーミングとなった期間限定のパッケージ。
俺の伝えた名前を復唱しながら、パッケージ裏面のメッセージ欄に皆の名前を書いている。
「今日ってバレンタインでしょ?せっかくだからみんなに差し入れしようと思って。はい、これ浅井くんの分。」
とびきりの笑顔でチョコレート菓子の箱を差し出す彼女に胸が高鳴る。
嬉しい。すごく嬉しい…。だが、それと同じくらい、いや、それ以上に苦しかった。
彼女のその笑顔の理由に気付いてしまったのだから…。
俺が伝えたある友人の名を聞いた途端、彼女の表情がぱぁっと明るくなったのだ。
冬田 博之……。
彼に恋人がいると知っていてもなお、そんな表情をしてしまう彼女を見るのは辛い。
博之は本当に良い奴だ。口数は多くはないが、頭が良くて面白くて、優しくて、友達思いで…俺もかなり世話になっている。
しかも、顔も性格も男前で、運動神経も良いとか、彼女が惚れるのも仕方ないと思う。
仕方がないと分かっていても、苦しいものは苦しい。
『浅井くんの笑顔が見られるのを信じてるよ。試験頑張ってね!浅井くんなら絶対大丈夫☆うらら』
読みやすい綺麗な文字を見たら、その苦しさは半減し、甘く幸福な何かで心が満たされる気がした。
「八重山、ありがとな!この通りになるよう頑張るぜ!」
笑顔で頷く彼女はやはり美しかった。
4限の終わりを告げるチャイムが鳴るとすぐ、購買のパンを買いに行っていた友人達がガヤガヤと俺と彼女のいる教室へ戻ってきた。
「麗ぁ!会いたかったよぉ!!」
「麗ちゃん、久しぶり!元気だった?」
「あれ?八重山じゃん?」
「八重山、久しぶりー!なに?俺にチョコレート渡しに来てくれたのか?」
「啓の為の訳ねぇだろ?俺の為だって。」
「委員長、それもナイって。な、八重山。」
彼女を見つけた途端、友人達は集まり、なにやら楽しそうにしている。彼女も笑っている。しかし、そこに彼女が思いを寄せる博之の姿は無かった。
「みんなの分あるから安心してよ。」
そう言って、彼女は皆にメッセージ入りのチョコレート菓子を配り始めた。
「マジで!?これ、入試当日に食うわ、八重山ぁ、マジでありがとう!」
「勿体無くて食えねぇ…。」
「麗ちゃん、ありがとう!私もこれ試験直前に食べるね。」
「なんか受かる気してきた!」
「うわっ、貴子だけなんか違うもんもらってんじゃん?俺にもちょっと分けてくれよ?」
「こーすけにはあげないよ?これは私がもらった麗からの本命チョコなんだからね!」
ワイワイ騒ぐ友人達。委員長とオガちゃんも俺と同じなのかもしれないとは以前から薄々気付いていたが、やはり間違いないようだ。
委員長もオガちゃんも、彼女に渡されたチョコレートのパッケージに書かれたメッセージを読みながら、心底嬉しそうな表情で頬を赤らめて固まっていたのだから…。
彼女の手元にはチョコレート菓子の箱がひとつ。
それに気付いた康介が声をかけた。
「八重山、それは?」
「さっき浅井くんに冬田くんもいるって聞いたんだけど…。」
「博之ならさっき帰ったよ。」
「彼女に呼び出されて、一緒に勉強するんだってさ。今日バレンタインだもんな。いいよな、彼女がいる奴はさぁ。俺も彼女欲しいぜ…。」
「その前に受験な、俺も啓もさ…。」
「康介、その位分かってるって。八重山、博之は彼女のチョコがあるから、それを俺にくれ!」
「ちょっと、岡崎くん…チョコが欲しいからって必死すぎて笑えない…。」
「ユキちゃんの言う通りだよ、岡崎くん。来年はチョコくれるような彼女がいる『大学生』になれてるといいね〜。」
康介に博之は帰ったと言われた時点で、彼女の表情は一瞬陰りを見せた。それに続く啓の言葉はあまりにも残酷で、俺は心配で仕方なかった。それでも、笑顔を崩すまいと必死に取り繕ったような彼女の笑顔。
彼女の親友の中村も心配そうに彼女の顔を見つめている。
「ごめん、私姐さんに呼び出されてるんだった。みんな頑張って!じゃあねー、バイバイ!」
「麗、私も姐さんに用事あるから一緒に行くよ。」
最後まで、必死で笑った彼女に気付いたのは俺と中村だけだったらしい。
他の奴らは、皆笑顔で手を振るとまた雑談を始めていた。
***
図々しくお調子者の俺は、昔からバレンタインにチョコレートをもらう機会が割と多かった。もちろんその大半が義理チョコという類のものだが、中には手紙付きとか、高そうなチョコレートや手作りのものだって無かった訳ではない。
しかし、18年間生きてきて、彼女からもらったこのチョコレート程嬉しいと思えるチョコレートは無かった。
100円ちょっとで買えるチョコレート、しかもそれは俺だけでなく、その場にいた皆がもらっていたものだというのに…。
俺は委員長やオガちゃん、長野 雪子がすると言っていた様に、試験当日にそのチョコレートを食べた。
休憩時間の度に、パッケージに書かれた彼女のメッセージを眺めてから試験に臨んだのだが、びっくりするくらい調子が良くて、かなりの手応えを感じた。
俺は無事、志望校に合格し、卒業式にそれを笑顔で彼女に報告する事が出来たのだった。
残念ながらそれ以来、10年以上彼女に会うことはなかった。
俺の願い通り、彼女への思いは少しずつ薄れていった。そしていつしか彼女は、ほろ苦くて、ほの甘い、初恋の思い出と共に過去の憧れの人となっていた。
だが彼女からもらったあのチョコレートの箱は、入試以来ずっと、俺にとってお守りの様な役割を果たしていた。
***
「浅井さん、今日バレンタインっすよ。」
「バレンタインねぇ…。」
「なんか興味無さそうですね……。」
「興味無いって言うか…お返しが面倒くさい……。」
「浅井さん…何気にモテ自慢っすか?」
「仕事関係の人からしかもらえねぇし…どうせ義理とか付き合いだろ?とはいえちゃんと返しとかないといけないしさ…。結構金額も馬鹿にならないもんなぁ…。そういう付き合いで高いチョコ幾つももらうより、例え100円の義理チョコでも好きな子に1個だけもらう方が嬉しいな……なんて思ったり。」
「もしかして昔、たくさんもらった本気のチョコより、好きな子にもらった100円の義理チョコの方が嬉しかったって実話っすか?」
「本気のチョコなんてそんなにもらってねぇよ…。だけど100円の方は実話…だな。もう12年も前の話。高3の時だ……あるじゃん?ゲン担ぎで桜のパッケージのチョコ。箱に手書きで『試験頑張ってね!』的な事が書いてあって…もらったの俺だけじゃなかったんだけど、30年生きてきた中であの時のチョコが1番嬉しかった。試験に持って行ったら、すげぇ調子良くて…合格してからも箱捨てられなくてさ、就職試験の時にもお守り代わりにしたりして。社会人になってからも辛い時とか、頑張らなくちゃって時にそれ眺めたら不思議と頑張れたんだよ。だけどあれ、どこいっちゃったんだろう…」
12年前、そのチョコレートをくれた彼女とは1ヶ月と少し前に再会した。
再会する前に、辛いことがあったせいですっかり痩せ細ってしまっていたが、それでもなお当時の面影を強く残しつつ、当時よりもずっと美しくなった彼女に俺はまた惹かれていた。
最後にあの箱を見かけたのはいつだっただろうか…。
年末の大掃除の際には見かけた気がしないでもない。どこかに紛れ込んでいるのか…もしかしたら処分してしまったのかもしれない。
処分してしまったとしても、それはそれで仕方ない。
そもそも、12年も前のそんな箱を今でも持っている方がおかしいのだから。
ただ、その12年間は無駄ではなかったと思う。
色々な事を経験して…良い事だけでなく、たくさんのトラブルや理不尽なこと、辛い環境にも身を置いて俺は成長しているはずだ。
だから、今の俺なら友人としてでなく、彼女の隣にいたい。一人の男として彼女を支え、守りたいと思う。
かつて、彼女は高嶺の花で、仲の良い友人ではあるが手を出せない憧れの人だったが、今はそうじゃない。
彼女は間違いなく、俺を男として認識していてくれているし、距離だって少しずつ縮まっている。
いつか、彼女に伝えよう。
あの日、彼女からもらったチョコレートがきっかけで、俺は成長できたのだと。