本屋は生きている
十八歳
最近読んだ本は占い本。
そんな私・桜木は春波書店という本屋でアルバイトをしている。
もちろん私は本が大好きだ。好きでなければ本屋にバイトなんてしない。
「で、その占い本には何が書いてあったの?」
シフトに入る前、この本屋の店長に私は訊かれた。この店長は結構スパルタで、この本屋に勤めて一週間で既に私は三回ほど怒られている。
「『あなたの運命の相手は年下男子』って書いてあったんです」
「なによそれ。ほぼ二分の一の確率で当たるじゃない」
店長の口調は厳しく、少し怒っている様子だった。彼女は適当な本が大嫌いなのだ。「もっと細かいことは書いてなかったの?」
「『あなたが運命の相手と出会うのも結婚するのも、年齢が四の倍数の時でしょう』くらいかな」
はあ、と彼女は溜息を吐いた。「そんな本を売るとは。その本屋、死んでるわね」
店長は出来の悪い駄作的な本などを自分の店に置くことを嫌う。この本屋はそこそこ大きいんだけど、正社員で手分けしてほとんどの作品に目を通し、どれを店に置くのかを決めているのだ。そんな昭和の職人的な古い考え方だけど、私は嫌いじゃなかった。
「でも私がその占い本買ったの、この本屋ですよ」
そう言われると店長はプライドを傷つけられたからなのか、自分の本屋を殺してしまったからなのか、顔を赤くして怒った。「誰よ! その本に目を通して採用したの! 今すぐ首にしてやる!」
そんなカンカンな店長を見て笑っていると、「ほら! もうシフトの時間でしょ! 早く行きなさい!」と私まで怒られてしまった。
「は~い」
「『はい』は伸ばさない!」
「はい! ごめんなさい!」
「いらっしゃいませ」
私はレジでお客さんにお金を貰い、引き換えに本にカバーを付けて袋に入れて渡した。
お客さんは基本的に「ありがとう」とも言わない。でも、本が好きと言う共通点を持っているというだけで私は十分に嬉しかった。
今は夕方で、お客さんが一番多い時間帯だ。暇な時はレジをひとつしか使わないけど、今は二つとも稼働させている。
「ありがとうございます」私の隣で先輩が男らしい渋い声を出した。
先輩もここのアルバイト。私は大学一年生で、彼は三年生だ。
先輩のレジ打ちの手さばきやカバーを付ける速さは、見ていて心から気持ちがいい。私なんてその二倍は時間がかかってしまう。
それに、先輩の渋い声は耳触りが非常によかった。思わず耳を瞑って聴きたくなる。
これって恋なのかな。
私は時々思う。
でも、そんなことを真剣に考えさせる暇なんてなく、次のお客さんがやってきた。
「いらっしゃいませ、お預かりします」
私の前に立った女性はおなかが膨れていた。妊婦さんだ。
彼女が私の前に置いた本は赤ちゃんの育て方の本だった。
ほっこりするなあ。
「1260円になります。カバーはおかけしますか?」
「いいえ」その声は無愛想なものではなく、とても優しい響きがあった。
こういうお客さんは嬉しいね、と思いながら私は赤ちゃんの育て方の本を袋に入れ、きっちり1260円受け取った。「丁度1260円ですね」
いいお母さんになりそうだ。
私は袋を渡し、ニコッとほほ笑む。「ありがとうございます」
すると、妊婦さんも「ありがとうございます」と小さくお辞儀して微笑んでくれた。
その笑顔はとてもかわいらしく、私は思わずドキッとしてしまう。
妊婦さんが本屋を出るのを思わず私は目で追いかけてしまった。
彼女の笑顔が頭の中に浮かんできた。すごくいい笑顔だ。
脳裏に焼き付いてしまったなあ。
また来てくれないかな、と嬉しくなりながらも私は次のお客さんを迎える。
「いらっしゃいませ」
十九歳
私は少し前に気付いた。やっぱりこれは恋心なんだと。
最近、先輩を見る度にドキリと心が揺れてしまう。心臓がバクバク鳴ってしまう。
これはやっぱり恋なんだ。
私は、先輩のことが好きなんだ。
「ありがとうございます」私は目の前のお客さんの会計を終え、お辞儀をする。
アルバイトとして働くことになって一年が過ぎていた。
私はもうすっかりこの春波書店の仕事に慣れている。今になってもスパルタ店長には時々怒られるけどね。
すると、本屋にお客さんが入ってきた。
あっ、と私は思わず声に出してしまいそうになる。
あの妊婦さんだ。でも、おなかはぺたんこになっている。
出産したんだ。赤ちゃんの顔見たいなあ。きっとかわいいんだろうなあ。一緒にここに来てほしいなあ。でも、さすがに赤ちゃんを本屋に連れて来ることはなさそうだから、もうしばらく後になるかな。
彼女は、私が初めて会った一年少し前から何度かこの本屋に来ていた。もしかしたら彼女も私のことを認知しているのかもしれない。
ここ数週間見かけなかったけど、入院してたのかもしれない。
今はあまり忙しい時間じゃない。なのでレジには私ひとりしかいない。
早く来てくれないかなあ、と私の足は忙しなく跳ねたがっている。
他のお客さんふたりを対応した後、彼女が来てくれた。足の跳ねは押さえられたけど、心の跳ねは押さえられない。
「いらっしゃいませ」私は私的な感情を封じ、いつもどおりの笑顔で接客する。でも、もしかしたらいつも以上に自然な笑顔になっているかもしれない。
彼女は子育て雑誌を買い、いつものかわいらしい笑顔を私に見せてくれた。
「お疲れさまです」
シフトが終わり、私は控室に入った。そこには先輩がいた。
「おつかれ、桜木さん」
一週間でこの時間、この数分だけ、私たちは二人きりになれるのだ。
胸がドキドキと高鳴る。今ならピンク色の吐息が出そうだ、と思えるくらい私ははっきりと先輩が好きなのだ。
その時、私が一年前に買った占い本のことがふと頭によぎった。
『あなたの運命の相手は年下男子』
店長の言う通り、あんなのはでたらめに決まっている。結局誰があの本を春波書店に置くのを採用したかは分からなかったけど。
「あの、先輩っ……!」
次に先輩と二人きりになれる一週間後まで、私の心臓はもってくれる気がしなかった。デートに誘うなら今しかない。
「映画とか好きですか?」
初デートは映画がベストだと、この前買った恋愛必勝本に書いてあった。
「映画? 好きだよ。よく見る」
やった!
でも、実際は先輩が映画好きであることは既に知っていた。二人になる機会は少なくても、聞き耳を立てる機会ならたくさんあるのだ。
女って恐ろしいね。
「『うちの家具は喋ります』っていう映画見ましたか?」
この映画は家具が喋るというコメディ映画だ。デートに最適な映画は明るいコメディものだと、その恋愛必勝本には書いてあった。
もちろん、三日前に先輩がこの映画を見に行きたいと言っていたことも聴き耳を立ててリサーチ済みだ。
「その映画まだ見てないんだよね。すごく見たいんだけどさ」
よし、と私は一段一段実感を積み重ねていく。
「実は、その映画を友達と見に行こうと思ってチケットを買ったんですが、その友達が急に行けなくなって」
嘘だ。最初から私は先輩と行くために二枚買っている。
そして、明日先輩に何の用事もないことも、三日前に聞き耳を立ててリサーチ済み。
「もしよかったら、一緒に行きませんか?」
ついに言ったぞ、私! よくやった!
心臓が今まで感じたことのないくらいボンボンと鳴り響く。この二人きりの静かな控室では、まるで大太鼓みたいに大きく響いてしまうんじゃないかと心配になる。そんなくらいに私の心臓は高鳴っている。
「……ああ、ごめん」
先輩は苦そうに片目をつむり、言った。「明日彼女とデートでさ」
「え?」
そんなバカな。先輩に彼女がいないこともリサーチ済みのはず……。
控室が、一瞬にして何の音もない静かな空間になった。
「先輩って、彼女いたんですか?」
「昨日、できてさ」
昨日……!
「明日が初デートなんだ。ごめんよ、桜木さん」
もし、あと一週間早くデートに誘っていれば。
後悔先に立たず。まさに、そんな気分だった。
「あ、そうだったんですね。おめでとうございます」
必死にビジネスの笑顔を私は作る。そうでもしないと、今にも泣き崩れてしまいそうだった。
二十二歳
「桜木ちゃん」
春波書店の控室に入ると、店長に手招きで呼ばれた。「はい」
「もう四年生よね」
「はい」
私は一か月前に大学四年生となった。つまり、来年から社会人なのだ。
「うちに、正社員として入らない?」
「正社員ですか?」
まだ私は就職先が決まっていない。といってもこれから決めようと思っていたところなんだけど。
そんな時の店長の言葉に私は迷うはずがなかった。この書店が大好きだし、離れたくない。一日中本に囲まれて生活したいくらいだった。
でも店長は「答えはまだいいから、しっかり考えていてちょうだい」とお店に戻っていった。「もちろん正社員になった暁にはびっしりしごくから覚悟しておきなさいよ」
あ~、それは怖いなあ。
店長は厳しい。それはバイトであろうが正社員であろうが変わらないけど、正社員にはバイトを世話する役目が与えられるので、「世話の仕方がならん!」「あんた人の上に立つ覚悟あるの?」などと怒られる機会が増える。何度も見たことがあるからよく分かるのだ。
それでも、誰も店長を嫌ったりしない。何故なら店長は春風書店の店長として全く抜かりがないからだ。
今は平日の夕方で、そこそこ忙しい。レジも二つとも機能している。その片方に私は他の人とついた。
この曜日のこの時間は私と先輩が同時にレジを打つ時間だった。でも、もう隣に先輩はいない。このバイトをやめて他の企業に就職したのだ。
私と彼の『職場の仲間』という関係は、メアドひとつでなんとか繋がっている。でも、メールはほとんどしていない。先輩がここをやめたのは去年の十二月だったから、前にしたメールは多分「あけましておめでとうございます」だったはず。
私はまだ先輩に恋をしている。自分でも驚くくらい「私って粘っこいな」と思うけど、先輩のことを考えるだけで胸がキュンと高鳴ってしまうのだ。
ふられて三年もたったのに、「先輩と付き合っていたら」という妄想話を家具に話してしまう時がある。でも『うちの家具は喋ります』みたいに家具は私の問いかけに答えてくれない。そういえばこの映画のDVDを私は何回見たのだろう。先輩が隣にいる妄想をしながら十回以上はにやにやと見たかもしれない。
「いらっしゃいませ、お預かりします」
流れ作業のようにしては駄目、と店長によく言われるけど、忙しい時はやはり流れ作業のようになってしまう。私は業務的にお客さんの本を受け取った。
絵本だ。
私もちっちゃい頃これ読んだなあ、と思って顔を上げるとお客さんはあのお母さんだった。
「あっ、すみません」思わず私は心の声を漏らしてしまった。
「どうしたんですか?」
当然の反応だと思う。
「いや、なんでもないです。すみません」
そうして頭を下げた時、彼女の隣に小さな女の子がいるのが見えた。
か、かわいい。
やっと会えたね、と私は流れ作業的じゃない自然な笑顔を浮かべていた。
二十五歳
私は春波書店の控室で本を読んでいた。と言っても趣味で読んでいるのではなく、仕事で読んでいるのだ。
この本屋では店に置く本を正社員で決めている。二年前に晴れて正社員となった私はこの作業に参戦することになったのだ。それで私は本を読んでいる。
でも、一週間で発売される本の数なんて嫌になるほどある。それを全部読むわけではなく、確固たる人気を誇る作家の作品などは飛ばしているのだ。
私が今読んでいる本の作者も初めて見る名前だった。『風よ、私を導け』という至ってノーマルな設定なファンタジー小説だけど、会話や文体がユニークで面白い。こういう新鮮な出会いがあるのも春波書店の店長が頑固なおかげだ。
「そろそろ、準備しようかな」
私は本にしおりを挿み、立ち上がった。少し背伸びをし、軽くストレッチをする。今から私がする作業はレジではなく、本の陳列だ、これはなかなか体力を使うから少し億劫なのだ。
「あ、桜木さん」
私が背中を伸ばしていると去年からバイトでこの本屋にやってきた町田くんが控室にやってきた。
「あ、お疲れ」
「お疲れさまです」
「シフト終わったの?」
「はい」
町田くんはすごくいい子だ。絵に描いたように真面目というか、いじめがいがあるというか。
「お疲れさま。次は明後日かな?」
「はい」
「じゃあ、私は仕事行ってくるね」
私は最後に深呼吸をする。
「はい。あ、あの……」彼はおどおどと言った。
「どうしたの?」
「桜木さんって、彼氏とかいらっしゃるんですか?」
少し沈黙が流れる。その間を埋める義務でもあるかのように彼は「すみません」と頭を下げる。「変なこと聞いちゃいましたね、ごめんなさい」
「彼氏はいないよ。でも、」
私はふと控室から見える外の景色に目をやった。青い空が見える。雲にところどころ隠されながらも、どこまでも果てが見えない青空に。「好きな人ならいるよ。ずっと、遠くにね……」
そう言って私は店内に向かった。もう五年も会っていない先輩の笑顔を鮮明に思い浮かべながら。
叶わぬ想いなのは分かっているけど、どうしても忘れられないのだ。それは先輩がいた職場に私がいるせいなのかもしれない。一度だけやめようと思ったこともあった。でも、それはできなかった。単純に、この本屋が好きなのだ。この本屋の仕事、この本屋での出会い、全てが。
出会い、というのは職場の仲間だけの話ではない。そう、あの子のように。
私は漫画本の陳列をしながら児童書コーナーにいる名前も知らない親子と、その友達らしき女の子が純粋な笑顔を浮かべているのを微笑ましく眺めていた。
三十歳
『昨日、入籍しました』
そのメールが届いたのは二月に入ってすっかり寒くなった今朝、私がホットコーヒーを飲んでいた時だった。
素直に祝福したい気持ちもあったけど、素直に祝福できない気持ちもあった。
『おめでとうございます、先輩』まで打って手が止まっている。何を打っても独身女の皮肉になってしまう気がする。
そうこう考えているともう一軒メールが来た。友達からだ。
『来週合コン行かない? そろそろ結婚とか考えた方がいいと思うよ。明日までに返信ちょうだい』
空気を読んでいるのか読んでないのか。そんなメールだった。
言われてみれば私は今まで交際というものをしたことがなかった。顔には自信がないし、春波書店に来てからはずっと先輩に片想いしてきたし。
でも、まだ私の中で先輩のことは吹っ切れていない。そのメールの返信は保留しておこう。
先輩の結婚報告の方は仕方なくそれ以上何も打たずに返信。コーヒーに口を付けると、もうすっかり冷めてしまっていた。
「やっぱり」
私は窓の外の白い空に向かって呟いた。「運命の相手じゃなかったのかな。年下だったし、出会ったのは四の倍数の歳じゃなかったし」
「ありがとうございます」
私がレジからお客さんを見送って頭を下げて上げた時、後ろから肩を叩かれた。この手の感触は店長、と覚悟して振り返るとやっぱり店長だった。
店長はもう五十歳を過ぎた。皺や皮膚のたるみが目立ってきたけど、足腰はまだまだ若々しい。
「すみません」
店長が一言目を話す前に私は頭を下げた。職務中にこうして店長に肩を叩かれる時といえば怒られる時だと、私は骨の髄まで染み込んで分かっている。いつもは怒られる理由も分からず、という時が多いけど今は分かる。私が悪いのは分かっている。
「顔を上げなさい。謝る相手は私じゃなくてお客さんでしょ」
「……はい」
店長は口調だけ怒っていた。お客さんの前だから顔は怒ってないはずだ。
「町田くん」
店長が名前を呼ぶと近くで陳列していた町田くんが「はい」と顔を上げた。彼も数年前に正社員となって春波書店に一日中勤めている。
「ちょっとの間レジに立っていてくれない? 陳列はいいから」
「あ、はい」
私と店長は控室に戻った。
控室はいつも陽が当たっていて冬でも暖かいのだけど、今日は曇っていて陽があまり差しこんでおらず、肌寒かった。
「どうしたの、桜木ちゃん。いつもの元気がないじゃない」
私は初めてそこで初めて顔を上げ、店長を見た。いつもの怒っている顔だけど、眉毛が八の字に下がって私を心配しているように見えた。
「……ごめんなさい。私情をはさんじゃって」
今日、私は自分でもはっきり分かるくらい笑顔が作れていなかった。
失恋なんてずっと前に終わったはずなのに。今になって、どうしてこんなに寂しいの?
「自分で分かっているだけまだいいわ」
店長はそう言って私の上腕をがっしり掴んだ。「説教なら今までたくさんしてきたから、今日はあえて何も言わない。でも、たとえどんなことがあっても、プロなら笑顔を作りなさい。プロとして誇りを持っているなら、背筋を伸ばしてしっかり微笑みなさい」
「……はい」
店長の言葉ひとつひとつが心に染み込んでいく。それが私の目を少しずつぼかしてしまう。
「プロとしての作業ができるまでここで休んでなさい。いいわね」
「……はい」
いい子ね、と店長は私の肩をパンと叩いて店内に戻った。
このまま立っていたらすぐにでも倒れてしまいそうだった。
椅子に座ってうつむく。
私がレジやるから陳列に戻って、という店長の声と「はい」と輪郭のはっきりした町田くんの声が遠くから聞こえてきた。
悔しい思いをした時、悲しい思いをした時、それは今が初めてじゃない。そういう時はあの子の笑顔を思い浮かべて幸せな気持ちになって復活するんだけど、頭の中のあの子の顔が最近ぼやけている。ここ一年くらい全く見かけないのだ。引っ越しちゃったのかもしれない。
次から次へ自分の生きる気力が外に出て行っている気がする。この涙と一緒に。
私は、どうすればいいの?
「あれ、どうしたんですか桜木さん」
その時、町田くんの声が聞こえ、私は顔を上げた。商品陳列が終わって戻ってきたのだろう。
「町田くん……」
「泣いてるじゃないですか!」
町田くんは私の下に駆け寄り、膝を突いて私の顔を見上げた。「そんなに店長の説教が怖かったんですか?」
「え?」
「確かに店長の怒った時の鬼のような顔はまさに鬼そのものですけど、今日は遂に鬼を超えちゃいましたか? 鬼ハイパー、みたいな」
なに言ってるんだろう、この子は。
町田くんの話を聞いているとなんだか笑えてきた。「ははっ……はははっ」
そんな私を見て町田くんは困ったような表情だった。きっと「何なんだ、この情緒不安定な女は」とでも思っているに違いない。
「ど、どうしたんですか?」
「いや、なんでもないわ」
私は涙を拭き、立ち上がった。「ありがとう、町田くん。仕事に戻るね」
私は何をくよくよしてたんだろう。
私は先輩。後輩に無様な格好なんて見せちゃ駄目。
あの先輩はもういないけど、この春波書店にたくさんの仲間がいるじゃない。
「店長。復帰しました」
私はレジに立って次のお客さんを待つ店長に言った。「もう、大丈夫です」
店長は私の顔をしばらく眺め、ニコッとほほ笑んだ。「どうやら、そうみたいね。桜木ちゃんらしくバンバン笑顔で働いてちょうだい」
「はい」
店長に入れ替わってレジに立つと、文庫本のコーナーに数人の女の子が立っているのが見えた。
あっ、あの子だ。
前に見たときよりもずっと背が伸びている。丸かった顔もちょっと細くなって大人っぽくなった。あの子がおなかにいる時を初めて私が見たのはバイトでここに入ってきた時。つまり十八歳の時だから、もう十一歳くらいかな。
前までは児童文学だったのに、もう大人の文庫本を読むようになったのか……。
そう思うと、込み上げてくるものがあった。まるで母親になったような気分だった。
お母さんはいない。彼女の周りで本棚とにらめっこしているのは友達かな。みんなちっちゃくてかわいいな。
それにしてもこの一年どうしたんだろう。私がいない時間に来ていてすれ違っていただけなのかな。
しばらくするとあの子がレジにやってきた。
「いらっしゃいませ」
笑顔ってこんなに気持ちよかったんだ。そんな当たり前のことを私は改めて気付かされた。
「お疲れさまでした!」
私は仕事を終え、店長や町田くんと別れた。
はー、と息を吐くと白くなった。たったこれだけのことを無邪気な子供のように楽しめているのは、きっと心が晴れているからだろう。
その時、今朝の合コンの誘いメールを思い出した。
「よーし! 彼氏作るぞ!」
私は早速メールを返信し、スキップしたい気持ちを抑えながら歩いて行く。
三十二歳
「桜木さん、映画見に行きませんか?」
「映画?」
町田くんに声を掛けられ、控室で本を読んでいた私は顔を上げた。
「『風よ、私を導け』という映画なんですけど」
ああ、と私は頷いた。「あれ、映画化したのね」
すると、町田くんは首を傾げた。
「実はね、この書店って正社員になったら店に本を置く前に一度読むじゃない」
「はい」
「私、何年か前にこの本をそれで読んだの」
「そうだったんですか!」
オーバーリアクションを取る町田くんは、もう二十七歳なのになんだかかわいらしかった。思わず私も嬉しくなる。
「ええ。結構面白かったけど、まさか映画化まで辿りつくとはね」
こういう出会いや感動があるのも、この春波書店ならではのことなのかもしれない。
不思議な高揚感に私は包まれた。
「で、なんだっけ?」
私がそう言うと町田くんは顔を赤くし、一瞬だけ目を瞑って唾を飲んだ。まるで勇気を出して何かを言おうとしているように。
「一緒に、映画見に行きませんか」
町田くんは私をじっと見つめる。まっすぐな目だ。
正直なところ、私も『風よ、私を導け』を見に行きたい。でも、「ごめんね。ちょっと行けない」
えっ、と微かに町田くんは漏らした。その目は予想外の事態を目撃して「どうして?」と聞いているようだった。
「実はね、昨日彼氏ができて」
「えっ」
今度は微かではなかった。
一昨年に初めて行った合コンは緊張しすぎて完全に空回りしてしまい、失敗に終わった。その後も何度か行ったけどなかなか上手に男性と喋ることができず、顔もよくないものだから出会いに恵まれることはなかった。
しかし、昨日やっと彼氏ができたのだ。彼は同級生だった。昔見た占い本には『あなたの運命の相手は年下男子』とあったけど、同級生ならセーフだと私は勝手に思っている。『あなたが運命の相手と出会うのも結婚するのも、年齢が四の倍数の時でしょう』の方はばっちり条件を満たしている。
「他の男の子と映画に行くのはちょっと憚られちゃって。ごめんね。行きたいのは山々なんだけど」
「あっ、いえっ、あのっ、はい」
「なにテンパってるのよ。町田くんもそろそろ彼女作りなさいよ」
私はひじで町田くんの胸をトントンと突いた。「その彼女と見に行ってきなさい」
「は、はい……」
「頑張りなさいよ」
町田くんを励まし、私は職場へ向かった。今日はレジだ。
「あっ」私は思わず声に出してしまった。
お客さん、つまりいつものあの子は「どうしたんですか」と首を傾げた。
「いえ、すみません」
レジで彼女から話題のミステリー小説を受け取るまで、この女の子があの子だと気付かなかったのだ。というのも、彼女は今眼鏡をかけているから。
目が悪くなっちゃったのかな。
今は中学生くらいかな、と思いながら私はお金を受け取り、レシートと一緒にお釣りを返した。
「ありがとうございます」
眼鏡をかけていてもあの子の笑顔はお母さんと同じように輝いていた。でも、この日はどこか陰りがあった。この笑顔も、少し無理して見える。
お母さんといえば、最近見かけないなあ。どうしたんだろ。多分一昨年にあの子を久しぶりに見かけた時より後は一回も見かけていない。
もしかして……、いや、う~ん、どうなんだろう。
聞きたいなあ、とあの子が店から出ていくのを目で追いかけながら、私は貧乏ゆすりのように踵を上げたり下げたりを繰り返していた。
でも、私は所詮ただの本屋の店員。あの子が私を認知しているかどうかも分からない。所詮は他人なんだ。いちいち詮索するのはよくない。
うん、よくない。詮索していいのはミステリー小説の中だけ。
「いらっしゃいませ、お預かりします」
私は次のお客さんをいつも通りにっこりと迎える。
三十五歳
あら、眼鏡外したのね。
数年前に眼鏡をかけて来た時も驚いたけど、外したは外したで私は驚いた。もう年頃の女の子なのか。
眼鏡をかけている女の子が眼鏡を外した瞬間美人に見えるとはよく言うけど、まさかこんな形でそれを見ることになるとは。
本当に綺麗になったわね、という気持ちを込めて「いらっしゃいませ、お預かりします」と彼女から本を受け取った。ミステリー小説に嵌まっているのか、彼女はよくミステリー小説を買う。
おっ、これは、と手に取った本のタイトルを見て私はびっくりした。『忘れてないか、大事なことを』という不思議なタイトルの推理小説で、この前読んだ時に「ん~、難しい!」と唸ったものだ。
頑張って読んでね、と微笑みながら私はレジを打ち、レジ袋に入れて本を手渡した。私の気持ちが伝わったのか伝わっていないのか、彼女は凛とした目で私と目を合わせた。
彼女を見送った時、『忘れてないか、大事なことを』と口の中で発音した。
「あっ」
口の外に出てしまった。
今朝店長に話そうと思ってたのに、忘れてたよ。大事なことを。
仕事が終わったら話そう。
「あっ」
またその声が漏れてしまったのは家に帰って、テーブルの上に小さな箱が置いてあったのを見た時だった。
あ~、忘れてたなあ。明日の朝こそ、絶対に。
「もし忘れてたら教えてね」
私はテレビに向かって言い、付箋を貼った。もちろん、『うちの家具は喋ります』のようにテレビは返事をしてくれなかった。
おかげさまで、翌朝に春波書店まで来た時にもそれをしっかりと覚えていた。
いつもより少し早い出勤のせいか、こころなし空気がおいしく感じる。緊張はするけど普段と違う景色が「落ち着いて」と肩を撫でてくれるようだった。
「あらっ、今日は早いわね」
裏口から春波書店に入ると、店長がひとりで本を読んでいた。「おはようございます」
「おはよう。どうかしたの?」
「ええ。どうかしたんです」
本にしおりを挿む店長の表情は「何よ何よ」と期待して胸を高鳴らせているようにも、「もしかしてマイナスなこと?」と不安げにそわそわしているようにも見えた。
実は、と私は切り出した。でも、店長と二人きりでいるのはいつも緊張するし、その上今日はこれがあるから尚更だ。
落ち着け、落ち着けよ、私。
「え~っと……私、桜木はこの度、え~……結婚することになりました」
店長に向かって深々と頭を下げる。まるで謝っているみたいだけど、それはいつもの癖だ。
この報告を最初にするなら店長だと、私は随分昔から決めていたのだ。
「おめでとう! 桜木ちゃん!」
店長のはしゃぐ声はいつもの鬼軍曹のような低い声ではなく、ひとりの女性としての声だった。
顔を上げて店長の顔を見ると、皺のひとつひとつが私を祝うようにくっきりと笑っていた。
こうして見てみると、店長も随分歳を取ったと思わずにはいられなかった。昔も今も変わらず「車に衝突されても車の方をふっ飛ばしそう」と感じてしまう無敵超人的な元気があるけど、やはり店長もただの人なのだ。
その時、「おはようございます」と町田くんが入ってきた。
「あ、桜木さんおはようございます。今日早いですね」
「町田くん!」
そう叫び、彼の肩を掴む店長は完全に下世話なおばさんと化していた。「桜木ちゃんが結婚するんだって!」
「……えっ?」
朝早くからそんなことを言われたら誰だって混乱するよね、と私は微笑む。
「……」
「なにぼーっとしてんのよ!」
店長はバシバシと町田くんの背中を叩いた。「もっと祝いなさい!」
「あ、はい……。おめでとうございます、桜木さん!」
その町田くんの表情はいつもの控室の笑顔ではなく、接客用の笑顔だった。眠たくて自然と笑えないのだろうか。
「おめでとうございます……」
彼の口調は次第におどおどと弱くなっていった。
シャキッとしなさいよ! と店長が更に背中を叩いた。まるで酔っぱらっているようだった。「今から接客するんでしょ」
「は、はい」
町田くんは顔を上げて微笑んだけど、少し顔が白かった。
「どうしたの? 体調でも悪いの?」
「いや、なんでもありません……」
「なんでもってことは……」
「なんでも!」
町田くんは珍しく声を張り上げ、それから小さく「ありません……」と残して控室を出た。
三十七歳
何年か前に私は町田くんに向かって「彼氏を作りなさい」と言ったけど、町田くんに女っ気はまるきりなかった。
控室にいる彼の携帯電話が珍しく鳴ったのはそんな「もしかしてあっち系?」と疑問に思い始めた頃だった。
「誰から?」
「いや、その……」
明らかにおどおどしている。携帯を開こうと持ったにも関わらず、誰からのメールなのかを確認しただけで閉じてしまったのだ。
「なに? 危ないメール? どこかの専門的なバーとか?」
「専門的なバーってなんですか。違いますよ」
「じゃあなんなの?」
「それは……その……」
彼はひっそりと腕を動かし、携帯電話を背中に持って行った。そこに何か秘密があるのは一目瞭然だった。
「ひっそりと動かせばばれないとでも思ったの?」
「ご、ごめんなさい……これは……っ」
「何なに~? お姉さん気になっちゃうな~」
私は町田くんに近づいていく。彼は目を見開き、怯えている。
これは珍しく私のSっ気が出ちゃうな~。
「誰からか教えなさいっ。でないと……」
シュッと素早く町田くんのわき腹に手を入れ、こしょばし始めた。「こしょこしょしちゃうぞ~!」
ひゃっ、と町田くんはかわいらしい声を上げる。「しちゃうぞ~、ってもうしてるじゃないですか!」
「早く吐きなさ~い。楽になるわよ~」
や、やめて、やめてください、と町田くんはくすぐったそうに笑いながら悶える。
その時だった。
「大の大人がこんなところで何やってんのよ」
店長乱入。
「あ、店長」
私は手を止め、振り返った。
町田くんは今がチャンス、とばかりに深呼吸した。
「レジまで聞こえてたわよ。どこのラブホが転移して来たかと思ったら、本屋の控室でアラサーとアラフォーがはしゃいでるじゃない」
その絵を客観的に想像し、私は心から「ごめんなさい」と頭を下げていた。きっと町田くんもそうなのだろう。「ごめんなさい!」とレジまで聞こえそうな声で謝った。さっきまでと少し違う方向から。
ん?
ちらっと振り返ってみると、町田くんはロッカーに手を伸ばしていた。
「ストーップ!」
ぶるっと携帯電話を持つ彼の手が震えて、宙に止まった。
「何してんの、あんたたち」
「店長。町田くんが携帯を隠そうとしています」
「なに? それは、気になるねえ~」
ふふふ、と卑しい笑みを店長は浮かべた。「何を隠してるの~? 町田く~ん?」
「て、敵が増えたっ……!」
「ただの敵じゃないわよ~。権力を振りかざしたラスボスだぜ~、ヒッヒッヒッ」
観念しなさい、町田くん。
すると彼は諦めたのか、うつむいて溜息といっしょに吐いた。「さっきのメールは……彼女からです」
「彼女!」
彼氏じゃなくて? だなんてさすがに口にはできない。「彼女いたの?」
「はい……つい先日」
「何も隠すことないじゃない。どうして隠そうとしたの?」
「それはー……」
彼はゆっくりと目を逸らした。まるで悪いことをして後ろめたさを感じている子供のように。「ちょっと、ですね……」
「よく分からないなあ、町田くんは」
「ごめんなさい」
すると、店長が後ろから私の肩を優しく叩いた。
「なんですか、店長」
「あんまり追求しすぎないことね」
え? さっきまで権力を振りかざしたラスボスとか言ってたじゃないですか。
頭の中がこんがらがって、脳が胃の中まで落ちてしまいそうだった。
そこで店長が私の耳元で小さく「察しなさい」と呟いた。
「え?」
「鈍感な子ね」
「どういう意味ですか?」
店長は一歩後ろに下がり、「そろそろ仕事に入る時間でしょ、桜木さん」といつも通りの音量で言った。
「は、はい」
「『はい』は歯切れよく!」
「はい!」
町田くんも店長もよく分からないなあ。
いまいち腑に落ちなかったけど、今は忘れて陳列の仕事に向かうことにした。
子供の時は「勉強なんて嫌だ」とわめいていたけど、大人になってから勉強したくなるのはどうしてだろう。
そう思ったのは、参考書コーナーであの子と会ったからだ。
そうかあ、あの子も大学受験を控えてるんだ。
しみじみだなあ。
その時、彼女が某有名大学の赤本を大事そうに持っているのが見えた。落としてたまるか、とばかりにギュッと胸に抱えている。
おっ、やるね~。今ならお姉さんが無料で家庭教師やるよ~。
とか思ってにやついてしまう。高校の教科書の内容なんて全く覚えてないくせに。
これを機に勉強してみようかなあ。
町田くんがどうして彼女がいることを隠そうとしたのかも、参考書に載ってたらいいのに。
そんなくだらないことを考えつつ、頑張ってね、と参考書選びで眉をひそめる彼女に、エールという名の念を送った。
三十九歳
「え~っと……私、桜木はこの度、え~……離婚することになりました」
結婚の時もこんなすがすがしい朝だったなあ、と店長に頭を下げながら思った。
「あらっ、別れちゃったの? それは残念ね」
「同い年は年下男子に含まれなかったようです」
「占い本の話? 懐かしいわね」
最近、店長は丸くなってきた。徐々に、ではあるけどあまり怒らなくなった。ポジションがフォワードからディフェンダーに変わったみたいに、攻める叱り方から守る叱り方に変わっていった。
昔だったら、「あんな占い本まだ信じてたの?」と訝しむような睨みを利かせていただろうに。
定年が近付いて来ているだけあって、怒鳴ったりすると体に負担がかかるのかな。
それに、最近痛そうに腰に手を当てたり、控室で座ることも増えた。「大丈夫ですか」と声をかけても「私はまだまだくたばらないわよ」と闘志を奮うばかり。
元気なのはいいけど、あまり無理はしてほしくないと思う。
そこでこれまたデジャブのように、町田くんが「おはようございます」とやってきた。
「あ、桜木さんおはようございます。今日早いですね」
「その台詞も聞き覚えがあるかも」
「何がですか?」
「気にしないで」
ちなみに店長も町田くんも私が結婚して名字が変わってからも『桜木さん』と呼び続けていた。私としてはその方が自然でよかったし、今からまた桜木に戻るのだから、結果的にそれがベストだったと思う。
そこで店長がポンと町田くんの肩に手を置き、「喜びなさい」と嫌らしく微笑んだ。
「喜ぶことじゃないでしょ。店長、さっき残念とか言ってたじゃないですか」
「何が幸せで何が不幸かなんて、見る角度次第なのよ」
どういう意味ですか、と私が言ったと同時に町田くんも「どういう意味ですか」と言った。つまり、ハモった。
すると、町田くんの顔が漫画みたいにどんどん赤くなっていった。
「そんなに私とハモることは恥ずかしいことなの、町田くん」
「いや、そんなことないですよ」
ぶるんぶるんと町田くんは手を脚を頭を振って否定する。
そのおかしな様子に私は噴き出してしまった。「なんか子犬みたいでかわいいね、町田くん」
「そ、そんなことないですよ!」とまた水浴び後の子犬みたいにぶるんぶるんとあちこちを振り回す。「そ、それでどうしたんですか桜木さん。こんな時間に」
「離婚したの」
「え?」
「それを店長に報告しに早く来たってわけ。結婚の時と同じね」
離婚……ですか?
町田くんは人混みの中だったら消えてしまうような薄い声で呟いた。嬉しいでも悲しいでも残念でもなく、困惑といった様子だ。
「うん。別れちゃった」
離婚って暗いことなんだろうなあ、と今まで私は思っていたけど、実際に迎えてみると意外と明るかった。子供がいなくて色々軽いせいもあるかもしれないけど、いい離婚だと思える。
なので、私は泣かない。というか、泣けない。むしろ、最高に笑いたい気分。
私はニカッと笑い、町田くんの胸を肘でトントンと突いてエールを送った。
「町田くんは彼女と別れずゴールインして金婚式まで持ちこたえなさいよ」
「は、はあ……」
「なんだか煮え切らないわね。おなかでも痛いの?」
「そんなことはないですけど……」
「けど?」
私が下から彼の顔を覗き込むと、彼は目を逸らし、顔を逸らした。
「もう。どうしたの。お客さんにもそういうふうに目を背ける気?」
「違いますよ!」
ちょっと大きなその声に私はビクッと肩を震わせた。
あ、ごめんなさい……、と町田くんは頭を下げていた。
う~ん。元夫にしろ町田くんにしろ、よく分からないなあ。
「まあいいわ。気合い入れて仕事しましょ」
随分たくましくなったわね、と店長が年相応の微笑みを浮かべたのを見て、私は嬉しいような虚しいような。そんな、心が宙に浮いたような不安定さを感じてしまった。
あの子が大学に合格したかどうかは分からない。でも、幸せそうなのは確かだ。
取り立てのリンゴのように輝くものが心の内にあるのが見えた。その手にはファッション雑誌と就職本があった。
見た目もすっかり綺麗なお姉さんだ。私の若いころと重なるような、重ならないような。
私は彼女から代金を受け取り、レシートと本を返す。もちろん、笑顔も一緒に。
彼女も笑顔を返してくれた。お母さん譲りのほっこりする笑顔だ。
後姿もしっかりした大人の女性で、たくましい。私が男だったら源氏物語の男たちみたいにしつこく求婚することだろう。
どうせ離婚しちゃったんだし、攻めてみる? なんて冗談を思ってしまい、にやけてしまった。誰かに見られていたら恥ずかしいなあ。
その時、視界の右端に荷台を持った店長が入ってきた。
あっ、やばい。絶対見られてた。
そう思い、背筋をぴんと伸ばしたけど、店長は何も言わなかった。それどころか、こちらすら見ずにうつむいて歩いている。
「ん?」
頭の後ろにも目が付いていそうなほど目敏い店長らしからぬ姿だった。思わず勤務中に声を出してしまうくらいに、異常な光景だ。
その時、店長の体が右に傾き、荷台から手が離れ、沈んだ。
ばん、という鈍い音と一緒に力の入っていない二本の腕がぶらりと宙に浮く。
「店長!」
私はレジを飛び出し、倒れている店長へと駆け込んだ。
他のお客さんがこちらを見、店長を慕う店員たちがどたばたとやってくる。そんな中、私は叫び続けた。
四十三歳
あの後、店長は病院に運ばれた。
命に別状はなかったみたいだけど、しばらく休むように言われ、一週間ほど春波書店には店長がいなかった。それはルーのないカレーのように物足りない時間だった。
それから店長は復帰した。しかし、前までのようにほぼ毎日出勤というわけにはいかなかった。
それから数年経った昨日、店長はまた倒れてしまった。今度は仕事に復帰できないほどだとお医者さんから聞いた時、私は堪らず泣き崩れた。
「桜木店長代理!」
振り返ると、町田くんが控室に戻ってきていた。
「店長代理って恥ずかしいからやめてよ」
自嘲気味に私は笑う。「町田くんは今まで通り桜木さんって呼んで」
私が戻ってこなかったら、あなたが春波書店の店長よ。桜木ちゃん。
昨日、病室でそう聞いた時は何かの聞き間違いかと思った。
店長は真っ青な顔で真っ白いベッドに横たわり、じっと天井を見つめていた。正確には天井の前にある空気を空虚に眺めていただけかもしれない。
そんな店長らしからぬ目を、その発言の時だけはいつもの色に戻し、私を睨むように力強く見つめていた。
「店長、ですか……?」
「そうよ。あなた、私を除けばもう最年長じゃない」
そう言われてみればそうだった。先輩たちは寿退社などでみんな辞めてしまっている。この前店長が倒れた時はひとりだけ年上の先輩がいたので、その人が店長代理をやってくれたけど、昨年その人も夫の転勤で春波書店を出ていってしまった。
アルバイトとして入ってきたのが、つい最近のように思える。あそこから色んなことがあったなあ。昨日の夕食もまともに思い出せないのに、あの日の恋心は今も胸の端っこの方で輝いている。
「私は、くたびれるつもりはないわ。私が戻って来るまで、店長代理はあなたよ」
その言葉の語尾と共に、店長の目が少しだけ潤んだ。
私には、それがやせ我慢のように思えてならなかった。
「でももし私が戻らなかったら、あなたが店長になりなさい」
やせこけた頬が痛々しかった。青い血管が皮膚に浮かんでいるのも、とても見ていられなかった。でも、目だけは死んでない。その目で見られているなら、私も真剣に答えなければならない。
「いいわね? 桜木さん」
「はい!」
成長したわね、と微笑みながら店長は天井に視線を戻し、目を閉じた。
「どうしたの? 町田くん」
「ちょっと、報告が」
「報告?」
「はい」
町田くんは体の前で両の掌を合わせている。肩も固そうだ。
かわいいかも。
「実は、彼女と別れました」
「あら。それは残念ね」
春波書店の裏で、町田くんは結婚間近だと予想されていた。なので、それはすごく意外だった。
「でも、どうしてそれを私に?」
すると、町田くんの肩がピクッと震え、目が泳ぎ始めた。
あきらかに動揺している。
そんな彼を訝しく見ていると、彼は「ほら、えーっと……あれですよ」とあわあわした口をぎこちなく動かし始めた。「桜木さんも結婚や離婚した時に店長に報告していたじゃないですか。それと同じで、僕は桜木店長代理に報告したんです」
「なるほど。でも、店長代理ってやめてよ。恥ずかしいじゃない」
町田くんの笑みはどこか私をからかうようだった。悪質なからかいではなく、良質なやつだ。
彼の楽しそうな姿を見ていると、私まで嬉しくなる。今思うと、歳を取るに連れてその笑顔に味が出てきたかもしれない。
そして、仮だとはいえ、自分が本当に店長であることをふつふつと実感できてしまった。
町田くんの別れ話もびっくりしたけど、これはもっとびっくりした。
「いらっしゃいませ。お預かりしま……」
いつものあの子はすっかり大人の女性になっており、自分の歳を改めて感じた。
そして、彼女から受け取った本は結婚雑誌だったのだ。
どうしたんですか? という目で見つめられているのに気付き、私は再起動し始めた。
彼女の背中を見送った後に、私はなんだか嬉しくなってにやけてしまった。この唇を噛んだ顔は、きっと気持ち悪いんだろうなあ。
旦那さんはどんな人なんだろう。
どんな出会い方をしたのだろう。
旦那さんはこの本屋に来たことあるのかな。
疑問は尽きない。湧きあがる温泉みたいににやけが止まらない。
私みたいに失敗するなよ! と私はフェードアウトする背中に向かって口だけを動かした。
四十四歳
店長が亡くなった。
その瞬間を私は見届けた。
一言も言葉を交わせなかったけど、最期の顔を見ることはできた。
とても安らかな顔だった。
ひとつも悔いがないような。
店長は春波書店に不安がないのだろうか。
私みたいなおっちょこちょいの女が継ぐことに不安はないのだろうか。
ずっと私はそれが不安だったけど、店長の顔に不安はひとつもなかった。
私は今までずっと怒られっぱなしで、誉められたことなんかなかった。
でも、ここで初めて誉められたような気がした。
嬉しかった。
すごく悲しかったけど、すごく嬉しかった。
すごく、すごく泣いた。泣いた。たくさん泣いた。
涙が止まらなかった。悲し涙か嬉し涙かは分からないけど、ずっと私は泣いていた。
でも、店長は私の泣いている姿なんか見たくないはずだ。
泣いてる暇があったら働きなさい。
冷たい体からそう伝わった気がした。
……はい!
私、店長のように、立派な人間になります!
絶対になります!
春波書店を春の陽気のように暖かい書店にします!
見守っていてください、店長。
「いらっしゃいませ!」
いつも以上に気合を入れて私はレジに立っている。先代の店長のように、私も最前線で戦う店長になりたいのだ。
人の上に立った、心が浮き上がるような高揚感。他の全員に背中を見せる緊張感。今までに感じたことのない不可思議でぐちゃぐちゃした心だった。
正直なところ、まだ店長が生きてるんじゃないかと頭のどこかでは考えている。あの鉄人がいとも簡単に亡くなるなんて、とてもじゃないけど信じ切れない。
「あっ」
気が他に向いていたせいだろうか。手が滑ってお客さんから受け取った文庫本が足元に落ちてしまった。
こんなミス初めてだった。
「すみません! 今すぐ他のものを持ってきます!」
ああ。店長として失格だ、私。
もう高揚感なんてなかった。緊張感と、こんな自分が店長でいいのかという罪悪感しかない。
「失礼しました!」
私は頭を下げて持ってきた本をお客さんに渡した。
いえいえ、とお客さんは謙遜してくれたけど、自分を許せる気にはなれなかった。
はあ、と溜息を吐き、私はひとりレジに立ち尽くした。
こんな失敗、店長に見られたら殺されちゃう。
涙が込み上げてきた。悲し涙か、情けない涙か。
流すもんか。絶対に流すもんか。
ぐっ、と強く目を瞑る。
その時だった。
「桜木さん」
優しくて毛布のように暖かい男性の声が聞こえた。
「町田くん……」
「どうしたんですか?」
町田くんはこの時間裏にいるはずだ。なのに、どうして……。
彼は少し頬を染め、躊躇いがちに目を逸らして言った。「桜木さんの『失礼しました!』って叫び声が聞こえたから、どうしたものかと飛んで来ちゃいましたよ」
「……」
あっちまで聞こえてたんだ。私、かっこ悪いな。
涙がまた一層と込み上げてくる。耐えるんだ、耐えるんだ。
そんな私みたいなおばさんの顔はきっと気持ち悪かったことだろう。
「一旦、下がりますか?」
「……」
「無理はしなくていいんですよ?」
私はコクっと頷いた。
絶対に下がりたくはなかったけど、町田くんの声を聞くとなんだか甘えてしまった。年下なのに、彼に年上の人のような懐の深さを感じてしまった。
町田くんは控室に顔を覗かせ「河野くん、ちょっと早いけどレジやってもらえるかな?」と言った。すぐにアルバイトの河野くんの「はい」という元気な声が聞こえてきた。
「上、行ってみましょうか、桜木さん」
「……うん」
上、とはこの書店の屋上のことだ。店員の食事などはそこで取られることが多い。
階段を上り、屋上への扉を開けると桜の香りが頬を撫でた。
昼前の空は晴天で、風も心地いい。まさに春、といった天気だった。
「いい天気ですよね。昔ちょっとショックなことがありまして。その時はここに来て癒されたものです」
そう言いながら彼は柵の方へ歩き、もたれかかって下を見た。「桜木さん、来てください」
「なに?」
小走りで彼の元へ近づき、柵に手をかけて下を覗いた。
「すごい……」
そこには桜があった。地面を覆うほど花びらが春の柔らかい風に乗って舞っている。その桜は私がここに赴任した時には既にあったけど、こんな景色は初めて見た。息を飲むほどに圧巻だった。
「こんな景色あったんだ」
「滅多に見られないですけどね。人生で二回目です」
「二回目?」
「はい。さっき言いましたよね、ショックなことがあったって。その時です」
そう言って町田くんは微笑んだ。悲劇も時間が立てば笑い話になる、というやつなのかな。
「これを見た時、本当にびっくりしましたよ。長いこと働いてきましたが、こんなの初めてで。その嫌なことがふっ切れたというわけではなかったですけど、その瞬間はすごく幸せな気分になることができました。そして、これからも頑張ろうって思えました」
町田くんの目は遠い過去を見ているようだった。嬉しいこと、悲しいこと、嫌なこと、苦しかったこと。全てを含めていい思い出だったと懐かしんでいるように見える。
「僕、毎年この季節にこの風景を見るのを楽しみにしているんですよ。桜の花って下に向いて咲いているから、ここから見てもあまり綺麗じゃないですけど、こうして風に舞っているとすごく綺麗ですよね」
ここまで綺麗なのは二回目ですけどね、と彼はいつものように微笑んで、それからまた懐かしむような遠い表情になった。「僕、昔から思ってたんですよ。春波書店の名前の由来はこれじゃないかなって」
「えっ?」
「桜といえば春じゃないですか。その桜の花びらが地面いっぱいに舞っている様子は、波みたいだと思いませんか? 春の波ですよ」
「……ほんとだ。言われてみれば春の波だね」
前の店長はこのことに気付いていたのだろうか。
そう思うと、すごく気分が楽になった。あの桜が、店長が、町田くんが、なんなら家具が、私を優しく見守っていてくれている。そんな気がした。
「店長という仕事は大変だと思います。僕なんかじゃ想像できないほどに。でも、桜木さんは人生で初めての店長ですよね。初めてなんだから失敗してもいいんですよ。僕が支えてあげますから」
私の目を見てそう言ってから彼はすぐに目を逸らし、恥ずかしそうに微笑んだ。「ちょっと頼りないかもしれませんが」
そんな町田くんを見ていると、なんだか笑顔になることができた。すごく嬉しくなることができた。胸いっぱいの桜の花びらと春の陽気が一緒にダンスしているような、そんな幸せな気分だった。
町田くんの体がすごく大きく見えた。威圧的とかじゃなくて、その体でそっと抱いてほしいと思えるような包容力だ。
「うん。頼りにしてるよ、町田くん」
町田くんは私からまた目を逸らして、桜に目を向けた。真っ赤な顔だった。
ポン、と私は町田くんの広い背中を叩いた。
「私、頑張ってくる。あとでアルバイトの河野くんにボーナス支払わなくちゃ」
「あれっ、桜木さん。いつの間にか泣きそうな顔じゃなくなってますね」
「あっ、ほんとだ」
いつの間にか涙は心の奥まで引いていた。満潮の後の砂浜のように、微かに濡れているだけだった。
「苦しい時は泣いてもいいんですよ、って言おうと思ってたんですけどね」
あはは、と自嘲気味に笑う町田くんはすごく若々しく見えた。四十前の疲れた顔ではなく、タイムスリップしたかのように生き生きとしていた。
「じゃあ、行きましょうか、桜木さん」
「うん」
その時、絹のような肌触りの風がひゅうと吹いた。髪が揺れ、前髪が目にかかった。
そういえば、『風よ、私を導け』のラストシーンってこんなのだっけ。
この風は私を立派な店長に導いてくれるのかな。
そして私たちは階段を下りて店内へ戻った。私は河野くんとバトンタッチしてレジへ。町田くんは陳列に向かった。
それにしても、別れ際の町田くんの表情に少し後悔じみた陰りがあったのはどうしてだろう。
それからいつも通りに何人かを接客した。
楽しかった。やっぱり、私はこの仕事が大好きなんだと思えた。役職なんて関係ない。
そんな時、数か月ぶりにあの子を見かけた。といっても、もうあの『子』なんて年齢じゃない。
おなかを膨らませていたのだ。
「いらっしゃいませ、お預かりいたします」
彼女の手には子育て本があった。それを受け取ると、まるで私が名前も知らない彼女の母親で、これからおばあちゃんになるような嬉しい気分になった。
まだ、子供を産んだこともないのに、ね。先越されちゃったなあ。
でも、ひとつも悔しくなんてなかった。
彼女から受け取ったお金の代わりに本を渡すと、彼女は「あの……」と私と目を合わせた。
少し茶色がかっている済んだ瞳は水晶のように綺麗だった。
「なんでしょうか」
こうして言葉を交わすのはいつぶりだろう。もしかしたら、初めてかもしれない。ずっと成長を見守っていたのに、言葉を交わさなかったなんて、なんだかおかしいかも。
「今までありがとうございました」
彼女は頭を下げた。
えっ、と私は漏らしそうになったけど、我慢した。
……そっか、お別れなんだね。
「こちらこそ、ありがとうございました」
私も頭を下げた。
それを上げた時、純白な少女のような笑顔があった。
この笑顔も、もう最後なんだな。
そう思った時、彼女の目が微かに濡れているのが目に入った。それを隠そうと彼女は目を擦ったけど、赤くはれ上がって余計に目立っていた。
「……あはっ」
そんなかわいらしい姿を見ていると、なんだか微笑ましくかった。すごく失礼かもしれないけど、なんだか笑えてきた。
「あははっ」
すると、私につられたのか、彼女は少し恥ずかしそうに「あははっ」と笑った。
別れは寂しい。でも、寂しいだけが別れじゃない。
いつか、おなかの子に会わせてね。私の、大事な愛娘さん。
その後、昼休憩に入った。
「ありがとうね、町田くん」
屋上でさっきまでのように桜を見ている町田くんの肩を私はポンと叩いた。「本当にありがとう。おかげでまだまだ頑張れそう」
まだまだ私はくたばらないよ、と拳に力を入れると、自然と笑顔が零れた。町田くんもそんな私を見て楽しそうに微笑んでくれた。
「桜木さんの力になれてよかったです」
桜はまだ舞っていた。さっきより少し量は減ったけど、春の波はまだまだやむ気配がない。
「さっきね、私が昔から知っていた女の子が妊婦さんになってたの。私が大学生の時から、その子がまだおなかの中にいた時から、私はその子を知っていた」
「それはしみじみと来ますね」
「でしょ?」
そういえば私があの子について誰かに話したのは初めてかもしれない。秘密にしようと思っていたわけじゃないけれど、今まで誰にも言って来なかった。名前も知らない女の子の母親気分に浸っていたなんて、恥ずかしくてとても言えなかったからかもしれない。
でも、その子は私から巣立って行った。この春波書店から巣立って行った。
今更恥ずかしさなんてないのだ。
「私も子供欲しいなあ」
もういい歳したおばさんだけど、この桜やあの子を見ていると「女としてもまだまだくたばりたくない」と思えてきたのだ。
町田くんはどうなんだろう。
「町田くんは結婚しないの?」
「え?」
すると、町田くんの顔が赤くなり、いつものようにあわあわと唇がもつれ始めた。「いや、し……したいです、よ」
彼を見ていると、心から落ち着くことができた。同時に、不思議な淡い気持ちが私の頬まで染めていた。
その時、町田くんはぐっと息を飲み、力強い眼差しで私を見つめた。
風が私たちを包む。太陽が毛布のように暖かい日差しを私たちに当てる。桜の花びらがひとつ彼の頬に当たり、風に乗って私の唇に当たった。
今まで彼は私と長時間目を合わせたことなんてなかったのに、いつもどこかで逸らしていたのに、この時だけはずっと目が合っていた。
彼の目もすごく綺麗だった。どこまでも純粋で、どこまでもまっすぐ。
そして、彼は覚悟を決めたように口を開けた。
「あのっ……!」
「なに?」
今日も、本屋は生きている。