消しゴム
明けて翌朝、神部は随分と早くに別荘を出て行ったらしく、起きた時にはもう姿は無かった。朝食として買い込んであったパンを頬張りながら、的葉は今日が土曜日であった事を思い出した。
「そうか、小学校の頃は土曜日も昼まで授業があったんだったな」
「そういう事。私もうっかりしてたわ。てっきり休みだと思ってたから連れて来てきちゃって。ちゃんと登校できたかしら」
「まあ、何とかなっている事を祈ろう。それじゃあ、午前中はどうする? 二人でどこかを回る?」
「いいえ、それよりも強化スーツの練習をしておきましょう。いつ使う事になるかわからないのだしね」
「そういえば、まだ一回しか変身した事が無いな……。人の目に触れるとマズイから、森の奥にでも行かなきゃダメかもしれないね」
「そうね。食事が終わったら、早速行きましょうか」
二人は急いで朝食を口に押し込み、水で胃に流し込んだ。そして、すぐに着替えて外へと出た。
外気には森林独特の香りと、涼感があった。深呼吸すれば澄んだ空気のおかげで気分が清々しくなり、心が引き締まる思いになる。
的葉は背伸びをして体を思いっきり伸ばし、頬を軽くはたいて気を引き締めた。
「的葉、準備はいい?」
「大丈夫だよ」
彼はポケットからデバイスを取り出し、逆三角形のアイコンをタップした。
「さあ、それじゃあ早速……」
「ええ、変身ポーズを見直しましょうか」
的葉はその場で固まり、春日を凝視した。彼女が一体、何を言っているのかが分からなかったのだ。いや、意味は理解したが、意図がくみ取れなかった。
「まだポーズにこだわるの?」
「当たり前よ。アンタのせいでちょっとスーツの外見が変わっちゃったんだから、それ用にちゃんと合わせないと。それから、必殺技の名前も気に入らないわ。何よ、コンセッションって、まるでいかがわしい予算を流用して作ったみたいじゃないの!」
「あー。パッと出てきたのがアレだったかなぁ。まあ、でも語感は悪くないんじゃない? Tシャツの英語だって誰も意味なんか調べないでしょ? 大丈夫だと思うよ」
「いいえ、ダメよ。こういうのはちゃんとしなきゃダメ。それじゃあ、今から私が考えたポーズを発表するから、真似して」
「はい……」
これ以上の抵抗は時間の無駄だと悟ったので、的葉はとにかくさっさと完成させてしまおうと考えた。
しかし、彼女から提示されたポーズは複雑な上に大げさなもので、とても承諾できるようなものではなく、それからお互いのこだわりをぶつけながら、何だかんだで喧々諤々と真剣に議論してしまった。そして、何度となく変身と解除を繰り返し、完成した頃には四十分も経っていた。
「……さあ、次は必殺技よ。あんなダサい名前は絶対に改めてやるわ」
「はぁ……はぁ……。分かった。分かったよ。名前については君に全面的に任せるから、とにかくスーツの練習をさせてくれ」
「仕方ないわね。それじゃあ、人目に付かない所に行くわよ。さあ、抱っこして頂戴」
「了解」
変身した的葉は春日を抱え上げると、森の中へと走り出した。ぶつかった場合、春日が怪我をしてしまう為、彼は細心の注意を払って移動していく。不規則に並ぶ木々と、不安定な足場は、歩くのに不向きではあったが、スーツの敏捷性を確認するには最適だった。
彼は改めてこのスーツの凄さを実感すると共に、これを完成させた湯船夏美に対して尊敬の念を抱いた。
しばらく走った所で多少開けた場所を見つけ、そこを特訓場にする事にした。的葉は春日を地面に下ろすと、思うように体を動かしだした。最初は、基本的な動作を繰り返し、それから漫画で齧った程度の知識を思い出しながら、それを試していった。
春日は何も言わずにその様子をじっと見つめていた。彼女には格闘技の知識は無い為、アドバイスなどできなかった。だから、彼女はどこか物憂げな表情のまま彼を見守り続けたのだった。
そして、小一時間ほど動いた所で、彼女は意を決したように声をかけた。
「的葉」
「うん? どうかした? もしかして、何か変だった?」
「いいえ、そうじゃないわ。ちょっとこっちに来て。あなたに言っておかなければならない事があるの」
「…………」
「私は、今回の一件を必ず成し遂げなければならない。どうしてもそうしてなければならない理由がある。その為には、どんな事があっても諦めないように、最後まで希望を捨てないようにしなければならない」
「もちろんだ。鬼食が生き残ったら、大変な事になるわけだしな」
「……ええ。だから、私はそのスーツにある機能を付け加えたの。それは、相手を確実に倒す為に作った最終兵器よ」
「最終兵器……」
「そう。それは正真正銘の切り札。使えば一時的に性能は飛躍的に上昇するけれど、その代わりにオーバーヒートする可能性も出てくるわ。そして、最悪の場合は……使用者の命を奪うかもしれない。そう、言わば自爆装置のようなものなのよ」
その言葉に、的葉は何も言わなかった。ただ、真っ直ぐに春日の目を見つめ続けた。その視線に耐えられなくなって彼女が目を逸らし、言葉を続けた。
「フェアじゃないのは分かってる。勝手に協力させて、その上に命を無理矢理かけさせるなんて、それが最低な事なのも分かってる。だけど、それでもどうしても……」
「それ以上は言わなくていい」
的葉は、努めてゆっくり、相手を安心させるよう心掛けて喋った。
「客観的に見れば、君のやった事は非難されるような事かもしれない。そして、最終兵器を使ったとしたら、それは本当に形ある罪として君の背に張り付いて、一生消える事はないだろう。――――でも、そうじゃない場合もある」
「?」
「ぼくがそれを望んだ時、感謝した時だ。……子供の頃は十分に分かっていなかった。湯船夏美がどれだけ苦しんでいたのか、どれだけ辛かったのか……。ぼくは鈍感で、愚かだから、彼女の無表情の奥にあるものを汲み取ってやる事ができなかった。でも、今一度見て分かったんだ。彼女には助けが必要なんだって。だからこれは、ぼくに与えて貰ったチャンスだと思ってる。あの頃、ぼくは彼女に謝罪されるような人間じゃなかった。でも、今回の事を成し遂げたら、ちゃんと顔向けできる気がするんだ。ぼくはヒーローじゃなかった。だから、これからヒーローになる」
「…………」
「感謝しているよ。戦える力をくれた事、諦めない為の希望をくれた事。春日、あくまで個人的な意見を言おう。君は間違ってない。君は正しい。何より、君は優しい。だから、いざとなったら躊躇なく使って欲しい。必ず、望む結果を出してみせるから」
「……ありがとう。感謝してもしきれないわ」
「まあ、できれば使わずに済むのが一番いいけれどもね。さあ、その為にもっと練習しようか。春日、このスーツをいじれるんだったら、何かあった時の調整は頼むぞ」
「任せておきなさい」
的葉は再び体を動かすのに戻った。彼は、心の中で今回の情報開示が昨日の成果なのだろうかと考えていた。確かに、彼女は秘密を明かしてくれた事には違いない。しかし、この装置についてはいずれ話す事になっていただろう。問題は、予定通りなのか、それとも少し早まったのか、という事。
とにかく、彼女は時期を見て話そうとはしてくれている、と信じてもいいかもしれない、と的葉は考えた。そう、今は彼女を疑うべきではないのだ。歩み寄ってくれたのなら、信じるしかない。
「シッ!」
回し蹴りを試してみたが、どうも上手くいかない。どうやら、前蹴りやローキックの方が好みであるらしい。そもそも一朝一夕で身に着く技など無いのだから、あとはできるという気持ち次第である。根拠は無くとも自信のあるものを選択するのが最善だろう。
それからしばらく、スーツの感想などを春日にフィードバックしつつ、間に休憩を挟みながら運動を続けた。
太陽が真上に昇った頃、二人は練習を終えて別荘に帰って来た。そして、キッチリと身支度を整えてから、神部と合流するべく的葉だけで町へと出かけて行った。
高校にやって来ると、校門の所で神部が待っていた。待ち合わせ場所を決めていなかったので、どうなるかと思っていたが、すれ違わずに済んで的葉は安堵した。
「どうも、神部さん。すいません、待ちましたか」
「いやいや、さっき終わった所だよ。しかし、実はちょっとお願いなんだけど、一旦家に帰って着替えてもいいかな?」
「ええ、構いませんよ。ぼくは一足先に小学校に行って、下調べをしておきますから」
「すまないね。じゃあ、そういう事で。俺がそっちに行くから、また後で会おう」
そう言って、二人は再び別れる事にした。
的葉はすぐに移動し、デバイスの機能を使って再び学校内に入った。小学校も当然、午前中までしか授業が無いらしく、中に生徒は一人も残っていないようだった。
前回来た時が騒がしかったからだろうか、あまりにも静か過ぎるのが、何だかとても怖いな、と的葉は感じた。
目的の教室へとやって来ると、中へと入った。
「さて、例の蛇少年は誰なのか……って、元同級生の名前を憶えてないっていうのもどうかと思うよなぁ」
教室の中を見回すと、後ろの大きな掲示板に、自己紹介カードなるものがある事に気づいた。
「そうだ、確かにこの時期、家から写真を持って来て作ったんだった。懐かしいな。当時は何の関係も無いと思ってたのに、今になってこうして役に立つなんてなぁ」
掲示してあるカードの中から、見覚えのある顔を探していくと、真ん中のあたりに目当ての人物を見つけた。
「中井! そうだ、中井だったな。ふぅん、好きな事は野球。近所の野球クラブに参加しているのか。話を聞くなら、そっちかもしれないなぁ」
的葉は教壇に置かれている席順表を確認し、中井の席を調べ始めた。思った通り、彼の席は夏美や九条の後ろ。射線上に少し九条の頭が被るような位置だった。
「あとは、物証でもあれば…………お!」
机の中を探してみると、端が千切られてボロボロになっている青色の消しゴムが見つかった。どうやら、彼は消しゴムを二つ使い分けているらしい。
「ふぅん。多分、投げるのに使うのは安いやつでって事なんだろうなぁ」
何はともあれ、確証は得られた。自分の想像が少しずつ補強されていく感覚に満足しながら、的葉は教室を後にした。
下駄箱を出てから、物陰に隠れてデバイスの機能を解除し、敷地の外へと続く道を歩いていると、向こうから神部がやって来るのが見えた。
「加賀くん! どうしたの、もう終わり?」
「ええ、とりあえず欲しいものは手に入りました。ただ、他に調べたい事が出ましてね。例の蛇少年、野球クラブに所属してるらしいんですよ。どうにか、そこに行って話を聞きたいんですけど」
「あー、なるほど。それなら心当たりがある。河川敷にあるグランドで練習してるはずだよ。今日は土曜日だし、きっと今頃は練習しているんじゃないかな?」
「それは良かった。じゃあ、早速行きましょう」
「ええ、ちょっと待って。発見した事を教えてよ!」
「道すがら話します。そんなにたくさんも無いですから」
的葉は神部の案内で、河川敷のグラウンドへと歩き出した。その道すがら、教室の中で発見した事について教えた。
的葉の思っている通りに進んでいる旨を伝えると、神部はとても喜んだ。どういうわけか、彼も的葉に過分な期待を寄せているようだった。
二十分ほど歩いて河川敷のグラウンドに来てみると、どうやら練習は終わりつつあるらしく、すでに片づけが始まっていた。
「早いな……。もう練習終わるのか」
二人はベンチの近くに居た一人の少年に話しかけた。
「やあ、ちょっといいかな」
「え? あ、はい」
神部は警戒されないように、なるべく穏やかに話した。
「このチームに中井って子が居ると思うんだけど、どこかな?」
「中井なら今日は来てません。何か、用事があるとかで」
「そうなのか。参ったな、どこに行くとか言ってなかった?」
「さあ? 何か、相談がどうこうとか言ってましたけど……。あの、中井が何かしたんですか?」
「ん? ああ、実は俺達、近くの高校の新聞部なんだけど、最近この辺りで出る不審者について調べているんだ。それで、ちょっと話を聞きたくてね」
「そうなんですか……。でも、そんな事は何も……」
「君、中井くんと仲良いのかい? じゃあ、それとは別にここ最近で様子が変だったとか、感じなかったかい? そう、妙に張り切っているとか」
「ああ、確かにそう言われてみれば。随分前から何か、わけわかんない事でピリピリしたり、やけに張り切ったりしてた気がします」
「そうか。実はね、中井くんが親しくしている女の子が関係者みたいでね、それで彼が何か気づいてないかと思ったんだよ。何か女の子の事とか言ってるの聞いてない?」
「そうですね……、そういえばアイツと同じ学校の奴が何か噂してるのは聞いた事あります。関係があるかは分からないですけど……」
「良かったら、聞かせてくれないか?」
「……何か、同じクラスの女子の言いなりになってるって」
「そうか、どうもありがとう。加賀くん、君は何か聞いておく事あるかい?」
「いいえ、大丈夫です。それよりも、早いところ移動しましょう。中井くんに話を聞きたいですからね」
「ええ!? 的葉くん、彼がどこに行ったか分かるのかい?」
「まあ、何となくですけど。間違っていたら、修正が必要かもしれないです」
「よし、とにかく行こう。あ、それじゃあ君、時間を取って悪かったね。是非、参考にさせて貰うよ」
「あの、ちょっと待って下さい。俺も一緒に行っていいですか? 中井のやつ、今日は調子悪そうだったって聞いてますし……」
「ん? ああ、俺は別に構わないけど。どうする、加賀くん?」
「いいんじゃないですか? その方が話もしやすいでしょうし」
「ありがとうございます」
野球少年はすぐに持ち物を片づけると、チームメイトに何事かを言ってから、こちらに戻ってきた。どうやら、他の雑事を引き受けて貰えるようお願いしたようだった。
目的のあるチームをほとんど持った事の無い的葉にとっては、その光景は少し眩しく感じられた。
「それじゃあ二人とも、行くとしようか」
今度は的葉が先導を務め、元来た道を戻って行った。そして、先ほどよりも更に十分ほど長く歩いて、そこにたどり着いた。
見るからに金持ちそうな外観の家。表札にはもちろん、九条と書かれていた。
「的葉くん、本当にここなのかい? 相談っていうから、俺はてっきり小学校に行くんじゃないかと思ってたんだけど」
「まあ、あくまでぼくの予想ですからね」
などと言っていると、玄関の方から何やら騒がしい声が聞こえてくる。
玄関のドアが勢いよく開き、そこから二人の子供が出てきた。どうやら、九条なるみと、中井少年のようである。彼女は一方的にどなりながら中井を外に押し出すと、彼の靴を放り投げて、ヒステリックにドアを閉めたのだった。
そして、落ち込んだ様子の中井は、肩を落として俯いたまま、動けずに立ち尽くしてしまっていた。