タオル
「あがっ! おー……こりゃあ、結構難しいな。それに、普通の道は危ないかもしれない」
彼は起き上がると、まずはゆっくりと体を動かし始めた。歩きから、ジョギングへ。シャドーボクシングの真似事をしながら、段々と扱いに慣れていく。
そんな彼を見る度、町の人々は悲鳴を上げながら、逃げ出したり、腰を抜かして動けなくなったりしていた。
「着ぐるみだとでも思ってくれればなぁ……。それにしても、とんでもないアウェー感で不安になってきた……。あれ? そういえばそもそもなんでぼくが戦っているんだろう。普通に警察に任せたほうがいいんじゃ……」
しかし、その考えはすぐに撤回される事となる。
彼が河川敷に辿り着いてみると、橋の下に警察官らしい人々が銃を構えて何かを包囲していた。何かとは、言うまでも無く、先ほどの蟻人間だった。今は、警察など意にも介さない様子で、鞄の中をゴソゴソと物色していた。
「というかアレ、俺の鞄じゃないか……」
「ついでに、もう片方は私のよ」
いつの間に追いついたのか、家に置いてきたはずの女子生徒がすぐ側に居た。
「面倒な事になってるわね。できれば、警察官が怪我をする前にカタをつけて頂戴」
「いや、でも銃とか持ってるし。大丈夫なんじゃないか?」
「まあ、試してみるのは悪くないけれども、最悪何人か死んじゃうかもしれないわよ」
「…………」
そうこうしている内に、物色を終えた蟻人間は立ち上がり、おもむろに包囲している警察へと近づき始めた。静止の声にも反応せず、銃にもまるで怯んでいないようである。
たまらず、一人の警官が発砲すると、その瞬間に蟻人間は警官へ目がけて駆け出した。その速度は凄まじく、スピードの乗った車が殺到してきているかのようだった。
しかし、狙いは若干ズレて、警官ではなくパトカーに衝突した。しかし、蟻人間は構わず側面を押し続けると、ひっくり返して横転させてしまった。
その場に居た誰もが、ショックに言葉を失っていた。
「すまん、加勢してくる!」
「だから言わんこっちゃ無い。あ、それからちゃんと必殺技も用意してあるから、頃合いを見計らって使うのよ。左の拳を、右肘の内側面に付けるの。あとは、大体何となくわかるはずだから。ほら、急いで急いで! 技名もフィーリングで付けちゃって、叫んでね! えーっと、それから、それから……」
「とりあえず、分かった!」
的葉は力強く地面を蹴ると、その勢いを殺さずに蟻人間の一匹へ渾身のドロップキックをお見舞いした。相手はくの字に折れたかと思うと、その次の瞬間には川へ向かって吹き飛び、盛大な水しぶきと共に水の中へと叩きこまれた。
「警察の皆さん! 危ないので、下がっててください!」
「うわああああああああ! もう一匹増えた!」
「違いますから! 俺は奴らとは別です! あなた方の味方なんです!」
しかし、何を言っても恐怖のどん底にいる警官達には、新しくやってきた化け物が何事かを叫んでいるようにしか見えなかった。
彼らを納得させるには、ただ説明するだけでは不可能だと悟った的葉は、敵を倒してさっさと逃げる事に決めた。
「さあ、ちゃちゃっといこうか」
的葉は警戒の体勢を取っていた別の蟻人間へと走りよると、その顔面を殴りつけた。しかし、相手はまるで怯まずに向かって来ると、がむしゃらに腕を振って、爪であちこちを引っ掻いてきた。
的葉の脳裏に先ほどのサラリーマンの姿が浮かび、反射的に防御の姿勢を取ったが、鋭い爪も装甲に傷一つつけられなかった。的葉の感覚では、打撃のような振動が伝わって来ていたのだった。
思っていたほどの脅威にならないと分かってしまえば、もう何も怖くない。的葉はテンションに身を任せながら、相手の体に一発ずつ打撃を打ちこんでいく。しかし、彼は格闘技の経験などまるで無く、それはお世辞にも様になっているとは言えなかったが、それでもスーツの力を借りてるおかげで、何とか攻撃として成り立っていた。
敵は、顔に、ボディに、肩に、何度も拳を打ち込まれた為か、あちこちがひび割れてきていた。
(あと一歩だ!)
勝利を確信した的葉は、右腕を大きく振りかぶると、トドメの一撃を放たんとした。だが、その拳を振り下ろす前に、先ほど川に蹴り込んだ蟻人間が背後から迫り、彼は羽交い絞めにされてしまった。
今まで殴られに殴られていた蟻人間は、これ幸いと反撃に転じようとする。
一気に劣勢へ立った事で浮足立った的葉は、とにかくデタラメに蹴りを繰り出し続けた。それはどうにか牽制になり、幸運な事に、がむしゃらに暴れたおかげで勢い余って後ろへと倒れる事に成功したのだった。
彼はその隙に脱出すると、今度は二匹の蟻人間に向かって構えをとった。
(二対一か。これはよくない。という事は……)
的葉は変身の時のように、顔の前に右手をかがすと、肘の内側に左の拳をピッタリ付けた。すると、ベルトからの奇妙な電子音と共に、右手の小指から肘にかけて緑色の光が走り、それがそのままネオンのように光る筋となった。
「なるほど!」
その様子を見ていた蟻人間達は、顔を見合わせると、タイミングを合わせて同時に襲いかかってきた。
的葉は刀の鞘を納めるように右腕を腰の辺りに構え、二匹を待ち構えた。
(そうだ! 必殺技の名前を考えていなかった! えーっと、えーっと……そう、不動明王の持ってる剣が確か……知恵の利剣とか何か、お爺ちゃんが言ってたような……)
記憶の奥底をひっくり返してみたが、正式な名称などの情報は出てこず、探し続ける猶予も無かった。
「利剣……利剣……。何て言うんだ。英語で――――」
もはや、自分のアドリブ能力に期待するしかないと悟り、とにかく思いついた事を叫ぶ事にした。
「おあああああ! コンセッション・ブレードッ!!(利権の刃)」
どこからか、カッコ悪いー!! という叫びが聞こえた気がしたが、余裕が無かったので彼は聞こえなかった事にした。
居合抜きの要領で放たれた手刀は二匹の蟻人間の鳩尾あたりを切り裂き、仰け反らせた。
傷口から無数のヒビが走り、二匹の蟻人間は岩石が爆ぜるように砕け散った。その欠片は地面に触れると全て土となり、跡形も無くなってしまった。
「生き物じゃ無かったのか……?」
的葉はどうすればいいのか分からなくて、その場に立ち尽くして、ただ残った土を見ていた。
「そ、そこのお前! 両手を上げて、ゆっくりとこちらを向け!」
彼の意識を現実へ引き戻したのは、警官達の声だった。彼らは的葉に銃口を向け、ジリジリと近寄って来ていた。
ようやく、今がゆっくりできる状況ではない事を思い出すと、彼は素早く踵を返し、生身の人間では追いつけないスピードで走り去った。そして、隠れられそうな草むらに飛び込んで息を潜めると、そこである事に気づく。
(これ、どうやって元に戻るんだろう……?)
実は、先ほどの彼女が最後に言おうとした内容がまさにそれだったりするのだが、今更気づいても後の祭りである。
「どうしよう。とにかく、このままどうにか自宅まで戻って……。あー、いや違う。とにかくあの子を捕まえて聞かないと。でも、どうやって町の中を移動すればいいんだろう」
「落ち着きたまえ。いいかい、変身解除、と言えばいいんだ」
突然、近くの茂みから少しくたびれた雰囲気の男が顔を出した。
「え? え? 誰です?」
「落ち着いて。ホラ、私だよ」
そう言うと、彼は自身の体を指さしてみせた。丁度、胸の辺りに鋭利なモノで切り裂かれたあとがあり、周囲には赤い血が滲んでいた。
「! さっきのサラリーマンの人! 大丈夫なんですか?」
「ああ、これは血糊だから。気にしないで。それよりも、早く変身を解くんだ」
「ああ、はい。えー、変身解除!」
的葉がそう言うと、体に纏っていた甲殻は粒子状となり、下にあったオレンジの根に吸収されていく。それに合わせて、根も縮小していくと、デバイスの中へと収まっていった。
(全部この中に入っているのか? しかし、一体何で出来ているんだろう。いや、それよりも先に……)
「あの、あなたは何者ですか?」
「私は、そのデバイスを作った女の子の助手です。といっても、実はただの家事代行みたいなものなんだけどね」
「そうなんですか。でも、どうして切られた演技なんか……?」
「詳しい事は後で彼女の口から説明してくれるはずだよ。とにかく、まずは移動を。さあ、こっちへ来て」
男は的葉を手招きしながら、ガサガサと草むらを抜けていく。慣れているのか、彼は結構な速度で突っ切っていく。その後ろ姿を見失わないよう、的葉は必死に追った。
草むらを抜けたら土手を越え、町の中へ。民家の間の隙間をカニ歩きで抜け、雑居ビルの裏通りを通って今度は線路の隣にある小道を行く。すると、その先に三階建ての大きな豪邸が見えた。
男はポケットから鍵を出すと、それを豪邸の裏口の扉に差し込んで開けた。
「さ、入って」
「お邪魔します……」
中に入ると、そこはキッチンの隣にある勝手口であったらしく、様々な食器やカップ麺などが無造作に置かれていた。
「ごめんね、散らかってて。向こうが居間になっているから、ちょっと座って待っててくれないか。あ、そうだコレ。使って」
的葉に手渡されたのは、いわゆるコロコロと呼ばれる、粘着性のカーペットクリーナーだった。よくよく考えてみれば、草むらを走り回ったのだから、衣服には小さい草などが付いているのは当然だった。
室内で行うとゴミがそこいらに落ちてしまうと考え、的葉は入って来た裏口に戻り、外に出て体中を掃除した。しかし、ある程度は何とかなったものの、やはり取り切れないものや、汚れが目立つ。
「あー、ダメだったかぁ。じゃあ、服は洗濯するから、脱いでよ」
「いえ、そこまでしていただかなくても」
「遠慮しないで。こっちのせいなんだから。とりあえず、制服のズボンだけでも綺麗にしておこうか」
確かに、家に帰ってから洗濯したのでは、明日までに乾かないかもしれないと考え、的葉はお願いする事にした。
「あの、それじゃあお言葉に甘えて……」
「はい。乾くまではバスタオルを腰に巻いてくれるかい。実は男物の着替えってここには無くって。なんせ、彼女一人で住んでるもんだから。俺の着替えを取りに行ってあげたいけど、駅一つ向こうでね。悪いけど、少し我慢してくれないか」
「いえいえ、お構いなく。あの、それじゃあ、両親は今どこに……」
「今は二人ともに外国だね。結構忙しいみたいで、たまにしか帰って来ないんだ。で、だから私がたまにやって来て面倒を見ているわけでね」
「へぇ……」
的葉は渡されたタオルを腰に巻き、居間へと移動した。そこは、非常に整然としていて綺麗なのだが、どこか生活感の無さを感じさせた。どうやら、普段はあまり使われていないらしい。
的葉はソファに座ると、ぼんやりと庭を眺めた。
庭はほとんどが砂利で敷き詰めれており、なるべく世話をする手間がかからないように工夫されている。ベランダには木製の屋外テーブルセットがあったが、それもほとんど利用されていないのか、砂埃で汚れていた。
と、そんな事を考えていると、正面の玄関の鍵が開く音が聞こえてきた。
「ただいまー」
現れたのは、先ほどの女子生徒。しっかりと二人分の鞄を持って来てくれていた。
「お邪魔してます」
「いらっしゃい。ちゃんと合流できたみたいね。警察の人には、襲われた時の詳しい状況が聞きたいから、今度二人で署に来てくれって言われたわ……。まあ、別にやましい事は無いし、今度行きましょう」
「あー、そっか。そういえば、一応は被害者だもんね……。やっぱり、ぼくも行かないといけないのかな? 身元はバレてないし、黙ってれば……」
「何言ってるの。鞄の中身を集めてもらった時に生徒手帳をバッチリ見られたんだから、住所までキッチリ書き写されてるわよ」
「……そうですか」
そこで女子生徒は何かに気づくと、体を戦慄かせながら、ゆっくりと彼を指さした。正確には、彼の下半身を。
「ちょ、ちょっと……下、バスタオル……」
「ああ、ごめん。ズボンが汚れちゃったからさ、君のいとこのお兄さんが洗ってくれてるんだけど、その間だけ、ちょっと借りるね」
「か、借りるねじゃないわよ! それ、私のバスタオルよ! 私が、私が普段使ってる!」
「え」
「へ、変態! とんでもない変態! 下半身汁をたんまり染み込ませて、それを私に使わせる気なの? アンタって、マーベラスだわ。これって、どう考えても犯罪と判断しても構わないわよね?」
「ちょっと待って! これは、ただ渡されただけだから、ぼくも知らなかったんだよ! すまない、謝る。じゃあ、これも洗ってもらおう。な?」
「待って。脱がなくて結構よ。そのタオルはもうあげるから……。これ以上、私にダメージを与えないで頂戴」
「本当に済まない……。大事に使わせて貰うよ」
的葉としては、それは他意の無い言葉だったのだが、今の過敏になっている彼女にはそうは聞こえなかった。
「つ、使うですって!? 一体、何に使おうっていうのよ! ハッ! まさか、そいつを腰に巻いたままポリネシアンなダンスを踊ろうっていうんじゃないでしょうね!?」
「誤解だよ! 普通に体を拭くだけだよ!」
「マニアックだわ! つまり、さもぼくは特に何もしてませんよーって顔で、家族とかの前で女の子のタオルを使って股間を拭く事に背徳的な快感を得ようっていうのね! 天才だわ!」
「人の部屋で堂々と、洗濯物嗅ぎ出す君には絶対に言われたくないな!」
「変態! ほとばしるほどに変態! ユーアー・チャンピオン! パブリックエネミー・ナンバーワン!」
「君だって変態だろ! 英語とか使ってるけど、全然頭よく見えないからな! だったら、君はもしも仮にぼくのタオルを手に入れたら、そうするのかよ?」
「…………(ゴクリ)」
彼女は黙ると、またも血走った眼をしながら生唾を飲み込んだ。
「何考えてるんだよ! 怖いよ! その目でこっち見ないで!」
「……ちょっとアンタ、家に帰ってタオル持ってきなさいよ」
「絶対に嫌ァ!」