敵襲
神部と中井、小島の三人は小学校の近くまで下ってくると、それから河川敷の方向へ少し行き、今度は丘をぐるりと迂回するように歩いていった。丘の上の高級住宅街から降りる道は、登り切って向こう側へ抜けるかの二つしかないので、中腹あたりならば、一旦戻った方が楽なのだ。
三人が歩いている時、どういうわけか小島は神部に対して積極的に質問をしていた。
「あの、神部さんはどうしてこんな事してるんですか?」
「どうしてって言えば、そりゃあ新聞部だしねぇ。ああ、正確には写真部なんだけど、まあそれはいいや。で、まあせっせと取材する理由はね、俺は将来こっちの道で食っていきたいと思ってるからさ。だから、今から修行をしてるって感じ?」
「記者になるんですか?」
「正確には、カメラマンかな? 立派なカメラはまだ持ってないけどね。今は、使い捨てカメラを使ってる。決定的な瞬間に出会ったら、いつでもシャッターが切れるように持ち歩いてるよ」
そう言うと、神部はポケットから小さなカメラを出して見せた。
「へぇ……。あの、神部さんっていつからそういうの目指してたんですか?」
「中学からだね。昔、何かで見た写真がえらく印象的で、調べてみたらすごい賞を貰ったやつみたいでね。その写真が歴史を変えたーとか何とか言われてた。それを知ってから、一枚の写真でそんな事ができるなんてすごいなーって思ったんだよ。それから、自分も写真を撮ってみたくなったって感じかな」
「そうなんですか。あの、やっぱりそういう事をしてる時って楽しいですか?」
「うん? そりゃあ、楽しいっちゃ楽しいかな。不本意な事もあるし、知れば知るほどガッカリする事もあるけどね。一枚の写真で伝えられる事があるって事は、一枚の写真で壮大な誤解を生む事もあるって事だからさ」
「……大変そう、ですね」
「かもね。まだ、スタートラインにも立って無いから、あんまり大きな声で講義もできないんだけどね。どうしたの、君もこういうのに興味あるのかい?」
「いえ……。ただ、最近になって将来の事とか考えるようになって」
「将来! 君ってまだ小学生だろ? その歳でもう、先の事を考えているのかい? そりゃあ、いくらなんでも早すぎやしないか」
「そんな事無いです! 兄ちゃんは、同じ歳の時に野球選手になるのを決めてて、もう色々と頑張ってるんです! だから、俺も……」
「なるほどね……。でも、そういう事なら、君だって今は野球をしているじゃないか」
「あれは……、お下がりのがあるからって、父さんに入れさせられたんです」
「そういう事か。じゃあ、君にとって憧れるような人はいないのかい? スポーツ選手とか、ヒーローとか」
「分かりません。カッコいいなって思う事はありますけど、何かどれもピンと来ないって言うか……。それに、自分に向いてるかどうかも分からないですし……」
「ああー、向き不向きねぇ。また難解な事を……。そういうのはやってみなきゃ分からないと思うけどね。それに、万が一に向いてないと分かっても、好きだから続けるって人もいると思うよ」
「そうですか……」
「まあ、気持ちは分かるよ。今の、まだ具体的に目標が決まって無い時ってそんなもんだよな。だからまあ、向いてる物を見つける為にも、色々な事をやってみるべきだと思うよ。スポーツだけでもたくさん種類がある。職業で考えればもっと多いし、どこの組織でどんな部署がいいかなんて話をすれば、それこそ星の数になる」
「…………」
「焦る事は無いさ。俺だって決めたのは中学だし、世の中には働き始めてから見つかる人だっているくらいなんだからさ。いつ始めて遅いって事は無いと思うよ。それに、仕事に就いて、結婚して子供を作ってっていうのも、立派な目標だしねぇ」
「色々と、考えてみます……」
「そうしてみるといい」
話している内に、三人は中井の家に到着した。門の前に来ると、中井は深々とお辞儀をした。彼の中にもまだ消化できていないものがあるのだろうと思い、神部と小島は何も言わずにいた。
しかし、顔を挙げた中井の顔が、突然凍りついたように動かなくなり、真っ青になったのを見て、異常に気付いた。
「あ……あ……」
中井の視線は、離れた場所にある雑居ビルの屋上に向けられていた。正確には、そこに立っている者に、である。
緑色の体と、虫のような頭。紛れもなく、件の虫男だった。
「中井くん、小島くん。二人とも早く家に入って!」
今にも気を失いそうな中井を急かすと、あたふたとしながら家の鍵を開け、二人で飛び込むように入って行った。神部は、それを確認すると、自分は中には入らずにドアの前へ立ち、虫男を凝視した。
「まさか、本当に出るとは……」
虫男は、どこを見ているのか分かりにくい顔ではあったが、微動だにしないせいで何を見ているのかは明白だった。しかも、それが偶然ではなく、目的を持っているものだというのが如実に理解できる。
神部は全身に鳥肌が立つのを感じていた。間違いなく、自分は今、とんでもない場面にいるのだと自覚できた。彼はおもむろにポケットからカメラを出すと、素早くシャッターをきった。
フレームの向こうにいる虫男は慌てるそぶりも無く、じっとその様子を見ていた。
数枚の写真を撮ってカメラを下ろすと、そこで初めて相手は動き出す。何と神部に背を向け、どこかへと消えたのだった。
神部は、心臓がバクバクと高鳴るのを感じた。安心して体から力が抜けたせいか、心音だけが異常なほど大きく聞こえていたのだった。
今、彼の頭にあるのは、一刻も早く写真を現像しなければならない、という事だった。
「二人とも! 絶対に外に出るんじゃないぞ!」
そう叫ぶと、神部は返事も待たずに現像ができる店へと駆け出した。
近道になるよう、路地裏をジグザグに進んでいく。横歩きになったり、ゴミ箱を飛び越えたり、くつろいでいた猫を踏みかけたりと、とにかくがむしゃらだった。
あまりにも慌てていたせいか、大通りが見えた時、後先考えずに飛び出していた。
「あ」
そんなマヌケな声を上げたのは、どちらだったのか。神部は通りかかった人に激突してしまった。
「いてて……。あの、すいません……」
起き上がってよく見てみると、それは何と的葉だった。
「あー!! 加賀くんじゃないか! 丁度よかった!」
「何がですか。いきなり飛び出したら危ないでしょう……。しこたま尻もちついちゃったよ……」
「そうじゃなくて! 虫男が出たんだよ! まさに、さっき、目の前で!」
「本当ですか!? それは、どこに?」
「中井くんの家から少し離れた雑居ビルの屋上だよ。それからさ、コレ! このカメラにばっちり撮ったから! マジで!」
「それはすごい……。でも、よく撮れましたね。相手は逃げなかったんですか?」
「ああ、それなんだけど。撮り終えるまでじっとしてたんだ」
「じっとしてた?」
「え……あ、うん……」
「分かりました。とにかく、現像に行きましょう」
「ああ、ちょっと待って。やっぱり、俺の知り合いの店に行こう! そこなら、頼めばすぐにやってくれるはずだからさ!」
「その店はどこあるんですか?」
「ああ、高校の近くだよ! ウチはいっつもそこで現像して貰うんだ」
「分かりました。それじゃあ、駅に急ぎましょう。こっちの路地から行くのが近道ですよ」
「え、そうなのかい? そんな道、行ったこと無いけど」
「ちょっとフェンスを乗り越えたりしますけど、こっちの方が断然に早いですよ」
「そうか、分かった!」
「さあ、行きましょう!」
そう言うと、的葉は少し離れた場所から路地裏に入った。
しばらく走っている内に、神部の頭にはある疑問が浮かび上がっていた。この道は、本当に駅に通じていただろうか? というものだ。確かに、町の地理を全て把握しているわけではないが、それでも普通の人間よりは遥かに詳しいはずだった。記憶が確かであれば、このまま行っても、行き止まりにぶち当たってしまうだけ……。
「なあ、加賀くん。もしかして、勘違いしてるんじゃないかな? この道って……あれ?」
路地裏の角を曲がった所で、神部は唐突に的葉を見失ってしまった。それどころか、気配すら感じない。
これはどういう事かと思案していると、背後で何かを踏む音がした。神部がそちらを振り向こうとした時、後頭部に衝撃を感じた。
鈍い音と共に焼けるような痛みが襲い、神部はわけもわからないまま、その場に倒れ伏した。無意識に手を伸ばして頭の後ろを触れてみたが、幸いにも血は出ていなかった。しかし、それでも触れればズキンと痛むくらいの怪我は負っているようだった。
「な、何……」
「黙ってろ。変な真似をしたら殺す。そのままでいろ」
降って来た声は、間違いなく的葉の声だったが、その響きは知っているものとはまるで違っていた。内にある酷薄さが滲み出たかのような、奇妙な冷たさのある声だった。
「加賀くんじゃ、無いな……」
「黙っていろ」
声の主は、神部のポケットをまさぐると、使い捨てカメラを取り出した。そして、そのまま背を向けると、足早に去って行った。
神部は勇気を振り絞って、その後ろ姿をコッソリと覗き見てみると、人間の後ろ姿が徐々にブレ、その下から艶やかな緑色の甲殻が出てきた。その姿は、間違いなく自分たちが追っていた化け物そのものだった。
湯船春日の言っていた事を話半分に聞いていた神部だったが、この姿を見た事でそれが全て真実である事を理解した。
彼はしばらく、そこから動く事ができず、寝転がり続けた。とにかく、今は余計な事を何もしない方が良いと判断したのだ。確かに、重要な写真を奪われはしたが、命さえあれば状況を覚えている限りは伝える事ができる。
神部は数分前に見た光景をひたすら反芻した。覚えている事と不鮮明な事を区別し、確かなものだけを選び出し、メモ帳に書きなぐった。




