先生
「中井!」
見かねたのか、野球少年が彼の名前を呼んだ。そうすると、中井はビクリと体を震わせ、驚愕の表情でこちらに振り返ると、落ちていた靴を拾って、こちらへトボトボと歩いて来たのだった。
「……中井。一体、どうしたんだ?」
「小島…………」
中井少年は、一言だけ呟くと、あとはただ俯いて沈黙し続けた。
今更ながら、的葉と神部は野球少年の名前を聞いていなかった事を思い出し、二人とも、この子は小島というのか、と頭の中でメモをとった。
とにかく、この場所に居ては気も落ち着かないだろうと、近くの公園へと移動する事にした。そして、ベンチに座らせると、神部が気を利かせてジュースを買って配った。
いくらか落ち着いた所を見計らい、的葉が話を切り出した。
「中井くん、君は今、とても怖がっているね? それは、やってはならない事をしたからだ。そう、例えば……同級生に、ケガをさせてしまった、とか」
中井は体を硬直させると、すがるような顔で的葉を見た。
「安心していい。ぼくらは、そちらの事については興味が無い。ただ、事実をハッキリさせたいだけだ。だから、約束しよう。ここで聞いた事について他人には一切口外しない」
「……あ、あの。どうすれば?」
「今から、ぼくが集めた情報で分かった事について話すから、間違っていたら訂正して欲しい」
「……はい」
「君は、九条なるみの依頼で協力関係となり、彼女が行っている、ある女子生徒に対する嫌がらせに加担している。間違いない?」
「いえ! ぼくは勝手に参加してるだけです。彼女に命令されたとかは、全然……」
「ふむ。君は、その女子生徒の机に蛇を入れたね? それも、独断でやったと?」
「……はい」
中井少年は、顔を真っ青にしながら、ゆっくりと肯定した。
「よろしい。では、何故そのような事をしたのか? ぼくの推理ではこうだ。君は、九条なるみと他二名が行っていた嫌がらせ、すなわち消しゴムの切れ端を投げるという行為に参加していた。しかし、それの一かけらが誤って九条に命中。怒りを買う事となり、途中で止めた。そして、君は名誉挽回の為、独断で蛇を使った、と」
「……はい」
「君が九条なるみに対して抱いている感情については察しが付く。だから、そこはあえて明言しない。しかし、君が本来するべき事は、彼女に加担する事では無かったはずだ、とだけ言っておこう」
「ごめんなさい! もうしません! ごめんなさい!」
中井は半べそをかきながら、何度も頭を下げ続けた。
「謝る相手が違うだろうに……。それに、ぼくはその件に対して何もする気は無いって言ったじゃないか。そもそも、君はさっきから何を怯えているんだ?」
「あの、それは……」
冷や汗をかきながら口ごもる中井を見かねたか、小島が割って入ってきた。
「中井、もしかして虫男の事か?」
虫男。その単語を出した瞬間、中井少年の様子が明らかに変わった。観念するように、目をギュッと瞑って、体を少し丸めた。
それを見て、神部が質問した。
「小島くん、その虫男って何だい?」
「えーっと、ちょっと前から何か噂になってて……。悪い事をすると虫男がやってきて、半殺しにされるっていうんです。俺らの野球チームの監督も、すっごい嫌な奴で皆から嫌われてたもんだから、その虫男にやられたって……」
「それは、噂話じゃないのかい?」
「監督が、虫みたいな恰好した奴にやられたって言ってたんです。それに、怪我してるの見つけたのも、その事を聞いたのも中井だったし」
「ふうむ、もしかしてそれって……この公園で目撃されたっていう、例の不審者の事かな?」
「ひいっ!」
神部の言葉を聞いた中井は、周囲をキョロキョロと見回し始めた。果たして故意なのかどうかは分からないが、その反応を見た神部は、うんうんと頷いた。
「なるほどねぇ。中井くんが恐れているのは、その虫男だったのか」
中井はいよいよ精神的に参ってきたのか、涙を流し始めた。神部は慌てて彼に近寄ると、必死に宥め始めた。
「まあまあ、中井くん。君に罪の意識があるなら、ちゃんと謝れば良い話だ。何をするべきかは分かるね? とにかく、これからどうするかって話だから。じっくり考えて、週明けの朝一番にでも謝罪すれば、きっと大丈夫だから」
「うっ……うぐっ……はい」
神部は一安心すると、的葉にこれからの事をどうするか聞こうとした。しかし、彼が真剣に何事かを考えているのを見て、声をかけられなかった。
的葉は、しきりにブツブツと、
「合わない……動機と行動が合わない……。どうしてだ……?」
と、ばかり言っていた。
そして、何を思い立ったか、一度空を仰ぐと、次にこう言った。
「神部さん、小島くん。君らは念の為、中井くんを家まで送っていってあげて欲しい。親しい友人に大人も居れば、帰り道も安心できるだろう。ぼくはこれから、九条なるみに話を聞かなければならなくなってしまった」
その提案に対して、神部と小島は何も言わず、ただ頷いたのだった。的葉の様子が少しおかしかった事もあるが、とにかくグロッキーになっている中井を安全に送ってやる事が最優先だと分かっていたからだ。
そして、的葉は三人と別れると、再び九条邸へと赴いた。
インターホンを押して少し待つ。いかにして、あの母親を説得して娘と話をするか、的葉は色々と考えていたが、予想とは違い、出たのは九条なるみ本人だった。
『はーい』
「どうも、餅巾着高校新聞部の者です。九条なるみさんですか? 実は、少しお話を聞かせて頂きたいのですけど」
『私にですか? 何でしょう?』
「最近、この辺りで現れるという不審者の話です。お母様には、以前お話を伺ったのですけど、今度はアナタに話を聞きたいと思いまして」
『…………。ごめんなさい、実はもう少しでお友達が来るんですけど』
「五分ほどで結構です。お友達が来れば、そこで打ち切っても構いません」
『はあ……』
「どうも。実はですね……先ほど、同じクラスの中井くんに話を聞きましてね。何でも、良くない行いをすると、虫男なる者が現れるそうですよ。で、よくよく聞いてみると、以前にこちらで目撃された不審者とよく似ているみたいでして。何か、最近になっておかしいなと感じた事はありませんか? 例えば、視線を感じるとか」
『とくに変わった事はありません。それに、その虫男がやっている事も立派な犯罪行為でしょう? まずは自分を捕まえて警察に行くべきだと思います』
どうやら、九条なるみという子は相当に気が強いらしい。なるほど、中井くんは手強い子が好みであるらしいなぁ、などと的葉は考えた。
「ごもっともです。奴は、必ずしかるべき報いを受けるでしょうね。でも、その為には正体を突き止めないといけない。どうか、協力して頂けませんか?」
『そう言われても、本当に変わった事なんて何も無いんです。それこそ、さっき中井がやってきたくらいで』
「彼は何と言ってました?」
『本人に聞いたなら、事情は大体知っているんでしょう? 学校で度の過ぎた嫌がらせをしてしまった。ぼくらは虫男に狙われるかもしれない、君もすでに目を付けられてるーとか何とか。アイツが勝手にやった事なのに、私は関係無いわ!』
「しかし、ぼくらの調べでは君も相当にヤンチャな事をしているそうだけど?」
『それは……。でも、怪我をさせたわけじゃないし、相手の物にだって触れてさえいないわ! それに……』
「それに?」
『いえ、何でも無いわ……』
「差し出がましい事を言うようですけどもね、君が限度をわきまえてると思っていても、あちらさんはそう思ってないんじゃないですかね。そもそも、限度がどうこうって話じゃないですしね」
『何よ、説教しようっていうの?』
「いいえ、ぼくは君がやっている件については、何もしないと決めているんです。あくまで、例の不審者の正体を暴くのが目的ですから」
『随分こだわるのね。だったら、そっちも聞かせて頂戴。どうして、そんなに虫男が気になるの?』
「簡単だよ、名誉欲と怨恨だ。奴をとっ捕まえて名声を得る。そして、酷い目に遭わされた被害者の恨みを晴らすのさ」
『ふぅん……』
「さあ、そっちの番です。さっき、言い淀んだ事を教えて下さい。予想するに、それは君が今でも強硬な姿勢を保っていられる原因でもあるんじゃないかな?」
『………………絶対にここだけの話よ。いい? 私が虫男に襲われない理由は、私よりもずっと酷い奴が側にいるからよ』
「……酷い奴?」
『担任の安田先生よ』
「そんなまさか。彼女は君を注意したような人だろう? それに、解決の為に教頭へ進言したりもしていたのに」
『そんなの嘘よ。確かに、嫌がらせをしてる私達三人を呼び出したけど、それは注意する為じゃないわ。むしろ、焚き付ける為だった。学校の中でいじめが起こるのは避けられないから、あくまで目立たないように続行して、バランスをとれって。怪我をさせたり、濡らしたり、物に手を出したりするのさえ控えていれば、これ以上は何も言わないし注意もしないって言ってたわ』
「それが本当なら、凄まじいな……」
的葉は胸の奥がムカムカとするのを感じていた。タイムマシンに乗って来た時よりもずっと気分が悪いと思った。
『やってるのは私だけど、それを奨励するような人の所に先に行かないなんて有り得ないわ。もしも、虫男が本当に悪い人を狙っているなら、まずは安田先生が何かされるはずよ』
「他に、その事を知っている人はいるのかい?」
『私と、あと加担してる二人だけよ。中井は知らないわね。……全く、あれだけ気を付けてやっていたのに、中井が余計な事をするから……。安田先生と話をしなきゃいけないわ』
「話してくれてありがとう。とても有力な情報だ」
『約束は守ってよ。この事を人に話さないで』
「仲間内で情報交換をする場合はあるかもしれないけどね。でも、安心していい。話すとしても、信用のおける少数にしか話さないし、必要が無ければ誰にも言わない」
『そう、それならいいわ』
「どうもありがとう」
マイクの向こうから、プツリと音がしたのを確認して、的葉はブラブラと帰り道を歩き始めた。頭の中では、今まで聞いた話を反芻しながら、色々な可能性を考えていた。
すると、向こうから見知った人間が二人、こちらに歩いてきた。見れば、それは九条の取り巻き、佐藤と加納だった。
的葉は二人に近づき、呼び止めた。
「君たち、ちょっといいだろうか。ぼくは餅巾着高校新聞部の者だ。実はさっき、九条なるみさんに話を伺っていてね。できれば、君たちにも話を聞きたいのだけど」
二人は顔を見合わせると、怪しむような、怯えるような視線を向けてきた。
「実は、この辺りに出没してる不審者について聞きたいんだ。虫男って知ってるかい?」
その質問には、加納が答えた。
「そういう恰好の人が出たっていうのは、友達から聞いた事あります。でも、私達は見たこと無いです」
「そうか。実はその虫男、悪い人間を襲っているらしいんだけどね。君たち、誰か被害に遭いそうな人を知らないかい?」
「分かりません……」
「…………。そうか。呼び止めてすまなかったね」
「いえ……」
的葉が道を譲ると、二人は小走りで脇をすりぬけて行った。なるほど、これが小学生女子の正しい姿だろう。九条なるみのように胆の据わった人間の方が珍しいのだ。
今回知った事を春日にどのように説明したものかと思案しながら、的葉は再びボチボチと歩き始めた。その背中を、坂の上から小さな四つの瞳が冷ややかに見つめていた。




