左手は考える手
静かな、静かな里の秋。
裏庭のお背戸に、カラン、コロンと椎の実が落ちる。その音が、夜の冷気に澄んで響いていた。
土間にはむしろが敷かれ、志乃は父と母、一つ違いの弟と車座になっていた。輪の真ん中には竹籠があり、裏山からもいできた梨が小山のように盛られている。秋の初めから毎日、顔を見るのも嫌になるほど実り続けた、肌の粗い赤梨だった。
志乃の小さな手には、よく研いだ切出し包丁が握られていた。
「志乃、右手を回すんじゃないよ」
籠から大ぶりの梨を取り上げながら、父が穏やかに言った。
「包丁を持つ右手は、そこにじっと置いておく。刃を動かすんじゃなく、梨を持つ左手をゆっくり回すんだ。右手は使う手。左手は考える手だ。左手がよく考えて動けば、皮は途切れないし、刃も迷わない」
「はいっ」
志乃は父が大好きだった。
言われた通り、右の肘を脇腹にぴたりとつけて動かさず、左の手のひらで梨のごつごつした丸みを転がしていく。透けるほど薄い皮が、するすると一本の紐になって土間へ垂れていった。
「あ、姉ちゃんのほうが長いや!」
弟が悔しそうに声を上げ、母は囲炉裏の火影で笑った。
家族で競い合い、剥いた端から口に運んでみたものの、そういくつも食べられるものではない。志乃は本当は、町の八百屋で見かける二十世紀梨のような、翡翠色のなめらかな肌と、上品な甘さが好きだった。この家の梨は野趣が強く、ざらりとした舌触りがいつまでも残る。
近所に配って歩いても、どこの家にも裏の木がたわわに実をつけていた。持っていけば、かえって困った顔をされる始末だった。
「柿だったらねえ。吊るして干し柿にでもできるのに」
母はため息をつき、剥いた果肉を大鉢に移した。
昭和の、山深い過疎の村だった。テレビの電波さえ山の端に遮られて、画面はいつもちらついている。傷み始めた果実を大量にどうにかする知恵など、家族の誰にもなかった。
やがて父は、石臼とすり鉢を持ち出してきた。
梨を細かく刻み、力を込めて潰す。木綿の布を敷いたざるで漉すと、黄金色の果汁がとととと桶に溜まっていった。父はそれを、味噌の仕込みに使う大きな素焼きの甕へ移し、板の間の床下深くにしまい込んだ。
「これなら、少しはもつだろう」
それから数日後のことだった。
学校から帰ると、板の間のあたりに、嗅いだことのない甘やかな香りが漂っていた。囲炉裏の鉄鍋を覗いてみたが、煮えているのは大根と油揚げばかり。香りのもとは見当たらなかった。
夕暮れ、野良仕事から戻った父が手足を洗い、板の間へ上がった。床板を一枚外し、暗がりに柄杓を差し入れる。父は琥珀色の液体をすくい、ガラスのコップに注いだ。
「志乃、ちょっと飲んでみるか」
コップを口に寄せると、熟れた果実の甘い香りが鼻をくすぐった。
ごくり、とひと口含む。梨の細かな粒の名残が舌をかすめ、そのあとから、ふくよかな風味が口いっぱいに広がった。
「……うーん!」
志乃は思わず、口角をきゅっと引き上げた。
砂糖を入れたわけでもないのに、どうしてこんなに豊かで華やかな味がするのだろう。絞りたての青臭い甘さとは違う。まるで、梨が別の生き物になったような味だった。
けれど、異変はその翌週に起きた。
香りは日に日に濃くなり、板の間の隙間から立ちのぼる匂いを嗅ぐだけで、頭の芯がぽうっと温かくなる。喉の渇いた志乃が床下から一杯すくって飲むと、胸のあたりがかっと熱くなった。鏡を見れば、顔が真っ赤に上気している。
「父さま、これ……お酒だよ」
父は最初、まさかと言って笑った。
だが、ふらりと訪ねてきた隣村の友人に、「ちょっと珍しいものができた」と振る舞ったのが、すべての始まりだった。
「おい、これは極上だ! どぶろくより、よっぽどうまいぞ!」
男たちの賑やかな笑い声は、秋の夜風に乗って村の細い路地へ漏れていった。
酒を造るには、国の許しがいる。
そんなことは教科書にも載っていなかった。山の中で、傷みかけた果汁がいつのまにか酒になった。それを誰が「罪」だと疑うだろう。けれど、山向こうの税務署から来た男たちにとって、それは紛れもない密造だった。
数日後、小さな平屋の前に黒塗りの車が止まった。背広姿の役人と、腕章を巻いた警察官が家に踏み込んでくる。土間を越え、板の間に上がり込んだ。
「甕はどこだ」
「鑑識に回す。杓で掬って瓶に詰めろ」
冷たい事務口調が、狭い家に響いた。
囲炉裏の隅で、母は弟の肩を抱き、身を縮めていた。近所の人たちは垣根の隙間から遠巻きに覗き、ひそひそと囁き合う。泥棒に入られたわけでも、人を傷つけたわけでもない。それでも父は、重罪人のように役人の前に立たされ、詰問を受けていた。
志乃は柱に背を押し当て、息を殺して父を見ていた。
「意図して造ったわけではありません。傷みやすい梨の果汁を、保存しておいただけです」
父は頭を下げ、丁寧に、けれど掠れた声で弁明した。
役人は手帳から顔を上げず、冷ややかに答えた。
「意図があろうとなかろうと、アルコール分が一パーセント以上あれば法に触れる。自家用だろうが、造ったことに変わりはない。人に振る舞ったなら、なおさらだ」
父の背中が、わずかに揺れた。
あの包丁を握る右手のように頑丈で、決して揺らぐことのなかった父の背中が、小さくすぼんで見えた。
そのとき、志乃の脳裏に、あの秋の夜の土間がよみがえった。
――右手は使う手。左手は考える手。
包丁を握る右手をこらえ、梨を持つ左手で、静かに、狂いなく実を回した夜。
目の前の理不尽な嵐のなかで、父はいま、何を考えているのだろう。怒りに任せて役人を突き飛ばすことも、泣き叫んで許しを乞うこともせず、父は膝の上に両手を揃え、じっと嵐が過ぎるのを待っていた。
それは、右手を動かさず、必死に左手を働かせている姿に見えた。
甕は押収され、トラックの荷台に載せられて運ばれていった。
家には、かすかな甘酸っぱい発酵の匂いだけが残った。
その後、父が役所に呼び出され、どんな始末書を書き、どんな罰を受けたのか。九歳の志乃には知る由もなかった。父は家族の前で、その話を二度としなかった。
翌年の秋も、裏山のお背戸には椎の実が落ち、赤梨の木は変わらず重たい枝を垂らした。
けれど、梨が石臼ですり潰されることは、もうなかった。実のほとんどは土へ還り、鳥についばまれるままになった。
土間に座り、志乃は包丁を握る。
右手をじっと固定したまま、左手で冷たい梨の肌を回す。皮は一本の紐となり、途切れることなく足元へ落ちていく。
考える手。
世界がどれほど無遠慮に踏み込んできても、自分の心だけは傷つけられないように。静かに、慎重に、生きるための輪郭を探る手。
志乃は梨をひとかじりした。
しゃり、と音がした。
甘さの底に、あの秋の、苦くも芳醇だった大人の匂いが、ほんのかすかに混ざっているような気がした。




