マイグランパ
その1
祖父は婿養子だった。
四人兄弟、妹が一人いた。祖父は一五ほどで、村の最奥部にある貧しい農家に婿入りした。
長男は日露戦争に出征していた。すぐ上の兄は近くの村に婿入りしていた。ところが長男は戦死してしまい、実家は末弟が継ぐことになった。
祖父の実家は、村役人をしていた名家の分家だった。本家は村の中央部にあり、構えもどっしりしていた。いわゆる「分限者」だった。
祖父は働いた。
山林を切り拓き、田畑を開墾した。近くには一年中、水の涸れたことのない渓が流れていた。ワサビが繁茂する清流だった。竹を割って樋にしたもので、飲み水を引いていた。
水の便に恵まれたので、十枚に余る水田を所有していた。比較的平坦な山地は広い水田に姿を変え、それでも一家を養うには足りずに、水さえ引ければ急斜面でも田んぼ用に鍬を入れた。
畑では野菜や雑穀類のほか、昔からたばこが栽培された。貴重な換金作物だった。高品質で全国に名をとどろかせた「阿波たばこ」である。
家の近くは田畑として開墾し尽くされ、村人は山の上へ上へと新たな耕作地を求めた。渓から引いた水は水温が低く、稲の根元から新しい茎が出る数は少なかった。この分けつが悪いと、多くの収穫量は望めない。反面、棚田での農作業は効率が悪い。その苦労は計り知れなかった。
また、傾斜畑の作業も多くの困難を伴った。せっかく手入れした土壌もまとまった雨が降れば流されてしまう。そこで、土を掻き揚げるための専用の鍬を開発したり、刈り集めた茅などを畑に敷くなど、この地特有の「傾斜地農耕システム」が発達してきた。
まさしく「耕して天に至る」だった。
その2
祖父は勤勉だった。その上、器用だった。屋敷の敷地を拡げ、母屋・納屋・倉庫・物置小屋など次々に建てて行った。
建物は本職を雇うとしても、敷地は自らが整地するしかない。長年かけてしっかりした石垣が築かれていた。
祖父は農業のかたわら、炭焼きや木こりなどをして、生涯この村で生きた。
猟をしたらしく、古い鉄砲があった。ごくたまに、竹藪から竹を伐って来て釣り竿を作り、吉野川の支流・祖谷川に出かけた。
趣味らしい趣味はない中でも、メジロか何かを飼っていた。庭先に鳥かごを出し、口笛を吹きなら眺めていた。手製の鳥もちを作り、おとりを使っておびきよせては捕まえたもので、同好の士がメジロの端正な姿、さわやかな鳴き声を競い合った。
晩年、テレビが普及すると、大相撲やプロレスを観ていた。相撲中継は時間が来ると、どこからか居間に現れ、スイッチを入れていた。その様子から、楽しみにしていることがはた目にも分かった。
多くを語らない人だった。
憲三は母親から、祖父の苦労談を聞かされた。
祖父は学校は出ていなかった。手持ち無沙汰の時など、右の人差し指で宙に字を書いていたのを憲三は覚えている。今にして思えば、独学で覚えた字を復習していたのに違いない。
後に憲三の兄の憲が亡くなり、その思い出話に憲三の命名にまつわるエピソードが出て来た。
祖父は末孫に期待を寄せた。自分の名前から一字とって賢三とすることにしていた。ところが、役場に行った兄が間違えて憲三として届けてしまった、というものだった。
どんな願いをこめていたのか。祖父とあまり会話がなかったことが、憲三には悔やまれた。
祖父は配偶者に先立たれていた。
祖母の妹は豪傑で知られ、年中、裸足で通した。出かける時、藁草履を腰にぶら下げた。足の裏は石のようになり、裸足で毬栗を剥いたという伝説が伝わっている。
この妹ほど長生きはしなかったものの、憲三の祖母は三男二女に恵まれた。
長男が跡を継ぎ、二男は独立して家庭を持った。三男は近くの村に婿入りした。長女は長男の嫁の弟と縁組みした。
このうち、二男は大工から、当時としては目新しい保険業に転職した。
「生命保険なんて、縁起でもない。帰ってくれ」
と忌み嫌われた時代だ。
叔父は保険の営業で好成績を上げ、四国では常に売り上げ上位にランクされていたらしい。祖父の自慢の息子だった。
二女は名前をコユキといい、体に障害があった。早くから和裁の修業をし、和裁一本で身を立てていた。
祖母は臨終に際して、コユキを置いて逝くに忍びず、泣いて母親の手を握って後を託したという。
憲三が最初にコユキ叔母さんを見たのは、家の寄せ墓の時だった。祖父と父で代々墓を建立し、散らばっていた墓を一か所にまとめた。その頃、叔母さんは近くの村に住む独居老人の養女となっていた。
叔母さんの家を訪ねると、薄暗い部屋で、豪華な反物に囲まれて花嫁衣裳などを縫っていた。地域では厚い信頼を集めるナンバー1和裁士だった。
その3
憲三の幼少期、村には二二軒の家があった。
ベビーブームの余波が残り、村に八人の同級生がいた。ほとんどの家に祖父母から孫まで三世代が住んでいた。食事時には囲炉裏端にズラリと子どもたちが並ぶ。奥には祖父母が控えていた。そのまま家父長制を象徴するような食事風景だった。
村に博識なことで知られた当主がいた。その家ではミョウガを食べなかった。ミョウガは物忘れの原因とする民話を聞き、当主が
「昔の人が間違ったことを言ったはずがない」
と禁制にしてしまったからだ。家族には疑問を差しはさむことなど、もってのほかだったのだろう。
憲三の家でも、祖父の権力は絶大だった。
祖父の性格を知り尽くした父親は、唯々諾々と従っていた。母親は何かにつけて、祖父を立てた。
憲三がおもちゃに毛の生えたような顕微鏡を買ったことがあった。いろいろなものを見て、新鮮な感動を味わった。特に、蚤を顕微鏡で見た時の驚きは格別だった。母親に顕微鏡を差し出すと
「早う、爺ちゃんにも見せてあげんと」
と、憲三に呼びに行かせた。
「あの小さい蚤がこんなに大きゅうに見えるのか」
と祖父は声をあげた。
憲三は天にも昇る気分だった。同時に、子ども心に、祖父がいかに大切にされているか分かった。
祖父の実家からは末弟の嫁が「兄さん、兄さん」と言って、よくご機嫌伺いに顔を出していた。近くの村に嫁いでいた妹も、村祭りには欠かさず、お祝いに寄っていた。
いつも祖父は家の中心にいた。
その4
祖父が七六歳の時、長孫の憲に嫁を取った。翌年、曾孫が生まれた。
嫁の初産は難産だった。あまりの苦しがり様に、祈祷をすることになった。ところが燈明を切らしていて、憲三が買いにやらされた。麓の商店街までは子どもの足だと片道四〇分以上かかった。憲三はなんとも承服しがたいものを感じながら山道を下って行った。
祖父に曾孫が誕生したことから、一家に四世代が住むことになった。長寿さらには子孫繁栄のたまものであり、村人の羨むところとなった。
憲三の長兄の嫁・富美子は奥地の村の生まれだった。
富美子の父親は長男ではなかったのか、家に祖父母はおらず、弟が一人、妹が三人いた。
中学卒業後、関西の紡績工場に勤めていた。
一度、故郷を離れたことのある身ながら、言葉は生まれ育った地域のまま。嫁に来ても、憲三の村の方言や訛りの影響をまったく受けていなかった。
育った環境のせいか、気性もさっぱりしていた。言いたいことはズケズケと歯に衣を着せなかった。
富美子は働くことは厭わなかった。憲と山に行って、炭を焼いた時期もあった。
自ら家計の一翼を支えていたこともあってか、節約家だった。一円の無駄遣いをも嫌った。それが高じて
「ウチはくれるものなら何でももろうて帰るぞ」
などと公言して憚らなかった。
毎日、労働に明け暮れる生活だった。山仕事で疲れた時など、富美子は風呂が何よりの楽しみのようだった。
その日、風呂から上がった富美子はいきなり大声を出した。
「もう、誰が湯船の中でからだ洗ったのうや。垢が浮いて、後の者は入れん」
いかにも汚そうに、顔をしかめてみせた。
風呂は五右衛門風呂だった。釜に水を張って、薪を燃やすだけのもので、釜から直接湯を汲んで体や髪を洗った。どの家でも、週に一回も入ればよい方だった。ましてや、大家族だった。順番が後になればお湯は汚れる。
富美子の発言に即座に反応した家族がいた。祖父だった。
「ほんなら、オラはもう風呂に入らん」
祖父は風呂に入らなくなった。
憲三の母親が熱心に勧めても、頑として動かなかった。それでも、祖父がごくたまに、自分から入ると言い出すことはあった。背に腹は代えられなかったのだ。
その5
いつの頃からか、祖父は屋敷の奥の倉庫みたいな建物で自炊していた。いきさつは定かでない。憲三が中学までは一緒に食事していたはずだ。
建物は藁などの保管に使われていた。左正面には土間があり、下に芋ツボが掘られていた。板の間にはムシロが敷かれ、小さな囲炉裏があった。ここで煮炊きし、寒い季節には暖を取っていたのである。
祖父は家族団らんの時、背を丸め、コタツに手足を突っ込んでいた。お決まりのポーズだった。
「寒いぞ。誰ぞ、ふとん持ち上げとるやろ」
富美子は遠慮がなかった。
家族は背中こそ丸めなかったものの、みんなコタツに手足を入れていた。しかしながら、富美子の声は明らかに祖父を意識したものだった。
憲三は高校二年の時、心臓を悪くして休学した。
下宿を引き払い、生まれ故郷に戻った。バイクの免許を取り、長兄のバイクを借りては、あちこちに出かけた。また、復学に向けて、勉強も忘れなかった。
憲三が家で勉強していると、庭で祖父の声がした。
「オラを干そうとかかっとるのか」
祖父の目は血走っていた。憲三が生まれて初めて見る異様な目だった。
なんでも、炊事に使っている水が出なくなった、という。祖父はそれを家族の誰かが嫌がらせにやったものと決めつけていた。
憲三はあまりの理不尽さに腹が立った。大声で揉めていると、母親が飛んできた。憲三が水を見に行くことになった。やはり木の葉が水源に溜まっていただけだった。
祖父はいつしか孤立し、被害者意識で固まっていた。
その6
麓の繁華街に個人医院が開業していた。そこで憲三はコユキ叔母さんを見かけた。不自由な体でクスリを取りに来ていた。
憲三は叔母さんにクスリを届けることを申し出た。寄るたびに叔母さんは感謝して、小遣いをくれた。
田舎は狭い。憲三の行動を見ている者がいた。あらぬウワサが立っていたらしい。
「あれは富美子の指図で、憲三を叔母の家に出入りさせ、財産の横取りを狙っている」
というものだった。
母親の妹がこのウワサを耳にした。妹は放っておけず、富美子に情報を入れた。
富美子は怒り狂って外出から帰った。
「ウチはもうコユキさんのことは知らん。憲ちゃんも行くなよ」
その剣幕に、家族はあっけに取られていた。
富美子はウワサのことを説明した。
「ええな、そんなこと言われとるんやから、憲ちゃん、行ったらいかんぞ」
不憫な娘のことであり、祖父は黙っていなかった。
「嫁にそんなこと言う権利があるんか!」
挙句の果てに、祖父は親族会議を開くと言い出した。
「ここからは、そう阿呆は出てないんぞ」
祖父は暗に、富美子に覚悟を迫っていた。
間に割って入ったのは母親だった。母親は祖母の臨終の様子を、涙ながらに話して聞かせた。
「ウチはあの声を今でも忘れることができん」
これが原因になったかどうかは分からない。憲夫婦は家を出た。
母親によれば、後に祖父と憲はつかみ合いになる寸前だったことがあるらしい。長男なりに腹に据えかねていたのだろう。
憲三はこれ以上、身内の争いごとを聞く気にならなかった。翌春、新学期を待ちかねて、高校に復学した。
頑固な祖父は、富美子たちが家を出てからも自炊生活をつづけた。
憲三が二〇歳の折、祖父の使っていた建物でボヤ騒ぎがあった。富美子は憲三に電話してきた。
「憲ちゃん、出火見舞いの礼状、出しといてくれよ」
丸投げだった。
その7
祖父の戻るところはもう母屋しかなかった。
祖父は人生最後の四年間、息子夫婦と心穏やかに毎日を過ごした。
九四歳の初夏、夜、トイレの前で倒れ、絶命していた。憲三は大阪で勤めている時に、祖父の訃報を聞き、四国に駆け付けた。憲三が初めて経験した身内の死だった。
憲三の母親は一二年後、七四歳で病死した。遺された父親を一人にはしておけず、憲夫婦が引き取った。
すでに父親も憲夫婦も鬼籍に入っている。
祖父が拓いた土地には杉が鬱蒼と繁り、家屋敷は荒れるに任されている。村に残るのは三軒だけ。うち二軒は祖父の実家とその本家である。
わずか百年足らずの間に、田舎は目まぐるしい変化に見舞われた。いちばん面食らっているのは、ほかならぬ祖父だろう。憲宅の近くに改葬された代々墓に、祖父は眠っている。




