〈2−3〉 水鏡の幽霊 中編
綺麗な三日月が空に浮かぶ中、セレネは宮廷を訪れていた。
夜の宮廷はとても静かだ。昼はそれなりに賑やかだが、今は人の気配がまったくない。
なるほど、怪奇現象が一層怖く感じるはずである。
所々の部屋はまだ灯りがついており、それが一種の神秘さを感じさせる。
ひゅうっと吹き抜ける風は冷たく、厚着をしてきて良かったと心から思わせてくれた。
それと同時に、これからどうしようかと少し悩む。
きっと大丈夫だ、どうにかなると、すぐにやめる。
あの美青年の代理なのか、それともお目付け役なのか、アルカスも来てくれていた。
「ノクス様は、お仕事でしょうか?」
何となく、気になったので聞いてみた。
あの量の書類だ。毎日徹夜でもしているのだろうか。
セレネの少し後ろを歩くアルカスは、眉間にしわを寄せ、遠い目をして月を見上げる。なんだかお疲れだ。
「ノクス様は⋯⋯⋯⋯寝ています」
「⋯⋯はい」
たっぷりと間を開けて言われた。
やっぱ聞かなきゃ良かったな、とセレネは後悔する。
人が頑張って調べようとしているのに、寝ているとは良い身分である。いや、実際良い身分か。
アルカスはあの青年のやる気を知らせるためか、付け足す。
「ノクス様は行きたがり、駄々をこねていらっしゃいました」
「それで、寝たんですか」
「⋯⋯正確に言えば、寝かせました」
(子どもかよ)
駄々をこね、寝かせてもらうとは赤子のようである。
確か、年は二十そこそこだったか。大人げないにも程がある。
深く息をつくアルカス。何か疲労回復効果のある花でも持ってこれば良かった。
持ってきたのは、別のものを入れた鞄だけだ。
疲労回復効果のある花といえば、ヒルガオやサンシュユなんかが良いだろうか。
どちらも疲労回復、強壮効果が期待できる植物だ。
全草やら果実やらを乾燥させて、煎じて飲めばいい。
この場にいないけれど、それでも十分影響力のある青年の話をし、花のことを考えているうちに貯水池へと辿り着いた。
広い池には、管理倉庫へと架かる細い橋がある。
欄干はなく、足を滑らせたらすぐに落ちてしまうような作りだ。
夜空を鏡写しにした水面は、水面が風に撫でられ、緩やかに波打っている。
(とてもじゃないが、幽霊が現れる雰囲気じゃないな)
満天の星空を映した池は、美しいという他ない。
もう少し景観を整備すれば、良い星見スポットになりそうなのだが。
(さて、本題本題)
まずセレネは、橋の前に立ってみた。
すると、水面に人のようなものが浮かび上がる。
セレネはそこに立ったまま、辺りを見渡し、目を細める。
(人影は部屋から漏れた光か)
最近、カーテンを開いて作業する者でも現れたのだろう。
徹夜でご苦労さまである。
ある程度近い形を成していれば、人は自然と自分が知っているものに置き換えようとする。
点が三角形を作るように三つ並んでいれば、顔に見えるのと同じである。
『背後から押されたように、足元が滑った。そして落ちる時、ほんの一瞬だけ誰かに腕を掴まれた』
あとはこの話だ。
早く帰りたいセレネは、じっくり調べるようなことはしない。
一番手っ取り早く、分かりやすい方法を取れば良い。
セレネは持参してきた鞄を足元に置いた。
上掛けも脱いで汚れないように鞄の上にかける。
「⋯⋯エストレラ嬢?」
「お気になさらず。少し、離れていただけますか?」
この寒空の下、突然妙な行動を取り始めたセレネ。それを訝しげに見るアルカス。
セレネはできるだけ何も考えず、自然に一歩踏み出す。
無論、橋の方へ。
「エストレラ嬢?」
「⋯⋯⋯⋯あっ」
返事の代わりに、間の抜けた声が響いた。
ツルンと足元が滑り、腕が掴まれた感覚がした。
そして、ザブンと大きな水音が響く。
(寒い、寒いぃっ⋯⋯)
豪快に冷水に落ちたセレネは、震えつつ陸の方まで歩く。
それほど深さはないので、溺れはしない。膝まで浸かるか浸からないかだ。
ただただ寒いだけである。
ガチガチと歯を鳴らしながら、セレネは池から這い上がる。
スカートの裾を絞り、結っていた髪もほどいて絞る。下ろしていたら邪魔なので、また簡単に束ねる。
服が重い。そして濡れているので、風にさらされて体温を奪っていく。
「エストレラ嬢。着替えを用意しますので、ついてきてください」
アルカスの丁重な申し出に、セレネは首を横に振る。
そして、妙に決まった顔で鞄を指差す。
「持参しましたので」
「⋯⋯⋯⋯」
アルカスは閉口した。
セレネは気にする様子もなく鞄をよいしょと持ち上げ、近くの茂みに移動する。
月は三日月なのでさほど明るくなく、暗いので見えないだろうと早着替えをする。
僅かに体温の残った上着を羽織れば、完璧だ。
「お見苦しいところを、失礼しました」
「⋯⋯エストレラ嬢」
「はい、何でしょう」
淡々と表情一つ変えずに応じるセレネ。
アルカスは眉間に指を添え、ゆっくりと言う。
「最初から、試すつもりだったのですね⋯⋯」
「まぁ、そうなりますね」
そうなりますね、ではなく、そうです、が正しい答えだ。
特に理由なく、話を聞いたときから試してみたいな、と思っていたのだ。
だから、着替えを持参した。
興味のあることは、徹底的に突き詰めたい性である。
(ひとまず、これで分かった)
足元が滑ったのも。誰もいないのに、腕が掴まれたのも。
「気がついたことがあるのなら、ノクス様に報告しておきますが」
「いいえ。明日、また参ります。そちらの方がきっと、分かりやすいですよ」
普段は一文字になっている口が、緩やかな弧を描いていた。




