〈2−2〉 水鏡の幽霊 前編
宮廷管理官の執務室は、大量の書類で溢れていた。前回訪れたときよりも増えている気がするのは、気のせいだろうか。
(まぁ、何でも良いか)
端的に言って興味がない。
なのでセレネは、大抵のことを「まぁ良いか」で流してしまうという悪癖があった。
深く追求して関わり合いになりたくないというのもある。
(ラベンダーの香りか)
ふいに鼻孔をかすめたのは、ラベンダーの香の匂いだ。
良い香りだなぁ、とセレネは鼻をスンスンさせる。
ラベンダーの香りにはリラックス、鎮静、安眠効果があると言われている。あとは虫よけになる。
落ち着いて仕事をするにはうってつけの香だ。
(いかんいかん)
今は貴人に呼び出されたのだった、とセレネは頭を振って切り替えた。
ラベンダーの良い香りに思いを馳せている場合ではない。
興味があることに一途になってしまう。これも場合によっては悪癖である。
長いこと無言で待っていたノクスに、セレネは挨拶をする。
「ごきげんよう、フェリス様」
「ごきげんよう。できれば、ノクスって呼んでもらえると嬉しいのだけど」
何かこだわりでもあるのだろうか。
そういえばアルカスも、この青年のことを「ノクス」と呼んでいたなと思い出す。
「⋯⋯では、ノクス様で」
「ありがとう、セレネ」
(何故私も?)
そう思いはしたが、特に呼び方にこだわりはないので放っておく。
それよりも、早く本題を済ませてしまいたい。
「何か御用でしょうか」
「切り替えが早いね」
ノクスはおっとりと言いつつ、一枚の書類をこちらに向けて置いた。
セレネは近寄って紙面を見る。
「幽霊騒ぎ、ですか?」
「うん。最近、噂が絶えなくて」
幽霊騒ぎの内容としてはこうだ。
宮廷の北側には、庭園管理や火事の備えとして貯水池がある。
細い管理橋の架けられた、ただ水を貯めるだけの池であり、人目につかない場所に位置しているものだ。
最初は夜になると水面に映る人影が、近づいたら消えるというありきたりな噂話だった。
だが、ここ半月ほど、その池に転落するという事故が多発している。
しかも、夜にだけ。
落ちた者は皆、口を揃えて証言する。
『背後から押されたように、足元が滑った。そして落ちる時、ほんの一瞬だけ誰かに腕を掴まれた』
振り返るが、当然ながらそこには誰もいない。
水面に映る、怪しい人影。吸い込まれるように落ちていく人々。
いつしか「池底に幽霊がいる」と噂されるようになり、以降〈水鏡の幽霊〉なんて呼ばれているそうだ。
巡邏兵は怖気づくか、幽霊騒ぎに巻き込まれ、役に立たない。
そこで、宮廷管理官であるノクスにお鉢が回ってきたという。
全く、役立たずな警備だ。
「どう、調べてもらえるかな?」
果物のバスケットを貰ってしまった時点で、断れるわけがない。
ただ一つ、セレネは言いたいことがあった。
「私はただの花屋ですが」
巫女でも除霊師でも何でもない。そこは履き違えないでほしい。
ノクスは穏やかに頷く。
「うん、知ってるよ」
「⋯⋯⋯⋯」
知っているから何だというのだ。
幽霊騒ぎと花屋に、何か関係があるのか。
「どう、調べてもらえる?」
頬杖をつき、にっこり笑顔でノクスは問う。
優しい笑顔の裏に、有無を言わせぬ圧をセレネは感じ取った。
「⋯⋯夜に、でしょうか」
「勿論。心ゆくまで調べておくれ?」
心ゆくまで調べたいから言ったのではないのだが⋯⋯とセレネは内心呟いた。
◇◆◇
夜空は黒いビロードで、その上に無数の宝石が縫い留められている。
宮廷北棟の一室で、女はそんなことを思った。
癖がなく真っ直ぐな黒髪を、さらりと背中に流した可憐な雰囲気の女だ。
年の頃は、二十歳ほど。
女は隣の帝国では侯爵の爵位、ここシュタール王国では子爵の爵位を得ている貴族の一人娘だ。
十歳ほどまで帝国で育ち、そこからはシュタール王国に居住している。箱入りだという自覚はあった。
今は宮廷で刺繍職人の見習いとして、日々精進している。
女が手に持っているのは、白いハンカチと水色の刺繍糸が通った針。
窓辺の席に腰掛け、夜空を見上げながら刺繍をするのが、女の最近の日課である。
夜の時間は自由なので、今は仕事として刺繍を刺していない。
想い人に贈るためのものだ。
女はほうっと息をつき、一針一針丁寧に、相手のことを想って刺繍を施していく。
大輪の薔薇などという、華やかなものではない。
白いハンカチの端に、さり気なく施す慎ましやかな小花だ。
贈る相手のことと、自分の性格を考えれば、これくらいがちょうど良い。
(無事に、帰ってきてくれるかしら⋯⋯)
透明なガラス窓に手をつき、女は遠い地にいる人を想う。
今頃どこにいるだろうか。
知らせでは、もう三日もしないうちに戻ってくると聞いたのだが。
彼がこの地を発つ前、女は同じようなハンカチに、黄色いバラを刺繍したものを贈った。
彼は喜ぶというよりかは、戸惑っていた。
貰っても良いのか、という戸惑いではない。
女は彼に、何度も刺繍したものを贈っている。
あれは一体、どんな心情だったのだろう。
(刺繍だけじゃなく、花も贈ったほうが良いのかしら⋯⋯)
白いハンカチに咲くのは、小さな青い花。
故郷では、忘憂草と呼ばれていた花だ。




