〈4−8〉 チェス
チェスは貴族の嗜み――なんていう片眼鏡ことウィスの言葉は本当のようで、宮廷管理官の執務室にもチェスボードがあった。
セレネとノクスは来客用のソファーに向かい合って座り、チェスボードを挟む。
アルカスは後ろでせっせと書類を仕分けている。何だか申し訳ない。
「来客以外の時はしないのだけどね。⋯⋯あ、でもこの遊びならするかも」
そう言って、ノクスは駒を手に取る。
何をするのかと思いきや、駒を上に上に積み重ねていった。
僅かに揺れているが、崩れはしない。脅威のバランス感覚である。
乗せる駒が四つ目になったところで、バランスが大きく崩れた。
「「あっ」」
二人の声が重なる。
ノクスに至っては、ぎゅっと目を瞑った。
駒はガシャンと大きな音を立て、チェスボードに崩れ落ちた。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
しばらく沈黙が流れる。
長いようで、実際はとても短い時間だったのだろう。
先に口を開いたのは、セレネだった。
「これがチェスですか?」
「ううん。違うよ」
「ですよね」
ウィスとレベッカがしていたものとは、全くの別物であった。
二人は駒を積み重ねてバランスゲームなどせず、普通に盤上で動かしていた。
「うん、真面目にやろうか」
「そうですね」
二人は見つめ合い、一つ頷く。
「ちなみに、セレネはチェスについてどれくらい知ってるの?」
「ステイルメイトしか知りません」
引き分けのことだ。
ウィスとレベッカにつく、ちょっと図太い使用人のクリスティアンに教えてもらった。
セレネのチェスに関する知識は以上である。
「チェックメイトくらいは聞いたことない?」
「ちぇっくめいと⋯⋯?」
異国の言葉を聞いたかのように復唱し、セレネは小首を傾げる。
知らないんだね、と苦笑し、ノクスは説明を始める。
「まず、チェスは相手のキングを取れば勝ち。チェックメイトっていうのは、いわゆる詰みだね。ちなみに、その一手前はチェック」
キングはこれね、と王冠の載った駒を指差す。
駒は全部で六種類らしく、キングの他にクイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ポーンがあるそうだ。
一般的には、クイーンが一番強く、ポーンが一番弱いと言われているそう。
縦、横、斜めなど、それぞれの駒によって動ける範囲が違う。
難しいように見えるが、案外動き方は単純だ。
「白が先手。黒が後手。相手の駒がいるマスに動けば取れて、取った駒は盤の外。ポーンは斜め前の二マスが、他の駒を取れる位置だけどね」
ノクスは白のクイーンを動かし、黒のポーンをつまんで盤面の外に出す。
所作が丁寧で繊細なところを見ると、この人は貴族なのだなぁと感じる。
その他にも、特殊ルールがいくつかあるらしい。
ポーンが敵陣の最奥まで進めば昇格できる、プロモーション。
キングとルークが動いておらず、尚且つキングがチェックされていない時のみ有効のキャスリング。
「難しそうに見えるけど、シンプルなルールだと思うよ」
ノクスは駒を並べ、にこりと微笑む。
実際に見せてもらいながらというのもあったのかもしれないが、彼の説明は丁寧で分かりやすかった。
「どう? やってみる?」
「⋯⋯お忙しいんじゃないんですか」
セレネはちらりとアルカスの顔色を窺う。
もう十分時間は経ったと思うのだが。
「⋯⋯エストレラ嬢のお時間があるなら、相手をしてあげてください」
それだけ言うと、アルカスは遠い目をして空を見上げた。
もう完全に、小さな子供を世話する父親が様になっている。
「セレネが先手。私はクイーン抜き。これで良い?」
「はい」
セレネは返事をし、白のポーンを手に取った。
◇◆◇
「チェックメイト」
二時間も経たない頃、その言葉を口にしたのはノクスだ。
(⋯⋯強っ)
セレネの感想は、この一言に尽きる。
容赦なく強い。向こうはクイーン抜きなのに。
セレネはチェス歴数時間、ノクスは幼少期からやって来ている差があれど、見事な完敗である。
盤上に残っている駒のほとんどは、黒の駒だ。
セレネが取れた黒の駒は、たった二個。
一方ノクスは十五個。キング以外の全てを取った。
この青年、温厚そうに見えてえげつない。
味方をほぼ無傷で済ませつつ、相手を全滅させるのである。怖い。
「チェスはお得意なんですか?」
「そうじゃないと思うけど、そうなのかな」
「そうだと思いますよ」
「ふぅん」
どこか上の空の様子で相槌を打ち、ノクスはじいっと駒を見つめる。
感想戦でもしているのだろうか。この試合でする必要はないと思うのだが。するならばセレネの方である。
(⋯⋯帰って良いかな)
もう随分長いこと執務室にいるのだが。
だがしかし、話題を振れと言われたからとて、チェスの教えを乞うたのはセレネである。
身分も相手の方が上だし、おいそれと早く帰りたいなんて言えない。
なので視線で訴えていると、静かに書類作業をしていたアルカスが気付いた。
「ノクス様、エストレラ嬢にも自分のことがあるのですよ」
言ってほしかったことを全て言ってくれ、セレネは内心手を合わせて感謝する。
「そうだね。ありがとう、セレネ。楽しかったよ」
「こちらこそ」
セレネは頭を下げ、執務室を後にした。
今日の夕食何にしようかなぁ、とか考えながら。
◇◆◇
「この恥晒しが」
低く吐き捨てる言葉が耳に入ったとともに、頬を殴られた。
少年は力の方向に倒れ、熱を帯びて痛む左頬を抑える。口の中を切ったらしく、錆びた鉄のような味がした。
――熱い。痛い。
だから、何なのだろう。
それ以上、湧き上がってくるものなんてない。
痛いから泣く。侮辱されたから怒る。激情に身を任せて癇癪を起こす。
そのどれもを、まだ五つの少年は取らない。
何も感じないのだ。物心ついた時から、ただ祖父の言いなりになってきた。
そのせいで、少年は感情というものを持ち合わせていなかった。
摩耗したわけではない。分からない、知らないのだ。
少年はのろのろと立ち上がる。座ったままでは、また祖父の機嫌が悪くなるからだ。
自分が怒られたくないからではない。全ては祖父のため。
「すみません、お祖父様」
用意された台詞を読むかのように平坦な声で、少年は謝罪を述べる。
「謝罪は聞き飽きた。実力で示せ」
そう言い捨て、祖父は蔑むように少年を見下ろす。
宝石のように冷たいあの目は、無能を見る目だ。
話すことはないと言わんばかりに、祖父は背を向ける。
少年は祖父の書斎を後にし、くらくらする頭を抑えながら廊下を歩く。
僅かでも気を抜けば、気を失ってしまいそうだ。故に、壁伝いにしか歩けない。
「――様、大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは、中年の侍女だ。
子どもを早くで亡くしたらしい彼女だけが、この屋敷で少年を気遣ってくれる。
少年は侍女を見上げる。
宝石のように無機質でがらんどうな目は、焦点が合っていなかった。
「⋯⋯だいじょう、ぶ」
「大丈夫じゃないでしょう。手を貸しますよ」
「⋯⋯⋯⋯」
少年は差し出された手をぼんやりと見つめた。
どうしたら良いのだろう。どうするのが正解なのだろう。
(叩いてこないの、かな)
祖父がこちらに手を伸ばしてきた時は、必ず殴られるのに。
役立たず。恥晒し。そんな言葉と一緒に。
「⋯⋯大丈夫、だから」
少年は目を伏せ、覚束ない足取りで侍女の横をすり抜ける。
侍女はそれ以上何も言わなかった。追いかけてくることもなかった。
(これで、良いんだ)
ずっとこうしていれば良い。
祖父の言うことを聞いて、祖父のために尽くせば良い。
それで良い。それが良い。
傀儡のように、ずっとずっとずっと。
意思も感情も持つことは許されない。許してもらおうなんて、思わない。
何も望まないし、何も望めない。
(私は、ただのお人形)
その言葉にすら、少年は何の違和感も感じない。ただある事実だ。
だって、周りも自分のことを傀儡の王子、公爵の操り人形と呼んでいるのだ。
祖父は、自分のことなどチェスの駒と等しく思っているのだろう。
いつでも替えが効く存在。盤上から取り除くことに、何の感情も持てない。
孫として、血縁として見てもらったことなど、一度もない。
どれだけ飾り立てた駒でも、都合が悪くなれば容赦なく切り捨てる。
祖父は――ジェスタール公爵は、残忍で冷酷な人なのだから。




