〈3−5〉 柑橘
「貴様、今これは呪いではないと言ったな⋯⋯それは本当か?」
「えぇ、本当ですよ」
訝しむ視線を向けてくるアーデルに、セレネはあっけらかんと答えた。
カレンデュラも目を丸くして、ぽかんとしている。
「原因は香水ですよ。カレンデュラ嬢が今つけていらっしゃるような、柑橘の香りがする香水です」
「で、でも、わたくしこれは、最近毎日つけていましたのよ」
だから、違うだろうと言いたいようだ。
彼女の言う通り、毎日つけているのに突然症状が起こるのは、おかしく感じるだろう。
アーデルは何か思いついたように言う。
「まさか、毒が少量ずつ溜まったのか?」
「いいえ、それもまた違います」
「ぬぅ⋯⋯」
庶民の小娘にバッサリと切り捨てられ、アーデルはこめかみを引きつらせながら呻く。
確かに、少量ずつ体内に蓄積された毒が、今になって出るということもある。王族ともあれば、そういう危険と日常的に隣り合わせなのだろう。
だが今回は柑橘だ。食用にもされるほどなので、毒はない。
香りからするに、柑橘以外のものは然程混ぜ合わせていないようにも感じた。
セレネはカレンデュラの腕に軟膏を塗り、包帯を巻きながら毅然とした態度で言う。
「太陽の光と柑橘の香水が合わさって、皮膚が赤く反応したんです」
最初、爛れたカレンデュラの肌を見た時にセレネが抱いた感想は「やけにくっきりと爛れているな」だった。
特に手首は分かりやすかった。
袖を少しめくれば、そこは何事もなかったかのように白く美しい肌があるのだ。
恐らく、首元も胸元も同様だろう。
服で隠れている部分は、太陽光を受けない。だから、皮膚は反応しなかった。
曇りの日に呪いの症状が出なかったのも。
今日、王城常駐の薬師が全員出払うほどに呪いの影響が強かったのも。
上流階級の間でだけ、呪いが流行ったのも。
これなら全て、説明がつく。
なぜなら、香水をつけた部分が太陽のもとに晒されないと、呪いは出ないからだ。
或いは、柑橘を食べて数時間以内に太陽のもとへ出るか。だがこちらは、相当な量を食べないといけない。
最近は冷えてきて長袖を着る機会が増えたので、特に条件は限られる。
「毎日欠かさず軟膏を塗って、引っ掻かないようにすればいずれ治りますよ」
色素沈着が残るかもしれないが、それは言わないでおこう。
下手な不安を煽る必要はないし、軽度なのできっと治る。
「では、私は仕事が忙しい故、失礼いたします」
セレネはありもしない大義名分を述べて、呆然とした公爵令嬢と第三王子に頭を下げる。
のんびりと紅茶を飲んでいる医者は、放っておこう。帰るなら勝手に帰ってくれ。
この後は花屋に戻る。どうせ客は来ないので、とても暇だ。
認めたくないが、仕事なんてないのである。
カレンデュラは包帯が巻かれた腕を抑えて、息を吐くようにこぼす。
「呪いじゃあ、なかったの⋯⋯? だって、こんなの⋯⋯」
セレネはカレンデュラの方に振り向き、目を細める。
まるで今日の青空のように、澄んだ空色の瞳を。
「知らないから、呪いと思ったまでですよ」
知識の欠如を埋めるために、人は呪いなどという言葉を使う。
そうして欠けたところを埋めて、安心しようとする。
本当は現象として、証明できるものなのに。
(⋯⋯お腹空いたなぁ)
柑橘の話をしたからか、マーマレードを塗ったパンでも食べたくなった。
パン屋で買って帰ろうかなどと考えながら、セレネは雲一つない碧空を見上げた。
◇◆◇
バシン! と派手な音が、静かな部屋に響く。
まだ十四歳の少女であるアクアは、ジンジンと熱を帯びて痛む左頬を抑え、俯いた。
「ほんっと、アンタは使えないわね!」
甲高い怒鳴り声に、アクアは鞭で打たれたかのようにビクリと肩を震わせた。
開いた扇子を口元に当て、見下すような視線を向けてくるのは、緩やかに波打った美しいストロベリーブロンドの髪が特徴的な令嬢。
ディアーノ侯爵令嬢、リナリア・ティーベル。
自尊心が高く、自分が誰よりも美しいという矜持がある令嬢だ。
「あら? 返事もできない馬鹿なの?」
「も、申し訳っ⋯⋯」
謝罪を言い終える前にもう一度、バシッ! と大きな音が響く。
再び扇子で叩かれ、アクアは目に涙を溜めていた。
けれども泣くのは許されない。泣けば、もっと酷い折檻をされてしまうことを知っているからだ。
「ほんっと、これだから、没落寸前の男爵令嬢は⋯⋯」
そうだ。アクアは、没落寸前の男爵家の一人娘。
数年前までは豪商だったのだが、今はその頃の面影もない。家族総出で、食い扶持を稼ぐのに必死だ。
だからこうして、嫌でもこの令嬢に仕えなければならない。
ここを解雇されては、十四歳と年若いアクアを雇ってくれる場所など、娼館以外もうないだろう。
何があっても身は売るな、と親に散々言われている。
生きるため、食うためにはどんな仕打ちにも耐え、働かねばならないのだ。
リナリアはアクアを平手で引っ叩く。その衝撃で、アクアは床に倒れ込んだ。
髪を鷲掴みにされ、顔を上げさせられる。リナリアの整っていて華やかな顔が、目の前まで近づいている。
爽やかな柑橘の香りが、肺いっぱいに広がる。
アクアは頬が緩みそうになるのを、何とか押さえた。
「美しくもない顔、そのビクビクした態度⋯⋯ほんっと、全部が忌々しいわ」
自分が美しいから、他人を卑下する。そうして優越感を得る。
リナリアだけに限らない。どうせ他の令嬢も、皆同じなのだ。
どうせ、親の権力を買いかぶっているだけのくせに。
どうせ、何の苦労も努力もしていないくせに。
どうせ、どうせ⋯⋯。
心の内で増殖する憎悪は、留まることを知らない。どんどん膨らんで、大きく、濃くなっていく。
それでも、声や態度に出せずにいる理由はあった。
(大丈夫よ⋯⋯もうすぐ、もうすぐ悔しい顔をさせてやれる)
自分には聖女様がついているのだ。
一ヶ月ほど前あの聖女様が御自ら、アクアの元を訪れてくれたのである。
聖女様に従っていれば、彼女らが絶望し、咽び泣く姿を見ることができる。明るい未来を閉ざしてやれる。
そして、アクアは家族に楽をさせてやれる。
その作戦は、もうとっくの前に始まっているのだ。
再び鼻腔をくすぐった濃い柑橘の香りと、机の上に置かれた精緻な彫刻が彫られた小瓶が、それを示していた。




