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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人魚憑きの男

作者: 尾松傘

 暗い部屋でテレビのチャンネルを回す。どれも退屈そうで画面を次々と切り替えていると、カラフルなパラソルと白い砂浜が映り、その瞬間に電源を切った。もうすぐ夏本番だから、テレビを見るのは危険かもしれない。

 俺は海が怖い。一目見ただけで気が狂いそうなほどに。

 けれど、それは水難事故が怖いからではないし、ましてやサメやシャチに襲われるのが怖いというわけでもない。

 俺が海を恐れるのは、人魚のせいだ。

 こんな馬鹿げたことを言うのには、当然ながら理由がある。

 俺がこうなったのは、Sとの一件があったからだ。




 Sは地元の友人で、中学校までは同じだったが、別々の高校に進学して以来ずっと連絡を取っていなかった。

 そんなSと再会を果たしたのは職場でだった。

 プリンターが故障し、メーカーに修理依頼の電話をかけたら、駆けつけたのがSだった。

 長い間会っていなかったから、名刺交換をするまでお互いに気づかなかったが、覚えのある名前に、もしやと相手の顔を見ると、向こうもこちらの顔を見つめていた。

 俺とSはすぐに打ち解け、すぐにサシで飲みに行く関係になった。就職を機に上京した俺は、気軽に飲みに誘える相手がいなかったから、Sの存在はとても有り難いものだった。

 Sと再会して半年ほど経つころには、俺の家で頻繁に宅飲みをするようになっていた。

 Sは手料理を振る舞うのが好きだった。俺が冷蔵庫で寝かせていた食材をSは手早く絶品料理へと変えてしまう。

 Sは料理の味付けには自作のソースを愛用していた。わざわざ俺の家まで持ってくるほどだ、よっぽどの凝り性であるが、これが肉にも魚にもサラダにも合う万能調味料だった。エスニックな味わいというのだろうか、独特な風味があったがそれが妙にクセになった。

 作り方が気になり、Sに尋ねてみたのたが、「なんとなく」という曖昧な返事が返ってきた。説明が面倒ではぐらかされたのだろうと思った俺は「せめて材料だけでも教えてくれよ」と頼むと、Sは曇った顔で「覚えていない」と答えた。

 Sはいつも使命感に駆られるようにソースを作ろうと台所に行き、気がつけば完成したソースが目の前にあるのだと話した。ソースの材料が何で、調理の手順も一切記憶に残っていない。それでもソースが素晴らしいものだという確信があり、どうしても他人に振舞わねば気が済まなかったのだという。

 材料さえわかっていないソースを俺に振舞ったことには腹を立てたが、それ以上にSの状態が心配になり、病院で診てもらったほうがいいんじゃないかと勧めた。

 Sは最初渋そうな顔をしたが、俺が真剣に説得すると、納得してくれた。


 それから2カ月ほど置いたある日のこと。Sから「大事な話がある」と座敷席の割烹に呼ばれた。

 Sの表情を見ると、悪い知らせがあることをすぐに察した。

 Sは食事もそこそこに、俺に数枚の紙を渡した。それはどれも病院の診断書だった。

 やはり重い病気なのかと覚悟を決め、ひとつずつ診断書に目を通した。

 複数の病院を回ったようだが、しかし、どの診断書にも「所見なし」と表記されていた。血圧や体脂肪などの基礎的な健康診断結果もあったが、あらゆる項目が正常値を示していた。

「まるで健康じゃないか」

「ああ、それが問題なんだよ。ほら、昔の俺を思い出してくれ」

 たしかに昔のSは病弱な印象だった。痩せ細っていて喘息持ちでいつも咳き込んでいた。マラソンではいつも後ろの方を走っていたし、林間学校の途中で熱を出して親が迎えに来たこともあった。

「お前が言いたいのは、診断結果が間違っているってことか?」

「そうじゃない。ここ何年かは喘息の症状どころか風邪も引いたことがない。俺は全くの健康体だ。だからこそ、怖いんだよ。やっぱりあれは、本物だったんだって……」

「本当って何が?」

 Sは俯いて目を左右に動かした後、覚悟を決めるようにお猪口の酒を一杯飲んでから話し始めた。

「信じてもらえないかもしれないが……俺はな、人魚の肉を食べたんだ」

 突拍子もない話に俺は思わず吹き出した。

 しかし、Sの表情はいたって真剣だった。

 与太話にしか思えないが、少なくともSは冗談を言っているわけではないようだ。

 人魚の肉というのも、そのままの意味ではなく、何かの比喩かもしれない。

 俺は笑ったことを謝り、Sに話の続きを振った。

 

 2年前、Sは妻ととある海沿いの町へ旅行に行った。

 地元の海鮮を食べようと昼時の町を適当に歩いていたが、どこの店も想定外に混んでおり、なかなか入れなかった。

 そんなとき、木製の看板に《食事処〜人魚の家〜》と書かれているの店を見つけた。

 建物が古く怪しい雰囲気ではあったが、入り口には営業中の看板が出されており、二人とも長時間歩いて腹を空かせていたから、その店に入ってみることにした。

 入るや否や「いらっしゃい」と店主と思しき老婆が、背を向けたまま言った。昼なのに客の姿はなく、店員も老婆だけだった。

 テーブル席に腰掛けると、老婆がメニューを投げ捨てるように置いた。

 Sは早くもこの店に入ったことを後悔した。妻も同じ気持ちだと表情から察して、他の店にしようかと言ってみたが、今から探すのも面倒だからと、結局はそこで食べることにした。

 こんな店でも味は美味いかもしれない、と一縷の望みをかけてメニューを見ると、目を引くものがあった。


《焼き人魚定食……1500円》


 焼き()を空目したかと思ったが、やはり焼き()()と書かれていた。

 人魚の家、というくらいだから、きっとこの定食が看板メニューなのだろうが、いったいどんな料理なのか想像もつかない。

 Sは焼き人魚定食は何を焼いたものかと、老婆に尋ねたが、「そりゃあ人魚に決まってるだろ」とぶっきら棒に言われただけだった。

 博打にはなるが、これは面白そうだと思い、Sは焼き人魚定食を注文した。

 鬼が出るか蛇が出るか、待っていると、老婆が薄汚れたロングスカートを引きずって、定食を持ってきた。

 皿の上にはステーキのようなものが乗せてあった。魚料理が来ると踏んでいたが、見たところそれは肉料理で、どこに人魚の要素があるのかわからず、Sは困惑した。

 ナイフで切ると、肉の断面から墨汁のような黒い液体が染み出てきた。気味の悪さに躊躇しつつも、一口食べてみると、口の中にスパイスの香りが広がった。中々悪くないと思ったのも束の間、その香りの奥から酷い生臭さが襲ってきた。これを抑えるために何種ものスパイスを使ったのだろうが、全然隠し切れていなかった。食感も酷いもので、筋張っていて噛み切れない。とにかく酷い味だった。

 別の定食を頼んだSの妻が「何の肉だったの?」と尋ねたが、Sも何の肉を食べているのかわからなかった。

 噛み切れない肉を飲み込んだ後に「これ、本当は何肉なんですか?」と尋ねると、老婆は「あたしのだよ」と真顔で言った。

「ここは人魚の家で、あたしが人魚、そしたら焼き人魚はあたしの肉を焼いたものに決まってるだろ」

 老婆は当たり前だと言わんばかりに平然とそう語った。

 Sは老婆の発言を冗談と受け取ったが、すっかり食欲を削がれてしまい、半分くらい残して店を出た。

 それにしてもいったい何の肉を食べたのだろうと気になったSは、宿に着いた後、この辺りにずっと暮らしているという仲居に人魚の家の話をしたら、「昔からある店ですが開いているところなんて見たことありません」と言われ、肉の正体も人魚の家のこともわからずじまいだった。


 旅行から1ヶ月ほど経ち、人魚の家のことを忘れかけたころ、Sの妻の妊娠がわかった。これは、奇跡のような出来事だった。というのもSは種無しだと診断されていたからだ。

 さらに、不思議なことは他にもあった。子供のときから悪かった視力が急激に良くなり、眼鏡が要らなくなった。抜け毛が少なくなり、顔の皺も減った。体に活力が漲り、病気にかからなくなった。さらには、肩や首の凝りを感じることもなくなった。まるで若返ったかのような急激な変化がSの身に起きたのだ。

 人魚の肉を食べたら不老長寿になる、なんて話がある。

 もしかすると、あれは本物の人魚の肉で、それを食べたから体に異変が起きているのではないか――というのがSの話だった。


 しかし、納得いかないのは、Sが心底恐ろしそうにしていることだ。

「健康体になったのなら、それで良いじゃないか? 何をそんなに怯えているんだ?」

「それなんだが、人魚の伝承は、あまりに人間に都合が良いと思わないか? 肉に不思議な力があったり、美しい容姿であったり、どれも人間にとって魅力的に思えるものばかり……つまり、これは全部、人魚の罠なんだよ」

「罠?」

「そうだ。生存戦略のために奴らは人を惹きつけるんだ。ウツボカズラが甘い匂いで虫を誘うのと同じだよ」

「その理屈でいくなら、お前はその人魚の婆さんに食べられてないとおかしい。人魚の婆さんとはそれっきり遭遇していないんだろ?」

「違う。食虫植物はあくまで比喩で、実際に人魚が人を食うわけじゃない。奴らのやり方はもっと狡猾で、あの肉を食べた時点でおしまいなんだよ」

「どういうことだよ?」

「人魚を食べた人間は、人魚に身体を奪われる」

「は?」

「記憶が飛んでいるとき、あれが人魚に意識を奪われている時間なんだ」

 全てはSの妄想だと確信した。虚弱体質と性機能不全の完治。頻発する物忘れ。自身に起きた奇妙な変化の原因を考えたSは、旅先で口にした奇妙な肉のことをふと思い出し、それを体の変化と結びつけたのだ。人間は原因のわからないことを嫌う生き物であり、さらに恐怖や不安は正常な判断力を鈍らせる。だからSは自身で考え出したオカルト的な論理に固執してしまっているのだ。

 ここは友人として俺がSの不安を取り去ってやるべきだろう。

「そう心配するな。そんなものはただの思い込みに決まってる」

「だから本当だって言ってるだろ!」

 Sが両手で席を勢いよく叩いた。

 ダン、という大きなに驚いた後、席の上に広げられた手を見てゾッとした。

 ――水掻きが異様に広い。

 河童のような手、いや、ここは人魚と形容するべきなのか。

 落ち着けよ、と言ってSを宥めたが、内心動揺しているのは俺の方だった。ただ水掻きが広かったというだけでは、Sの話を真実だという証拠にはならない。そうとわかっていても、Sの主張と絡めて思考してしまうのは、やはり不可解な事象に理由を求めてしまう心理によるものだろう。Sの話を思い込みだと言い放った俺ですらたったこれだけのことで動揺してしまうのだから、自身の体に複数の異常が起きているSが妄想に囚われるのも無理はない。

 程なくして、その日はお開きになった。

 Sは帰り際に怒鳴ったことを謝り「人魚に取り憑かれていることは嫁にも言ってないんだ。だから、もし俺に何かあって、嫁に最近の俺の様子を尋ねられることがあったら、元気にしていたと伝えてくれ」と告げた。

 俺が「縁起でもないこと言うな」と肩を叩いても、Sは憔悴したような薄い笑みを浮かべ、何も言わなかった。

 

 翌週、Sが行方不明になった。

 家族で海水浴に出かけたときに、忽然と姿を消したらしい。

 最後にあんな話を聞いたせいで、人魚となって海の底へと潜るSの姿を想像してしまった。

 訃報はSの妻から伝えられた。スマホにSからの着信があり、出てみたらSの妻だったのだ。電話口で直近のSの様子を尋ねられ、Sから言われた通りに元気にしていたと伝えたが、直接会って話がしたいと言われた。Sの消息を掴む手掛かりを藁にもすがる思いで探しているのだろう、「どうかお願いします」と必死に頼まれて断れなかった。


 待ち合わせ場所のファミレスに行くと、疲れを顔に浮かばせたロングヘアの女性が眠っている子を抱きかかえていた。

 彼女が俺の視線に気づいて立ち上がった。

「どうも、わざわざ御足労いただきすみません」

「いえ、大切な友人のことですから」

「主人からあなたの話はよく聞いていました。あなたと再会してから途端に明るくなって、料理の勉強まで始めたんですよ。そのせいかよく指に絆創膏つけて」

 どうやら俺の想像以上に、Sは俺のことを友人として大切に想っていたようで、思わず目頭が熱くなった。

「それで主人に何か変な様子はありませんでしたか? 些細なことでもいいんです。どんな話をしたのか教えて下さい」

「……先週は元気そうにしていました。話というと、病院行っても記憶が跳んだ原因はわからなかった、とか」

 人魚の話は出さなかった。Sの最後の頼みというのもあるが、夫の消息がわからず不安を抱えているところに、あんな馬鹿げた話をしても混乱を招くだけだ。

「え? 記憶ですか?」

 俺は奥様も承知していることだと思い込んでいたので、驚いた。

「ソース作るときの記憶がないという話、聞いていませんか?」

「ソースって、なんのソースですか?」

「肉にも魚にも、なんにでも合うあの黒いソースですよ。僕のところにくるときはいつも持ってきてたんですけど」

「主人は家でも料理はしますが、自作のソースなんて使ってません」

 不思議でならない。Sにソースをくれないかと頼んだら「貴重だから」と断られことがある。それほど気に入っているのだから、家でも使っているとばかり思っていた。

「あ、もしかすると、それらしきものは見たかもしれません」

「見た?」

「ええ、口にはしていません。冷凍庫の奥に新聞紙が包まっていて、中を開けたら黒い何かが詰まった小瓶が入っていたんです。主人に尋ねたら、形相を変えて、人にやるものだから二度と触るな、と。主人があんな風に怒鳴ったのは最初で最後で、私、怖くて何も訊けませんでした……もしかすると、薬とか危ないものだったのでしょうか?」

「わかりません。嘘か本当かわかりませんが、そのソースを作っている間のことを覚えていないと言ってました」

「ありがとうございます。何か手掛かりになるかもしれません。帰ったら、まだ冷凍庫にないか探してみます」

「いえ、感謝されるようなことは何も」

「そんなことありません。今日話をしなければ、あの小瓶のことも思い出せませんでしたから」

 憔悴しきった瞳に少しだけ光が戻っていった。

 ふいに目を覚ました子どもが母親の腕の中で鳴き声を上げた。

(うしお)っていうんです。男の子、もうすぐ2才になります」

 潮は母親があやしても泣き止まなかったが、俺と目が合った瞬間にぴたりと泣き止んだ。

「ぱ、ぱ」

 満面の笑みを浮かべている。

「ぱ、ぱ……ぱぱ、ぱぱ、ぱぱ、ぱぱ!」

 何度も同じ言葉を繰り返し、母親の頭の中で暴れ出した。

「この人はパパじゃないよ。パパのお友達」

 そう言ってもまるで効果がなく、困り果てたSの妻は「少し抱っこしてもらえますか?」と俺に子を差し出した。

 小さな体を落とさないように慎重に受け取ると、思っていたよりも重くて驚いた。ゆっくりと揺かごのように揺すると、子どもは気持ちよさそうに眠り、俺の頬が自然と緩んだ。Sには悪いが、一瞬だけ本物の父親になったような気がした。

 パンのように柔らかな握り拳が開き、俺の親指をぎゅっと掴んだ。

 ――水掻きが広かった。

 驚いて、子どもを落としそうになったのをなんとか堪えた。

 間違いない。遺伝している。正体はわからないが、人を人魚へと変える因子が、きっと存在するのだ。人魚の肉を食べたSは人魚になり、その性質は子へと受け継がれた。もしかすると、Sの性機能が回復したのだって、人魚の習性によるものかもしれない。取り憑いた人間の健康と性機能を伸ばし、子を作らせる。そうやって繁殖するのが、人魚の生態なのではないか。

 そうであれば、呪いというよりも寄生だ。寄生虫の中には宿主の行動を操るものがいる。例えば、ハリガネムシは水中で孵化し、水生昆虫に食べられ、その水生昆虫をカマキリなどの肉食昆虫が食べることで陸に上がる。そして腹の中で十分に育った後、宿主を水に飛び込ませて水中へと帰る。

 水へ飛び込むカマキリと海で消えるSが重なる。

 突飛な発想ではあるが、そう考えると合点がいく。

 俺の表情の変化に気づいたSの妻が、「大丈夫ですか?」と声をかけた。

 俺は、大切な用事を思い出したと嘘をついて、すぐにその場を離れた。


 帰宅してすぐ肘の辺りまで念入りに石鹸で洗った。潮に触れたところから鱗でも生えてくるんじゃないかと恐ろしくて堪らなかった。人魚が感染するなんて、我ながら馬鹿げた妄想だと思う。まともな精神をした人間だったら、こんな話は信じないはずだ。

 けれども、この仮説を立てた瞬間に、真実であるという直感が働いたのだ。

 まるで俺の中に俺の知らない何者かがいて、そいつが真実だと囁いているような、奇妙な感覚が確かにあった。

 そういえば、Sも似たようなことを言っていた。

 ――「俺じゃない別の誰かが、俺の中にずっといるんだ!」

 そこでようやく、俺は気がついた。

 Sの自作のソース、あれは独特な風味があった。

 Sが食べたという人魚の肉も、臭みを隠すためにスパイスを多用していたという話だ。あのソースを作ったときの記憶をSは持っていない。

 Sの妻は言っていた――「あなたと再会してから途端に明るくなって、料理の勉強まで始めたんですよ。そのせいかよく指に絆創膏つけて」

 あれを作ったのは、Sではなく人魚だ。

 俺は既に人魚を食べている。

 もはや絶望を通り越していて、ハハ、と渇いた笑いが口から漏れ出た。




 毎晩夢を見る。

 暗い海を俺は体をうねらせて進んでいる。ひどく飢えていて、小魚やエビなど、目についた生物を片っ端から追うが、すぐに逃げられてしまう。段々と泳ぐ力がなくなり、このまま力尽きてしまうのかというところで、海底の泥に大きな肉塊が紛れているのを見つける。屍臭の甘い香りに食欲を刺激され、肉塊へとまっしぐらに向かい、顎をガッと開いて齧りつく。


 目覚めると、すぐに自分の体が人の形をしていることと、ここが地上であることを触って確かめた。手は怖くて見ていない。もしSのような水掻きがあったらと思うと恐ろしく、見なくて済むように革手袋をした上に手首の位置で粘着テープを巻いて外れないようにした。

 仕事を辞めて、世間との関わりを断った。人と関わる機会が減れば、誰かに人魚を感染させるリスクも減るはずだ。理性が残ってる内はなんとしてでも人魚に抵抗したい。

 しかし、俺の意識はいつまで保つのか。俺はいつまで俺でいられるのか。

 気がついたら時間が飛んでいることが、たまにある。単に寝落ちしていたのか、それとも人魚に意識を奪われていたのか。俺に残されている時間は少ないのかもしれない。次の被害者を出さないために、早々に手を打たなくては。

 そうだ、身も心も人魚に支配される前に、人として誇り高く死んでやろう。

 だが、ここでは場所が悪い。死体が菌やウイルスをばら撒くかもしれない。空気感染するか知らないが、念には念をだ。

 人の近寄らないところ……山は、駄目だ。山菜取りや猟師は山道を逸れた場所にも来る。死臭を怪しんで近づいてくるかもしれない。廃墟なんかも、最近は動画配信のために立ち寄る連中が結構いるみたいだから、駄目だ。

 どこか良い死に場所はないものか。誰も近づくことがなく、臭いも遮断できる、そんな夢のような場所――ああ、そうだ。海がいい。

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