ありがとうって言わせろ
『ありがとう』という言葉には、不思議な力があるのだそうだ。
感謝の気持ちを伝えることで、人と人の間に流れる、剣呑な空気を消し去ることができるらしい。
嬉しいと思う気持ちを言葉に出すことで、脳内に幸せホルモンというものが分泌されるらしい。
摩訶不思議な言霊の力があって、2万回口にする頃に、自身の心の奥底に眠る願いが叶うらしい。
……ぜひとも、『ありがとう』を積極的に口に出したい。
『ありがとう』につながる出来事を求めて、町に出ることにした。
『ありがとう』と口にする瞬間を求めて、身近な出来事に目を向けてみることにした。
何気ないこと、些細なこと、目についたこと…。
ふとした触れ合い、他人とのやり取り、日常のワンシーン…。
『ありがとう』と言いたい気持ちはあるというのに。
『ありがとう』という言葉が出てくるような瞬間がどこにも見当たらない。
もたもたしたレジの店員を見ると、イヤミが言いたくなる。
歩きスマホのサラリーマンを見かければ、なんで自分がよけなければいけないのだとムカつく。
ぼさっとつっ立っている警察が目に入れば、さぼってんじゃねえよと苛立つ。
のろのろ歩いて邪魔をしている年寄りを見ると、怒鳴りたくなる。
主婦の癖に総菜を買ってくる怠け者の嫁を見ると、説教せずにいられない。
入ろうとした便所に滑り込む息子を叱り飛ばさなければ気が済まない。
儲けているくせにショボいこづかいしか渡さない娘には文句も言いたくなる。
手際の悪いゴミ収集員たちに、給料泥棒と指摘せずにはいられない。
頭の悪い政治家たちなど、バカにするぐらいしか存在価値はない。
……『ありがとう』と、言いたい。
俺は、『ありがとう』と言いたいのだ。
言いたいのに言わせてくれない、この世の中に…腹が立つ。
感謝の気持ちが持てないこの世の中は、地獄そのものだ。
働いても働いても、裕福になれない現実。
気をつかっても気をつかっても、気をつかってもらえない世の中。
こちらが最低限のマナーを差し出してやってるのに、自分勝手な言い分を押し付けて平然としている礼儀知らずだらけのこの国。
ごく普通に生きているだけなのに、不平不満が次から次へと湧きだしてくる。
自分の都合ばかり押し付ける奴らなんかに、感謝の気持なんか持てるわけがない。
自分の事しか考えていない奴らなんかに、どうして俺が感謝を伝えなければいけないんだ。
誰からも『ありがとう』と言われないのに、なんで俺だけが『ありがとう』と言わなければいけないのか?
もらえないものを与えるなんて、不公平じゃないか。
もらえないのに差し出さなければいけないなんて、損じゃないか。
『ありがとう』と言いたいのに、言うことができない現実に、怒りを抑えきれない。
「お母さん、お弁当ありがとう」
「姉ちゃん、部活のバッグ代、ありがと!」
「けい君、ゴミ出しありがとね!」
「ありがとうございます、助かりました!」
「ありがとうねえ、本当にありがと…」
「あ、スミマセン、ありがとうございます!」
「いつもお世話になってます、ありがとうございました!」
「ありがと、このお礼はいつか必ず!」
「ありがとうございまーす」
「ありがとうございました」
「あざーす!」
気軽に『ありがとう』を口にしている奴らに出くわすたびに、心がささくれ立つ。
口癖のように『ありがとう』を連発するやつらを見ると、どす黒い感情があふれ出す。
……俺は、『ありがとう』が、言いたいだけなのに。
「ケッ!!」
「おい、俺にも金よこせ」
「ふん、部屋の中も片付けろよな」
「シロウトに手伝われて迷惑だと思ってるくせに」
「もっと早く手伝ってくれたらって思ってんだろ?」
「気持ちのこもらない言葉なんか嬉しくねーっての」
「一瞬で恩を忘れるくせに何言ってんだよ」
「マニュアルがあるから言ってるだけなんだろ?」
「もっと感謝しろよ、お客様は神様って知らねえのか?」
「ヤル気ねえなあ、本社にクレーム入れてやるから気合い入れ直せよ?」
口から出てくるのは、『ありがとう』とはかけ離れた言葉ばかりで…いやになる。
俺は、俺は……。
ありがとうと…言いたい。