リディアの決意
私が目を覚ました時、何がなんだか分からなかった。
身体中が痛くて、特に頭は痛いし、身体は動かないし、周りは呻き声で煩いし。
大怪我をして病院のベッドに寝かされていることに気付いても、どうしてそんなことになったのか思い出せなくて、ついでに自分のことも判らなくなっていた。
骨折こそしていなかったけれど、全身が重度の打撲と擦り傷で包帯だらけ。ボロボロだった服は治療のためにさらに切り刻まれて、下着にも穴があいてたりしたけどその上から病院着を着せられて。
事件の混乱に紛れてしまったようで身元を確認できる持ち物も一切持っていなかったうえに、肝心の私自身が記憶を無くしていたのでしばらく身元不明人として保護された。
私が大怪我を負った事件は、一人の男によるものだった。
事件の日の一週間後に予定されていた舞台。
かつて国家転覆を企てた組織があった。その組織を討伐した英雄の半生を描いた物語。
犯人の男は、その組織の思想に傾倒していて、だから英雄を讃えるのは間違っているという思考の元、舞台の公演を止めさせるために火を放ったのだそうだ。
トバイラス大劇場は歴史のある建物で、だからこそ老朽化も進んでいて、予想以上に勢いのあった炎に一気に劣化したらしい。それで天井や壁が崩落して、私も巻き込まれた。
被害者はかなりの数だったらしい。
負傷者と死者。焼けたり、潰れたりで身元確認はなかなか進まなかったようだ。劇場のチケット購入者の名簿からも被害者の照合を行ったけれど、被害者の数と合わず行方不明者まで出る始末。
現場は混乱を極めたことだろう。
私が目を覚ましたのは事件の翌日だった。
記憶が無く、身を寄せる当てのない私を保護してくれたのは、警吏や劇場関係者とともに救護活動をしてくれていた劇団だった。
そう、私が何度もチケットを買って、やっと最終日に観劇できたあの劇団だ。
生存者の中で記憶を失っていたのは私だけだったから、責任を感じていたみたい。彼らのせいじゃ無いのにね。担ぎ込まれた病院もとりあえずの身元引き受け人に安堵したはずだ。
特に私を気遣ってくれたのが、メイナード・グラットンという俳優だ。
目を覚ました時には当然知らなかったのだけれど、彼は劇中でヒーローのライバル役を演じた人だった。
自分の名前すらわからない私に、劇団の人達は「アシュリー」という仮名をくれ優しくしてくれた。
幸いにも目覚めてから三日目には記憶が戻って、劇団の人達にリディア・ダーリングと名乗ることができた。
ただ、記憶が戻るのと同時に私が失望感に包まれたのは仕方がないと思う。だって、事件があった日も数えて五日も経っているのに、家族の誰も、ジュリアンさえも私を探しに来なかったのだから。
そんな私を慰めて、たくさん泣かせてくれたのはメイナードだった。
彼の大きな手が泣き崩れる私の背中を優しく撫でてくれて、他の劇団員達も静かに声をかけて慰めてくれた。
かなり落ち着いてきたとはいえ、いまだに事件の混乱は続いているからもう少し様子を見よう。と、そう口々に言ってくれたので、私はもう二、三日、待ってみることにした。
その間、生存者で意識のある人、意識が戻った人達は、家族と連絡が取れてそれぞれ軽症の人は退院し、重症の人は別の病室や病院へ移っていった。
亡くなった人達の何人かは結局身元が分からず、市の合同葬が行われた。それ以外の人達は、遺族が迎えに来てそれぞれで葬儀をあげたようだ。
そして、最後に残ったのが私。
結局、両親も婚約者も姿を現しはしなかった。
私が事件に巻き込まれたと思ってないのかもしれない。それでも連絡も無く何日も帰ってこない私を探さないなんてあるのかしら?
私が自分の意思で行方を晦ませたと考えたとしても、それで探さないのならもう私のことなんてどうでもいいと思ってるのかもしれない。あんな別れ方をしたから、みんな彼とユーニスの味方だったから、この機会に私なんて見限って。
嘆く私の境遇に憤った劇団員の彼らは、市役所とダーリング家とヒギンズ家を手分けして調べてくれた。
そこまでしてもらうのはさすがに悪いと思ったので断ろうとしたのだけど、私のことを放っておけないし、演技の練習やシナリオの参考になるかもしれないからと、止める隙もない速さで彼らは散っていった。
「メイナードは彼女についててあげて」
という言葉を残して。
そして、翌日の夜には情報が揃った。
何よりも驚いたのは、もう既に私の葬儀が終わっていることだった。
市役所の身元確認の書類でも、私の遺体が事件当日にダーリング家に引き取られた事になっていたし、その二日後に葬儀が行われ埋葬までされていた。私ではない誰かが。
彼らにとって、私はすでに死んでいたのだ。それなら探すわけも迎えが来るわけもない。
それに、私の代わりに埋葬された人物に心当たりはある。私と同じワンピースの彼女だ。
私と思われた遺体は頭部の損傷が激しく、駆け付けた家族はあのワンピースと、髪の色や長さ、身長とかで私と判断して、市役所も家族がそういうので当人と認定して引き渡したという事らしい。
今の私の髪は、頭の傷の治療のために肩より短い位置で切り揃えられている。身長は平均的だから該当する女性はたくさんいるだろうけれど……。一番の決定打はやっぱり服と家族の証言よね。
ダーリング家では、私の葬儀の直後に兄がジュリアンを殴ってちょっとした騒ぎになったらしい。あの兄が墓所でそんなことするなんて思わなかった。
その後は両家でダーリング家に帰って、謝罪やら賠償やら話し合ったっぽい。
「殴った……? 兄さんが……?」
葬儀に参列していた人によると、『お前のせいでっ!』とか言ってたらしい。そして、葬儀後のダーリング家は火が消えたように、親子で沈んでひっそりと暮らしてるのだとか。
それを聞いて私は白けてしまった。
まあ、確かにジュリアンに断られて一人で劇場へ行って事件に巻き込まれたからジュリアンのせいと言えなくもないけど、私の相談にそのジュリアンを庇いまくって私の気持ちを疲弊させたのはどこの誰だと思っているのか。
兄さんや両親が少しでも私の気持ちに寄り添ってくれて、ジュリアンに一言でも意見してくれてたら何かが変わっていたかもしれないのに!
……って思って、すぐに馬鹿馬鹿しいと思った。
そんなことは無かった。だから今、こうなってる。それ以上でもそれ以下でもない。
だいたい、黒子とか子供の頃に作った傷跡だとか、顔以外でも判別する材料はあったはずなのに、顔が判らないだけで私と赤の他人との区別がつかない人達だもの。何かを期待するのが間違いね。
次に聞いたヒギンズ家も、なかなかの修羅場だったみたい。
調べに行ってくれた団員達がヒギンズ家付近に着いた頃には、家の前の通りにそこそこの荷物を積んだ貸馬車が停められていて、高貴そうなご婦人が少女とメイド服の女と対峙していたそうだ。そして少なくない野次馬が彼女等を遠巻きに囲っていた。
少女とメイド────ユーニスとそのお付きのメイドは、ご婦人────ヒギンズ伯爵夫人に色々と抗議していたらしいのだけど、ヒギンズ伯爵夫人はそれを睥睨して黙って言わせておいて、相手が疲れた頃に、
「あなたのように性根の腐った女にヒギンズ家を乗っ取らせるわけにはいかないわ」
と宣言して、周りの野次馬に憚る事なく、ユーニスが医者に金を掴ませ病弱と偽り続けた事、息子とその婚約者の邪魔をした事、ヒギンズ家に寄生して働く気のない事、それらを全部ユーニスの母親へ手紙で知らせた事、その手紙にはマクレガン家と絶縁する旨を書き記した事、マクレガン家の態度次第では医者ともども司法に訴える事などを淡々と語ったそうだ。
この行動はヒギンズ家の醜聞を広める結果にしかならないだろうに、きっと、ヒギンズのおば様はダーリング家との関係が悪くなった真の原因を世間に知ってもらうために、あえてそんな事をしたのね。それでヒギンズ家が泥を被っても、マクレガン家……というかユーニスがヒギンズ家やダーリング家に擦り寄る隙を完全に潰しにかかったんだわ。
結局、ヒギンズのおば様の威圧感に完敗した二人は渋々貸馬車に乗って去っていった。
おば様が残った野次馬に頭を下げて家内に入ってしまうと、野次馬も解散しだしたので、団員達は怪しまれない程度に野次馬を個々に掴まえて話を聴いたのだけど、その中にヒギンズ家のハウスメイドがいたそうだ。
ヒギンズ家のハウスメイドと言えばサリーのことだろう。私も彼女はよく知っているけれど、良く言えばおおらか、悪く言えば大雑把な人柄で、なるほど彼女ならあまり気にすることなくヒギンズ家の内情を聞かせてくれそうだわ。「ここだけの話」とか言って。
実際かなり詳しく聴けたらしいけど、おば様の語った内容とほぼ同じで、ジュリアンの様子が足されていたくらい。
サリーによると、ユーニスは虚弱だった身体も、ここ一年半くらいは回復……というか健康になっていて風邪も引かないし貧血もなかったのを、ずっと病弱の演技をしていたらしい。
ジュリアンと結婚したい理由も、彼を愛してるんじゃなくて次期伯爵家当主と結婚すれば病弱を理由に仕事も家事もせずに暮らせて、ヒギンズ家のお金を好きに使えると思っていたからだとか。ジュリアンは見目も良いから、それはそれで実家の女の子の使用人達に自慢できるというのもあったらしい。
そんなくだらない理由で私達の仲を邪魔をしていたのかと知れば、怒りよりも呆れが強く脱力してしまった。
これを聞いて、「意味がわからない」という感想を持った私はおかしく無いと思いたい。
学校にろくに行けなかったからと言って、そんな馬鹿なことを本気で考えられるものだろうか。でもユーニスはそう考えたのよね。
結局、私が死んだことで図らずもユーニスが襤褸を出し、伯爵夫人が以前から疑っていて調べていたこともあって計画が露見。怒った伯爵夫人がマクレガン家に抗議と絶縁の手紙を認めてからメイド共々ユーニスを追い出した、というのが今日の出来事だったと。
そしてジュリアンだけど、ダーリング家以上に塞ぎ込んでいるらしい。
それを聞いても、私の心は冷めていた。
そっか、ユーニスはもういなくなったんだ。いまさら、遅いけど。
本当に、何もかもが「いまさら」だわ。
「アシュリー……いや、リディアはどうする?」
話を一通り聞いて黙っていると、メイナードが訊いてきた。
「どうする……って?」
「君はこれからどうしたい? ちゃんと役所に届ければ、家族の元に帰れるし、……婚約者とも寄りを戻せる。障害だった女ももういない。
君は、元の生活を取り戻して、幸せになれる」
そう言ったメイナードの瞳はすごく真剣で。
でも、そんな事を訊かれても、私の心は、生まれた時から一緒だった家族からも、子供の頃からの付き合いだったジュリアンからも剥がれて落ちて、砕けてしまった。
いま胸の中にあるのは、怪我をして記憶を失った私を支えてくれた劇団の人達への感謝と親愛。そして…………。
私はメイナードの眼をまっすぐ捉えて、そして言った。
「私は帰らない。あそこにはもう、私の居場所は無いわ。リディア・ダーリングは死んだの。
ここにいるのは“記憶喪失のアシュリー”よ」
それは、病室にいる劇団員みんなが聞いていて。
「でも、それじゃあ、これからどうするんだ?」
「退院できたら、とりあえず住む所と仕事を探さなくちゃね。あ、まずは服を買うお金をどこからか借りなくちゃ……。
入院費もあるし、もういきなり借金生活からの再出発だわ」
私はことさら明るく言った。
だって、これからは一人。一人で生きていかなくちゃ。
「だったら、俺達と一緒に来ないか? 拠点は隣国なんだ。君が家族や婚約者から離れたいんなら、好都合だと思うんだけど?」
なんとか覚悟を決めようとしていたら、劇団のリーダーがそんな提案をしてきた。
隣の国……。確かに魅力的な話だけれど…………。
「迷惑じゃない? 私、役者なんてできないわ……」
「劇団って言ったって、本来みんながみんな役者ってわけじゃないよ。っというよりウチの場合、みんな稽古に時間を割きたいのに事務処理や雑事に追われることもあってね。そういう仕事を引き受けてくれる人が一人でもいれば助かるんだけど」
みんなを見回して「なっ?」とリーダーが言えば、みんなコクコクと頷く。
言われてみればそうね。買い出しや劇場との打ち合わせとか、必要経費の計算とか、役を演じる以外の仕事って結構あるかも。みんなの健康管理とかも大事だわ。それに、せっかく仲良くなったみんなと離れるのは寂しい。家族やジュリアンとはもう会いたくも無いのに……。
私は少し、ほんの少しだけ考えて、
「きっと、慣れない事ばっかりでみんなに迷惑をいっぱいかけると思う。……だけど、私、みんなと行きたい。みんなを支えられるように頑張るから、一緒に連れて行ってください」
そう言って頭を下げた。
病室にみんなの歓声が響いて看護師さんに怒られたけど、それでまたみんなで笑った。