ジュリアンの懺悔
父には母から簡単に説明があって、「後で家族会議をしましょう」という母の一声で食事中に何か問われることはなかったが、とてもではないが食事が喉を通らない。
父の顔も母の顔もまともに見れずに、俯いたままスープだけをかろうじて飲んだ。
静かな夕食が終わって、三人で場所を父の書斎室に移した。
二人がけのソファに座らされ、ローテーブルを挟んだ向かいに父、右側の一人掛けソファに母が座る。一応、僕への威圧感を下げるための配置だろう。
それでも、僕は冷や汗を止められない。
「リディアに婚約破棄を言われたとは、どういう経緯だ? お前たちは上手くいってるんじゃなかったのか?」
「あの娘が自分有責でいいなんて言い出すなんて、よほどのことよ?」
「僕にも、よく……分かりません。
ただ……その、観劇を断る理由を話したら、リディアがすごく怒り出して、渡した花束を投げつけてきて酷い事を言ってきたので、つい僕も売り言葉に買い言葉で……喧嘩になって。
そうしたら婚約破棄しましょうって、怒ったまま行ってしまって……。
僕はそれで、ユニの看病をするために帰ってきたんです……」
本当に、何がいけなかったんだろう。どう言えばリディアを怒らせずに済んだのか。
でも、ユーニスが熱を出してたのは本当で、僕も急いで出たから外出着じゃなかった。だから、どちらにしろ観劇には行けなかったわけで……。
「……リディア嬢を追いかけなかったのか?」
目を閉じて眉間を揉みながら父が問う。
「あ、だって、ユニにすぐに帰るからと言ってあったので……」
僕がそう答えると、その場に沈黙が広がった。
すごく居た堪れない。
何も言われないこと自体が、僕自身を責めているようで……。
「では、そのあとリディア嬢は一人でトバイラス大劇場へ行ったということだな……」
父の沈痛な声音が、リディアの運命を決定づけるように響く。
「ジュリアン、正直に答えてちょうだい。
あなた、ユーニスが原因でリディアとの予定が潰れた事が何回あるの?」
母の問いに僕の身体は竦み上がる。
さっきも自分で考えていた事だが、自覚して指折り数えてみれば、その回数の多さに血の気が引いたのだ。
「…………」
答えなくてはと思うのだが、喉が引き攣って言葉が出ない。身体が震える。
「……答えられないほど、なのね。それでリディアは婚約破棄なんて……。
はぁ、こんな事ならあの子を預からなければ良かったわ。こんな形で恩を仇で返されるなんて……っ!」
その言葉に僕は顔を上げた。
リディアとの約束を反故にし続けた僕が悪いのであって、病弱なユーニスに罪はない。
「母さん、何もそんな言い方しなくても……」
「この期に及んであの子を庇うの? まさか、あなたもユーニスと結婚したいなんて言い出すんじゃないでしょうねっ?
そんなこと、絶対に許しませんよっ!!」
逆鱗に触れた、と思わせるほどの激怒っぷりに僕は唖然とした。
母がこれほどに怒りを露わにした姿を今まで見たことがない。いつも温厚で、微笑みを絶やさない母なのに。
「そんな、ユニと結婚なんて、考えたこともないっ。どうしてリディアといい母さんといい、そんなこと言うんですかっ!?」
全くもって不本意だ。と、不機嫌に言い返せば、
「あなたの行動がそう思わせていると知りなさい」
と、さっきの激昂が嘘のように、ものすごく静かに冷たく言われた。
でも、じゃあ、どうすれば良かったんだ?
ユーニスが病弱なのは本当で、僕が構ってやらなければ不調の日は続く。そうなれば健康からさらに遠のく。
僕らが結婚した時に少しでもユーニスが健康になっていれば、リディアだって安心のはずだ……。
「エメライン、気持ちは分かるが落ち着きなさい。
ジュリアン、お前の本音がどうだとかはともかく、女性の側からは、お前の行動は『婚約者より従妹を優先する不誠実な男』と判断されるという事を肝に銘じなさい」
そんなつもりはなかった、とは言葉にできない。確かに、改めて考えれば僕はリディアとの約束を反故にしすぎた。彼女が怒るのも、婚約を辞めたいと思うのも仕方がない。
でも、だからってどうして僕がユーニスと結婚なんて話になるのか。
「本当に、僕はユニとの結婚なんて考えてません。ユニだって、僕のことは兄のように慕ってるだけで……」
せめてもの抵抗にそう呟いたが、そこに母がまた言葉を被せてきた。
「ユーニスの方はそう思っていないみたいよ」
深いため息とともに吐き出されたそれに母の表情を窺うと、眉尻を下げ眉間にしわを寄せ、怒っているような困っているような、そんな顔をしていた。
「近いうちに、ユーニスには出て行ってもらうつもりだったのに、先にこんな事になるなんて……。
もっと早く手を打っていれば、リディアは死なずに済んだはずよ。私、ダーリング家に申し訳が立たないわ。なんて言ってお詫びすれば……。いいえ、どれだけ頭を下げたって、ダーリング家から恨みを買うのは避けられないわ……」
今度は母が俯いて両手で顔を隠して泣き出した。
僕は、母の言った『ユーニスを追い出す』という発言にもショックで、ますます混乱した。
病弱な姪を追い出す?
そうしておけばリディアは死ななかった?
関連性が全く分からない。分からないことだらけだ。
「ジュリアン、お前はもう今日のところは自室に戻りなさい。リディア嬢の死で、お前も混乱しているようだ。部屋で、ゆっくり心の整理をしなさい」
父がそう言うので、僕は自分の部屋に戻った。
ベッドに寝転がって、天井を見上げる。
僕はどうしてあんなにリディアとの約束を何回も破ったんだろう?
ユーニスが不調をきたしたから、だ、いつも。
健康な人間と病気の人間、優先すべきは病人のほうじゃないのか?
心細げに側にいて欲しいと乞われれば同情もするし、そのくらいで気が安らぐなら側にいてあげようと思って何が悪いのか。
でもそれはリディアとの約束を破ってまでする事だったか?
リディアからすれば僕は不誠実だったというのも分かる。
でもそれは、いずれ結婚してずっと一緒に暮らせば解消できるものだと思っていた。
その機会は永遠に失われた。
なぜ、あんな別れ方をしてしまったんだろう。
なぜ追いかけなかったんだろう。
分かってる、次の機会には彼女の希望を叶えようと思っていたからだ。
次の約束こそは叶えてあげようと……。
リディアがずっと待っていた“次”をずっと先送りにしておきながら……。
次なんて無かった。
もうずっと、永久にこない。
じわじわと、時間が経つにつれその実感が湧いてきて、ぼうっと見ていた天井がぼやけてきた。
どれくらいそうしていただろうか。
控えめなノックの音に現実に引き戻された。
ドアを開けて相手を確かめると、ユーニス付きのメイドだった。
「申し訳ありません。お嬢様がまた、寝る前のお薬を嫌がっていまして……。
ジュリアン様から言っていただけませんでしょうか」
またか……。
ユーニスが薬を飲むのを嫌がるのはいつもの事で、なんなら毎日、毎回、そんなだったので慣れてしまって気にもならなかったのに、この時はそんな感想が浮かんだ。
さっき両親と話した内容も相まって少しだけ嫌悪の感情を抱いたが、病弱なユーニスに罪はないだろうと、少々わがままに振る舞ったとしてもそれは病気のせいだからと、その感情を押し込んだ。
「ユニ、また薬を嫌がってるんだって? だめだよ、ちゃんと飲まなきゃ。じゃないと、健康になれないだろ?」
できるだけ沈んでいる気分を悟らせないように声をかければ、
「だって、苦いんですもの。神様は不公平よね。どうしてわたしだけいつもこんな苦い物を毎日飲まなきゃいけないのかしら」
唇を尖らせて不満を言うその姿はあまりにもいつも通りで、逆になんだか現実感がなかった。
そして続く言葉に、僕は両親と話した時以上の混乱に見舞われた。
「だけど、それももうお終いよね。
だってあの女、死んじゃったんでしょ?
いい気味だわ、いつまでもジュリアンの婚約者でずっと邪魔だったんだもの。ジュリアンはわたしの方が大事なのにね。さっさと婚約なんて辞退すればいいのにいつまでも居座って。
でもわたしの努力を神様も見ていてくれたんだわ、あの女をわたしの代わりに殺してくれたっ! これでわたしがジュリアンのお嫁さんね」
さっきの不満げな表情が一変して、それこそ花がほころぶような、今まで見た中で一番の笑顔でユーニスはそんな事を言った。
あの女……? リディアのこと……?
まだ誰も話していないはずなのに、どうしてリディアが亡くなった事をユーニスが知ってるんだ?
疑問を持ったままふと視界に入ったユーニスのメイドを見ると、無表情に見える顔の引き結んだ口の端が、ニヤリと嗤う気配を感じた。
まさか、立ち聞きしていたのか? そしてユーニスに報告した……?
それにしても、神への不満を言った矢先に神への感謝の言葉を口にする彼女の変わり身の早さやリディアへの悪態、妄想と言ってもいいような話の内容に眩暈がしてくる。
ユーニスは、僕の知らない間に悪魔に取り憑かれてしまったんじゃないのか。
「ユニ、僕は、君とは結婚しない。リディア以外の女性と結婚するつもりはないよ」
あまりのことに頭の処理が追いつかないところをなんとか絞り出して言えば、
「どうして? もうあの女は死んじゃったのよ?」
心底不思議そうにそう返すユーニスの顔は、ある意味とても無邪気だった。
「それに、ジュリアンはあの女よりわたしの方が好きでしょ? いつも『側にいて』って言えばデートやお茶会をすっぽかしてくれたじゃない。
ほら! あの女よりわたしの方がジュリアンに大切にされてるっ! だったら、わたしとジュリアンが結婚するのが当然じゃない!」
「その通りでございますね、お嬢様」
きゃっきゃとはしゃぐユーニスとメイド。
その様は、熱に浮かされたり顔色を悪くして具合が悪そうだったりする普段の様子とは全く違っていて、どこからどう見ても元気な女の子だ。
意味が分からない。
ユーニスは病弱で、成人するのも難しいと言われてて、だからしょっちゅう体調を崩していたはずで……。
今、目の前で元気にはしゃいでいる女は…………誰だ?
「うわぁああぁぁっ!!」
僕は恐ろしくなって自室へ駆け込んで鍵を掛けた。
息が苦しい、涙が止まらない。
この涙はなんの涙だ?
リディアを失った悲しみか?
ユーニスの変貌に対する恐怖か?
自分の周りのことなのになに一つ解らない自身への失望か?
二日後、リディアの葬儀がしめやかに執り行われた。
まだ婚約者という立場だったので家族での参列は許されたが、葬儀の後にリディアの兄に殴られた。その後にダーリング家に移動し、両親は床に額を擦り付ける勢いで謝罪して、僕もそれに倣った。
そして、睨んでくるリデイアの兄から彼女の日記を渡された。そこには婚約してから三年間の、僕の罪が連なっていて、僕がリディアの観劇の誘いを早々に叶えていたら、あの日、リディアがトバイラス大劇場へ行くことは無かったという事実を知った。
僕がリディアの葬儀に行くと知ったユーニスが、ベッドの中から「熱が出て具合が悪い。行かないで、側にいてっ!」と言ってきたが、先日の彼女を見た後では呆れにも似た嫌悪の感情がドロリと湧いてきて遣る瀬なくなった。
リディアの葬儀から五日後、ユーニスと彼女付きのメイドは我が家から出ていった。
母から叔母に連絡し親元へ帰した。そして、母は叔母と絶縁した。
母はだいぶ前から疑っていたらしい。
ユーニスが病弱なのは本当だが、ここ一年半ほどは詐病だったそうだ。
これは母が疑いだしてから調べたらしいのだが、ユーニスを診ていた医者は彼女から金をもらって、回復には時間がかかるという報告を我が家とマクレガン家にしていたらしい。
実際はそこそこ動けるぐらいには健康になっていたし、病気らしい病気もしていなかった。ただ、ユーニスはもともと基礎体温が高めで、そうとは知らない僕は彼女の平熱を微熱と誤認させられていたのだ。
貧血で倒れたり、いかにも嘔吐感に苛まれたりしていた様は、本当に病弱だった頃と同じように振る舞って身につけた演技で、薬はメイドが用意した小麦粉だった。
いつかリディアとの婚約がなくなれば自分が僕と結婚するつもりでユーニスはそうやって僕を縛り付けた。だがそれも僕が好きだからではなく、僕なら一生、病弱な妻を養ってくれるだろうからという理由からだった。
ユーニスには、健康になる気も、働く気どころか家事一切さえもする気は無かったようだ。僕はずっとそれに騙されて、リディアを蔑ろにしてきたというのが真実だった。
今となっては、どうして僕はユーニスをリディアより優先していたのかと思う。
我が家に来た当初は確かにまだ病弱だった。
それを可哀想に思ったのも本当だ。
だけど、ユーニス付きのメイドが看病のほとんどをやっていて、僕はただ彼女が望むままに頼まれたことだけを無思考でやっていただけだ。それが、いつの間にかそうするのが当たり前になっていた……。
母が言うには、僕はユーニスへの同情心に付け込まれて心理操作されていたのだろう、と。
今、僕は、母が探してきた精神科の病院へ通っている。
リディアを失った悲しみと後悔は深く、ユーニスへの怒りよりも騙された自分への自己嫌悪の方が強く、その二つの感情を行ったり来たりしている僕は、なるほど病んでいるのだろう。
でも、だからと言って許されない。許されるはずない、許されるべきではない。
後悔ってなんだ? 後悔したってリディアは生き返らない。謝ることもできない。罵られることもできない。
僕は何もできない。できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない、できない………………
僕の足元は砂でできている。
ズブズブと沈む足を引き抜いて歩く。
砂に足を取られていつ転ぶかも分からない。
ずっと、一生、死ぬまで、僕はこの砂の中を歩く。