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youtubeで正体隠して歌手活動してた地味な男が、美人プロデューサーと出会い、学園祭ステージで歌う。

作者: 柏原夏鉈



<視点:朱音>



大学生の真城朱音は公園のベンチに座り、静かに待っていた。


「今日こそは見つけたいな」


噂では、ここで誰が歌っているそうだ。


その歌声はとても美しく、聴き惚れてしまうという。朱音は聞き込み調査をして、実際に歌声を聞いたという人からも話を聞いた。


朱音はその歌声の主に会うためだけに、こうして月歌公園で張り込みをして三日目になる。聞き込み調査によると夜の11時頃に歌声を聴いたらしいので、夜中までは怖いのを我慢して待っているつもりだ。


ここは春花市の中心に位置する月歌山。その山頂にある月歌公園は、昼は多くの市民が賑わう、人気のスポットだ。大型遊具もあって、地元の子供たちにとっては遠足の定番なので、誰もが一度は来たことがある。


月歌山は標高が500m程度あり、車道はなく、ほとんどの人は利用無料のロープウェイを使って登ってくるので、ロープウェイの運行が終了する時間を境にして、急に人が居なくなる。一応は登山道もある。


深夜ともなれば、誰もいない。


夜景の見渡せる展望台にもカップルの姿はない。地元民なら誰でも知ってる「夜景を一緒に見たカップルは絶対に破局する」というジンクスがあるからだ。


今夜も空振りかな、またあの登山道を下りていくのは怖いな、と朱音が考えていたときだった。


「―――♪」


澄み渡るような美しい歌声が静かな夜空に響き渡った。驚いた朱音は、しばしその歌声を聴いていた。


月歌という名前の由来は、月が輝く夜には、女神が舞い降りて、歌を歌う、という伝説に因んでいる。その歌を聞いてしまったものは、その歌声に魅了されて、月へと連れていかれてしまうので、行方不明になってしまうらしい。


それを彷彿とさせる美しい歌声に魅了される。


「あ!」


朱音は自分の目的を思い出して、あわてて声の主を探して、声のする方へと歩いていく。


展望台に、その人はいた。


町を見下ろすように展望台から夜景に向かって、全身を使って歌っている男性だ。


朱音からはその後ろ姿しか見えていないが、その美しく高い声が、その男性から出ていることにびっくりした。声だけ聞くとてっきり女性だとばかり思っていたのだ。


そして、もっとびっくりすることに気付いた。彼が歌っている歌は、朱音も好きな歌だった。それはyoutubeでのみ活動してる謎の歌手「(スイ)のオリジナルソングに違いない。


何度もその歌を聞き、出来れば「翆」に出演の依頼したいと思って、コメントを書いたり、連絡先を探したり、ついには日頃はあまり頼らない政治家の父にまで伝手は無いかと尋ねたりもしたが、諦めきれなかったけど、諦めた歌手だ。


その何度も聞いた歌声を、朱音が間違えるはずもない。今、目の前に、幻の歌手「翆」が歌っている。その生歌の素晴らしさに、朱音は声をかけることが出来ずに立ち尽くし、歌が終わった瞬間には全力で拍手した。


朱音の拍手を聞いてびっくりした「翆」は振り返って、朱音を見て、言った。


「あ、あれ、真城朱音さん?」


「え?蒼汰、くん?蒼汰くんが翠だったの?」


振り返ったその顔を、朱音は一方的によく知っていた。その彼は、同じ大学に通う霧島蒼汰だった。


「……どうして僕の名前を知ってるんです?あ、僕はあなたを知ってます。大学の有名人ですから」


「あ、うん、その……」


朱音が言い淀んでいると、蒼汰の表情が徐々に驚きから疑惑へと変わっていく。


「もしかして、僕と知っていて、待ち伏せしてたんですか?」


「え!いえ、知らない!知らないよ!ほんと、びっくりしたんだから!」


「でも、それならどうしてここに?」


「噂!噂を聞いてきたの!私はここで美しい歌声が聞こえるって聞いて、その噂の人を探しに来たんだ。あなただとは思ってなかったし、もちろん翆かもなんてまったく思いもしてなかった!」


蒼汰の目は、周囲を探るように見回している。たぶん朱音以外に人が隠れているんじゃないかと疑っているようだ。


(いけない!せっかく見つけた幻の歌姫!蒼汰くんとは思ってなかったけど、誤解を解かなきゃ!)


「聞いて!私はあなたにお願いがあって探してた!」


「お願い、ですか?このことをばらされたくなかったら、言うことを聞けとでも?お断りです。脅されるくらいなら、翆としての活動も辞めますから」


びっくりなことを冷たい声で言う蒼汰に、朱音の焦りは最大限に高まった。お願いを聞いてもらえないどころか、翆まで失ったら、後悔なんてレベルじゃない!絶望しちゃう!


朱音は頭を地面につくんじゃないかと言うほど下げて真摯にお願いした。


「待って!お願い!落ち着いて私の話を聞いてほしい!絶対に蒼汰くんの悪いようにはしない!」


「……わかりました。話は聞きます、でも、場所を変えませんか?」


朱音はそのまま蒼汰が走って逃げるんじゃないかとびくびくしながら、公園のベンチに移動した。一つのベンチに二人並んで座る。


蒼汰はベンチに置いてあった自身のカバンから水筒を取り出して、ふたをコップ代わりにして、温かなお茶を注いで、朱音に差し出した。


「ハーブティです。よろしければ」


「ありがとう、いただくわ」


ハーブティの良い香りで、朱音の気持ちは少し落ち着いたようだ。改めて今の状況が信じられないけど、きちんと説明して、誤解を解かなきゃ始まらない。朱音は蒼汰の方に体を向けながら、真剣に訴えた。


「まず、誤解をしないで欲しいのは、ここで歌ってるのが誰なのか、それを知って来たわけじゃないわ。そして、これだけは絶対に誓う、あなたが翆であることは、絶対に誰にも言わない。それを理由に無理なお願いをするつもりもない。信じてほしい」


「ここに来た目的を教えてください。噂を確かめに来ただけでは納得しかねます」


蒼汰はまだ強い疑いの眼差しで朱音をにらむ。朱音は慎重に釈明する。


「ええ。わかってる。私は大学の学園祭で、ステージ競技のプロデューサーの一人に選ばれているわ」


「知ってます。団体の代表者ではない、個人での選任は過去にないって話題になってました」


「話が早くて助かる。私はプロデューサーとして、出演者を探しているの。そんなとき、ここで美しい歌声が聞こえてくるって噂を聞いた。私自身が聞き込みをして、確かに聞いたという人に何人も会った」


蒼汰は小さな声で「意外、麓まで響いてたんだ……」と呟いた。どうやら誰にも聞かれてないと思ってたらしい。


「月歌山の歌う女神の伝説は本当だった!っていうのはインパクトがあるんじゃないかと思って、出演を依頼するために待ってたのよ」


そこまでしゃべって、朱音は蒼汰の入れてくれたハーブティーを飲んだ。とても優しい味がする。


「ステージ競技のことは知ってますから、話題性のある出演者が必要なのもわかります。でも、そんな根も葉もない噂を頼りに、待ってたんですか?」


「それだけ切羽詰まってるの。どうしても最終日の大トリを任せられる出演者が見つからなかった。翠にお願いしたかったのに、コメントも無視されちゃうから困ってたの」


「あ、コメントは見ないようにしてます。アンチコメ見たら凹むので」


蒼汰があっけらかんと言うので、朱音は苦笑して「そっか」と相槌をうちながら話を続ける。


「正直言って八方塞がりだったから、藁をも掴む覚悟だったんだ。そしたらあなたが歌ってた。本当にこれだけよ」


「……」


蒼汰の表情はまだ固い。朱音は諦めずに、交渉を続ける。


「あなたに対価として何を用意したら良いのか。お金とか名誉じゃないというのはわかってる。何か言って欲しい。私に出来ることなら何でもするわ」


蒼汰はじっと朱音を見ながら、首を横に振る。


「何も。でも、ひとつ聞かせて欲しいです」


「何かしら?」


「なぜ学園祭のステージ競技にそこまでするんです?ただのお祭りのイベントでしょう?」


「私はどうしても学園祭のステージ競技で勝ちたいの」


「お金や名誉が目的ですか?たしか賞金が出るんでしたっけ?」


「いえ、そうじゃないわ。今の学園祭のステージ競技は大きな資本が動いて、プロのアーティストを呼んで忖度して出来レースみたいになってる。でも、私はプロデュースの力でそれを打破したい。自分の力を試したいの。私にどこまで出来るのか。挑戦したい。ただそれだけよ」


蒼汰はしばらく沈黙していたが「挑戦か」と何か琴線に触れたらしい。やがて小さくうなずいた。


「正体がばれないなら、『翆』として歌ってもいいです」


「本当!?ありがとう、蒼汰くん!」


朱音は心からの感謝を込めて微笑んだ。


こうして、朱音と蒼汰の挑戦が始まった。



<視点:蒼汰>



霧島蒼汰は春花大学の文学部、音楽文化コースを専攻する目立たない学生だ。日頃は真面目に講義に取り組むが、誰にも明かしていない裏の顔がある。それはYouTubeでオリジナル楽曲を発表し、「|翆≪スイ≫」として歌っていることだ。


顔や姿は一切公開せず、映像はすべて匿名で引き受けてくれるイラストレーターに依頼して作成される。イラストは歌のイメージに合わせており、歌っている翠を連想させるものは一切登場しない。マスコットもモチーフも視聴者は彼の姿を全く知ることができない。


朱音との打ち合わせは図書館の個室を借りて行われた。お互いの接点がばれないように、時間をずらして個室に入る。


向かい合わせで座って、朱音を見つめて、蒼汰は少し照れる。こんなに間近で顔を見たのは初めてだけど、やっぱり美人だ。


真城朱音。長い黒髪と明るい笑顔が特徴の美人。スタイルも抜群で、男女問わず人気がある。責任感が強く、計画性と実行力に優れた才女として知られている。


昨年の学園祭では大規模なステージイベントのサポートメンバーとして活躍し、その実績が評価されて、今年はプロデューサーに推薦された。数々のイベント企画や運営に関わってきた実績を持つ。


「さて、学園祭のステージ競技について簡単に説明するね」


朱音は手元の資料を見ながら話し始めた。


春花大学の学園祭は毎年恒例の大イベントで、地域の住民や他校の学生も多く訪れる。3日間にわたって開催されて、たくさんの模擬店、展示、イベントが行われる。


ステージ競技もそのイベントのひとつだ。広い学内に四つの屋外ステージが設置される。簡単に言えば、このステージの中で最も観客を集め、そして満足させたチームの勝ち、そういう競技である。


「私はくじ引きでサブステージAを勝ち取ったの」


蒼汰が朱音が用意した資料に目をやると、そこには各ステージの位置と収容人数などが記載されている。


メインステージがキャンパス中央の広場にあって、最大収容人数は約2,000人。サブステージAは図書館前広場にあって、収容人数は約800人。その他にもサブステージB、Cがある。


蒼汰は興味深げに聞いていた。


各ステージは独立してイベントを行い、ステージ規模に応じた観客数比や観客の満足度で競う。観客数は各ステージの入り口でカウントされて、ステージ終了後に集計される。


観客はパフォーマンス終了時にスマートフォンアプリを使って満足度を評価する。総合成績は観客数比と満足度評価の合算で決まる。


「僕は三日目の最後に出演するんですよね」


「そう、その通り。すでに公式サイトで告知済み。すごい反響よ、私のところにどうやって翠と連絡を取ったのか、問い合わせが殺到してる。全て契約で明かせないと断ってるけどね」


「ステージでバレませんか?」


蒼汰にとってはそれこそが最も心配なことで、もしバレる恐れが高くなってきたら、朱音には悪いが、ドタキャンも考えている。


朱音は表情が曇り、蒼汰は嫌な予感がした。


「正体がばれないように、別室で歌ってもらって、ステージではYouTubeのようにイラストレーターが作成した映像を流して演出するつもりだったんだけど…」


「だったんだけど?」


蒼汰は眉をひそめた。朱音は困ったようにため息をついた。


「翠の反響が大きすぎたのよ。他のステージ陣営が慌ててしまって、このままじゃ自分たちが呼んだアーティストに恥をかかせてしまうとでも思ったみたいでね、運営サイドに強く抗議してきたの」


「え、でも、それをステージ同士で競うためイベントなんじゃないんですか?」


「その通りだけど、言ったでしょ?今のステージ競技は出来レースだって。つまり競い合うつもりなんてないの。客を呼ぶ演出の一種よ」


「ほんと、萎えますね。そういうの」


「ええ、私も強くそう思う。でも、運営はあっさり折れた。抗議の内容は『本人は別の場所に居て映像を流す、それが許されるなら、海外アーティストもヴァーチャルユーチューバーも出演できるが、学園祭のステージという枠組みなので、歌う本人がステージにいることを条件にすべき』というもの。そしてそのルールが押し通されてしまったのよ」


蒼汰は顔が強張った。


「つまり、本人とわかるようにして、ステージに立たないといけないってことですか?」


「そういうことよ。あなたの場合はどこにも姿を見せていないから、その声しか証明できない。仮面は許可されたけど、マイクを通さず、生歌を一曲だけ披露する。交渉したけど、これが限界だった」


朱音は真剣な表情で訴えた。


「真城先輩、改めて言いますが、僕の正体がばれる可能性があるなら、出演はできません」


蒼汰はきっぱりと答えた。それだけは決して譲れない一線であり、説得されても妥協する事はない。蒼汰は自分が翠である事がバレる事を非常に恐れていて、バレるくらいなら、翠としての活動はすぐにでも辞める覚悟がある。


朱音にもその覚悟は伝わっている。


「わかってる。絶対にそれだけは守る。当日は警備会社に警備を依頼して、関係者以外は完全にシャットアウトする。あなたの動線を最優先して誰とも出会う事なくステージまで来て、終わったらすぐにステージから学外に出られるように計画してる」


蒼汰はそれでも不安を拭えない。挑戦したいと言った朱音には協力したい気持ちもあるが、何が起きるかわかないのが生本番というものだ。断ってしまうべきか。


その迷いを朱音も感じた。


「蒼汰くん、私に出来ることは何でもするって約束したよね。だからその覚悟を証明する」


そう言って、朱音はタブレット端末を差し出してきた。蒼汰は受け取り、見てみると、学園祭の公式サイトの1ページ、朱音が担当するサブステージAの告知画面だ。そこにはーー。


『プロデューサーの真城朱音は、このステージが成功したら、とある男性の恋人になることを宣言します』


「もちろん、その男性とは蒼汰くんのことよ。私はあなたの恋人になって、あなたの言うことは何でも聞くわ」


「な、何でも?」


「何でも」


朱音のその表情は思い詰めた真剣なもので、決して冗談であったり、揶揄っていたりした浮ついたものではないようだ。蒼汰にはそう感じた。


朱音のような美人から何でもと言われたとき、下心が顔を覗かせたのは、健全な男性であれば、やむを得ないだろう。


しかし、その覚悟は蒼汰にも伝わった。蒼汰も覚悟は出来た。最悪の場合でも翠としての活動が終わるだけの事だ。そう思うことにした。


「わかりました。僕はただステージで最高のパフォーマンスが出来るようにだけ考えます。それ以外は全てお任せします」


「うん、任せて!」


こうして、蒼汰は決意を新たにし、学園祭のステージに立つことを受け入れた。



<視点:朱音>



学園祭当日が近づいていた。ステージの準備が大詰めを迎え、朱音は電話で蒼汰と最終確認していた。


「蒼汰君、大丈夫?」


朱音は電話越しに不安げな声で尋ねた。蒼汰が強張って緊張しているのが、声だけでも感じられた。


「正直、かなり緊張してます」


「無理もないわ。初ステージなんでしょ?」


「youtubeで歌を公開するのと、ステージに立ってお客さんの前で歌うのでは、こんなにも緊張が違うってことが新鮮です」


「でも、君なら絶対に成功するよ。私は信じてる」


朱音は励ましの言葉をかけた。


学園祭では他のステージもそれぞれ特色ある出演者や演出を用意していた。特に三日目には各ステージは力を入れてきていた。


メインステージには、人気のあるロックバンドが出演し、派手なライトショーとともに観客を盛り上げる予定だった。


サブステージBでは、ダンスチームが最新のヒットソングに合わせてパフォーマンスを披露し、観客と一体になったダンスバトルが展開される。


サブステージCでは、地元の伝統音楽を取り入れた演奏グループが参加し、舞踊と古風な楽器とモダンなアレンジが融合したユニークな演出が予定されていた。


それでも前評判では最も注目されてるのが翠だった。何もかも謎に包まれた歌手がついに皆の前で歌う。テレビ局から撮影の依頼があったが、運営側も朱音も断った。


あくまでステージのライブ感を大事にしたいと言うのが朱音の意見。テレビ局が入ると、それを見てさらに客が押し寄せると収拾がつかなくなる事を恐れたのが運営側だ。


しかし、朱音には蒼汰に確認しなくてはいけない、別の懸念があった。


「蒼汰君、愛美って子を知ってる?」


「知ってます。幼馴染ですよ。仲良くは無いですが」


蒼汰の声が少し曇った。


「彼女、翆の大ファンらしくて、しつこく聞いてくるの。しかも、私と蒼太くんが一緒にいたところを見ていたらしくて、君が翆だとは思ってないけど、翆の関係者だと思ってるみたい」


朱音はため息をついた。


「あいつ、思い込んだらもうしつこくて。それが嫌になって距離を置いたんです」


蒼汰は考え込んだ様子だった。


朱音のところには他にも音楽関係者が翆の正体を知りたがって訪れ、連絡先を教えろと言ってくる。何度か待ち伏せされて声をかけられたので、油断ならない。


そのせいで朱音は蒼汰とは会うことができず、こうして電話でしかやり取り出来ない。


「真城先輩は愛美のことを知ってたんですか?」


「ステージスタッフの一人なのよ。知り合いの紹介で入ってもらったんだけど、あまりにしつこくて、準備の邪魔になるなら、辞めてもらったわ」


「たぶん諦めませんよ、本当にうんざりするほど思い込んだら執着します。あいつが翠のファンというのを聞いて、翠を辞めたくなってきました」


「蒼汰くんは、翠という存在に愛着はないの?いつでも辞めて良いみたいな口ぶりだよね?」


「ありませんね。歌を誰かに聞いてほしいけど、僕が歌ってるってことは知られたくない。そんなときにyoutubeは都合が良かった、それだけです」


朱音にはそれがわからなかった。


歌を歌うのが好きなのは間違い無いだろう。そしてその歌声はもっと多くの人が知れば、きっと皆を魅了するだけの魅力がある。なのに、本人は有名になったり、お金を稼いだりという野心は全く無い。


しかし、そのストイックな姿勢が翠の魅力のひとつなのも確かだった。


「とにかく気をつけて。何かあったらすぐに連絡してね」


「わかりました」


こうして、学園祭のステージ成功に向けて準備を続けた。



<視点:蒼汰>



帰ろうとしていたところを愛美に待ち伏せされた。


「蒼汰、ちょっと話があるの」


久しぶりに会った蒼汰に挨拶や前置きもなく、狂気に満ちた表情で愛美は言った。


「何の話だ、愛美?」


蒼汰は警戒しながら聞いた。


「あなた、翆の関係者なんでしょ?翆に会わせてよ!真城さんは翆をステージに呼び出すために、あなたを利用しているだけよ。騙されちゃダメ!」


蒼汰は愛美の話を聞かずに決めつける態度が嫌になる。


「愛美、君のそうやって自分の考えを押し付けるところが嫌いで、距離を置いたんだ。僕は翆とも真城さんとも関係ないよ」


「嘘よ、信じない!真城さんが言ってた恋人になるっていうのも、蒼汰の事でしょ?私なら今すぐにあなたの恋人になるわ!だから翠に会わせて!」


話が通じないことにうんざりする蒼汰は、そのままその場を立ち去ろうとするも、愛美が抱き付いて引き止められる。


「好きよ!蒼汰!私たち幼馴染じゃない!」


「僕は嫌いだよ、愛美の事が嫌いだ」


「それも嘘よ!今だって抱きついて喜んでるでしょう?今からあなたの部屋に行っても良いわよ」


「警察を呼ぶよ、今は女性でも不同意性交等罪の加害者として適用される」


「ふざけないで!」


スマートフォンを取り出して、本当に警察を呼ぼうとする蒼汰を見て、幼馴染の愛美はそれが本気であることを感じ、体を離して後退りながら、捨て台詞を言った。


「ずっとあなたを見てるから!そうすれば必ず翠に会える!」


そして立ち去っていった愛美の背を見ながら、蒼汰は安堵の息を吐く。しかし、このままじゃ本当に付き纏われそうだ。


自宅アパートに帰り、朱音にメッセージを送った。


『愛美がストーカーとなり、僕を見張っています。申し訳ありませんが、こんな状況ではステージに立てそうにもありません』


蒼汰はもうステージに立つことを断るつもりでそのメッセージを送った。愛美のしつこさは嫌というほど知っている。翠に出会うまで決して諦めないだろう。そんなのに付き纏われながら、ステージに立って歌う、とてもじゃないが、そんな気持ちにはなれそうになかった。


すぐに朱音から電話がかかってきた。


「蒼汰くん!大丈夫?!」


「大丈夫ではありませんね、愛美は前より酷くなってます。いつ家に押し入られるか、身に危険を感じています」


「そんなに酷いことに……。わかったわ。蒼汰くん、すぐに着替えとか泊まりの支度をしてくれない?」


「どうするんですか?」


「うちで匿うわ」



   ◇   ◇   ◇



蒼汰は感動していた。漫画などでは読んだ事があったけど、まさか自分が体験できる日がこんなに唐突にやってこようとは、夢にも思ってなかった。


一人暮らしの女子大生の部屋に招かれるという僥倖。


この感動を歌にしたい、そんな強い気持ちが、ついつい心の声が口から出ていたらしい。


「なにか感動してるみたいだけど、歌にされるのはちょっと恥ずかしいかな」


「!」


思わず口を手で押さえて溢れる言葉を飲み込んだが、すでにとき遅く。


「その和室を好きに使って。ごめんね、他の部屋は見せられないくらい散らかってるの」


朱音の自宅マンションは、ファミリー向けの3LDKの間取りで、女子大生が一人で住むにはかなり広い。朱音が指さしたのは、リビングとつながっている和室で、可動間仕切りで仕切ることが出来るようになっているようだ。


「う、うん、真城先輩、ごめんなさい。愛美のせいで」


「いえ。あなたこそ被害者でしょう?私がステージに立ってほしいとお願いした結果だもの。学園祭までの数日はここに居てもらっていいかな?」


日頃から真面目に講義に出席しているので、あと数日は講義に出なくても単位には影響しない。学園祭に向けて皆が準備を進めていることもあって、教授の中には事前に申請しておけば、出席扱いで大目に見てくれる人もいるくらいだ。


「はい。ここなら大丈夫だと思います。すごいセキュリティですよね」


ここには朱音の指示に従ってやって来たのだが、蒼汰は、まるでスパイ映画のヒロインになった気分だった。まずタクシーで最寄り駅まで移動して、一駅だけ電車で移動し、駅ビルの駐車場に待機していたハイヤーに乗り込んで、このマンションへとやって来た。駐車場に入るのさえ、警備員のチェックを受けて、朱音に確認の電話を入れてるのを見て、愛美はどうあがいてもここには入れないだろうと安心した。


「父のマンションなの。と言っても、誰も訪問者はいないから、安心して」


「はい」


「防音もしっかりしてるから、歌の練習をしても大丈夫よ」


歌の練習か、と蒼汰は少し罪悪感を感じながらも、しかし何かすることがあるわけでもないので、歌を作ろうかと思っていた。


「そう、ですね。でも、歌の練習はいいです。ちょっとそういう気持ちになれそうにないので」


「そっか。じゃあ、夕飯作るね。まだ食べてないでしょう?あ、それか、お風呂先に入る?気持ちが切り替えられるかも」


夕飯?お風呂?なんだか情報量が多すぎて、蒼汰は固まってしまう。そんなの、まるで同棲してるみたいじゃないか。


自慢じゃないが、本当に自慢じゃないが、蒼汰は今まで女性と付き合ったことは無い。愛美は昔から好きだ好きだと言ってくるが、気持ち悪くて逃げ回ってた。


そのせいで、女性が苦手になっていたのもある。なのに、急に降って沸いたの、この幸せ空間はなんだろう。


「あ、えっと、お風呂はあとでいいです。夕飯は僕も手伝いますか?」


「大丈夫、座って待ってて。簡単なのしかないけど、いいかな?」


エプロンを身に着け始めた朱音を見て、再び感動を覚え、愛美に感謝する日が来るなんて思ってなかったな、と蒼汰は自分の感情に溺れて混乱してた。



   ◇   ◇   ◇



学園祭までの数日。蒼汰は朱音との同棲生活を、ドキドキしながら過ごした。


風呂上りの薄着で部屋を歩く朱音を見ると、心臓が跳ねるように鼓動する。一緒にリビングでくつろぎながら他愛もない話をする時間は心地よいが、その一方で、女性らしい部屋の香りや朱音の仕草にいちいち反応してしまう自分に戸惑った。


朱音が出かけている間はやることもないが、しかし勝手に部屋を掃除したりするのも、いったい何が飛び出してくるかわからない。出来ることと言ったら、蒼汰は食事を作り、朱音の帰りを待つ。そんな生活になった。


「わあ、蒼汰くんが作った肉じゃが、本当に美味しい!」


朱音は蒼汰の作った食事に喜びの声を上げた。


「ありがとうございます。こういうことしかできないけど」


蒼汰は照れくさそうに答えた。


朱音はとてもくつろいだ様子で、とても自然に蒼汰に質問した。


「蒼汰くんは、どうして音楽に興味を持ったの?」


「母の影響でしょうか。小さい頃から母が弾いていたピアノに触れることで、音楽に興味を持つように」


「お母様も音楽をされているのね」


「うん。自作の防音部屋を作って、収録して、YouTubeに初めて歌を投稿したら、あっという間に視聴回数や登録者数が増えて、びっくりしました」


「私が初めて翆の歌を聞いたとき、心を揺さぶる歌声に感動したわ。きっとみんなそうなんだと思う」


「翆としての活動を通じて、疲れた心を癒す音楽を届けることを目指しているんです」


蒼汰は目を輝かせて言った。


「素敵な活動ね、蒼汰くん。私は絶対に君の正体をばれないようにして、その活動の邪魔をしないことを誓うわ」


朱音は真剣な眼差しでそう言った。


蒼汰はその言葉に感謝し、安心した。そして、いよいよ学園祭が開催される日が近づいてきた。



<視点:朱音>



春花大学の学園祭がついに開幕した。


キャンパス全体が賑わい、各ステージが一斉にスタートした。初日はステージ以外の模擬店やイベントを邪魔しないように配慮されていて、有名なアーティストや目を引くパフォーマンスよりも、学内のサークルによる催しに使われることになっている。


朱音が担当するサブステージAでは、マジックショーが行われていた。次々と出演者が登場し、観客を楽しませていたが、観客はまばらで、食べ歩きの休憩場所として立ち寄る人の方が多いくらい。でも、それは他のステージも同様なので、トラブルなく進行すれば、それで十分だった。


「順調に進んでいるわね」


朱音はステージの様子を見ながらスタッフに声をかけた。


「はい、真城さん。でも、きっと大丈夫ですよ」


スタッフは励ましの言葉を返した。


朱音はステージの総責任者として、その場を離れることができなかった。蒼汰のことが気になりながらも、学園祭期間中は、学内に泊まり込むつもりなので、家にも帰れない。


スマートフォンのメッセージと電話だけが蒼汰とのつながりだった。夜になって、朱音は蒼汰に電話する。


「蒼汰くん。今日も忙しくて帰れそうにないわ。ごめんね」


「お疲れ様です、真城先輩。ステージは順調ですか?」


蒼汰の声を聞くだけで、朱音は心が安らぐのを感じた。


「ええ、初日はあまり派手なことをしない取り決めだから、平和よ。明日の二日目は、どのステージでもお客さんとの交流を目的としたディスカッションイベントをするから、本番はやっぱり最終日ね」


「サブステージAでは、何をするんですか?」


「デジタル時代のアーティストたちと音楽の未来について討論するわ。もちろん、三日目の翆が登場することを意識しての事よ。youtubeなどで音楽活動をする人を招いてるわ」


「それ、僕も興味ありますね。見に行けないのが残念です」


蒼汰が、本当にしょんぼりとした声で言うので、なんだか朱音は蒼汰が愛おしく感じてしまう。


「記録用のビデオ撮影はしてるから、あとで見せてあげるわ。それより、体調は大丈夫?ご飯はちゃんと食べてるかしら?本番に向けて体調管理だけはしっかりね。熱でも出たらたいへんだもの」


「はい。大丈夫です。真城先輩こそ、大丈夫ですか?忙しいんでしょう?」


「大丈夫よ、ありがとう。……まるで遠距離恋愛してる恋人同士みたいね」


朱音は冗談めかして言ったが、心の奥底では本当にそんな気持ちになっていた。蒼汰への気持ちが高まっていくのを感じた。


「え、いえ、まだ恋人じゃなくて、それは終わってからっていう話で――」


「冗談よ」


その慌てふためく様子が目に浮かぶようで、朱音は疲れがとれ、癒されるのを感じた。こうしてずっと話していたいが、明日の準備もあるし、蒼汰には睡眠を十分にとってもらって、体調を維持してもらわないといけない。


「じゃ、もう切るわ。おやすみなさい、蒼汰くん」


「はい。おやすみなさい、真城先輩」


電話を切った後も、名残惜しくスマートフォンを見つめ、朱音は蒼汰のことを思っていた。



   ◇   ◇   ◇



そして、ついに三日目がやってきた。


蒼汰の出番がある日だ。すでに蒼汰は朱音の手配したハイヤーで現地に到着しており、警備会社に依頼して厳重に警備した控室に待機していた。


衣装も先に控え室に準備してあり。蒼汰に自分で着てもらう。スタイリストなどは入れない。どのみち仮面をかぶるので、不要なのだが。


朱音は警備員に「誰も通さないでください。私の指示だと言う者がいても、あるいは私自身が来ても決して通さないことにしてください」と依頼していた。


心配していたことは的中する。警備会社から報告が入った。「真城さんの指示だと偽って女性が来ましたが、通せませんと断ると、無理に押し入ろうとしました。もちろん通していません。通れないことを悟ると、立ち去りました」


愛美に違いないだろう。


「蒼汰くんの言うように、まだ諦めていないのね…」


朱音は警戒心を強め、スタッフにも「愛美さんは翆さんのストーカーになったので、見かけたら知らせて」と通達した。


また、愛美以外にも、翆と話をさせろという輩は何人もやってくるので、すべて朱音が矢面に立って対応した。時には地位をひけらかして、言うことを聞かないと後悔するぞ!という偉そうなのまで来たが、父の名前を出せば、たいてい尻込みして帰っていく。父からも名前を出してよいと許可は貰ってるので、遠慮なく使わせてもらってる。


いよいよ、翆の出番が来た。


朱音の出来ることはすべてした。もうあとは、蒼汰くん次第だ。警備会社の警備により守られた翆が、ステージに上がる。観客は興奮と期待で息を飲んでいた。


翆は、ステージ中央に立つ。


翆のステージ衣装は、体格や性別が分からないように工夫が凝らされていた。全身を覆う長いローブは、ゆったりとしたシルエットで体のラインを完全に隠している。色は深い紺色で、所々にシルバーの刺繍がアクセントとして施されており、夜空に輝く星々のように見えた。


髪を隠すための布は、頭全体を包み込み、髪を完全に覆い隠している。布の色もローブと同じく深い紺色で、軽いシルク素材のため、わずかな光沢があって美しかった。


顔には全体を覆う仮面をつける。その仮面は白と銀色のシンプルなデザインで、目の部分にだけ細いスリットが開いている。仮面には控えめな装飾が施されており、翆の神秘的な雰囲気を一層引き立てていた。


所定の位置についても、翆は何も言わない。


そして、一曲目のイントロが始まった。構成として、一曲目は自己紹介の代わりに、翆がyoutubeで発表している楽曲の中でも、最も再生数の多い歌を選んだ。この歌で翆を知ったという人も多い。


翆の歌声が響き渡ると、途端にその歌を聞いた人々は魅了され、静かに聴き入った。


朱音はステージの端からその光景を見つめ、胸を高鳴らせていた。スタッフたちは忙しく動き回り、二曲目に向けての準備をしており、その報告が朱音のインカムに逐次入っている。また、警備員たちはステージを囲むように人員を配置して、決してステージに人を寄せ付けないように見張っている。


大丈夫、順調に進んでいる。そう朱音が思ったとき。そして一曲目が終わり、二曲目に向けて翆が立ち位置を変えようと歩き出そうとしたとき、それは降って来た。



<視点:蒼汰>



初めてのステージで蒼汰は緊張していたが、ステージに立って歌い始めると、翆としての自分を取り戻し、歌に没頭することができた。観客の目を意識することなく、自分の世界に浸ることができた。


(良かった。ちゃんと歌えた)


一曲目が終わった安堵感。そして次は運営からの指示で、マイクを置いて生の声でのアカペラ歌唱だ。少しでも観客に近づくために、立ち位置を移動する必要がある。


事前に朱音から指示されていたが、このステージでのリハーサルには蒼汰は参加できないので、映像で確認したのみ。


仮面をつけたままの視界の悪い中で、目を凝らして床に貼ってあるめばりを探していると、目の前にバサッと音がして、ロープが降って来た。びっくりして足を止める。


(あれ、こんな演出、なのかな?)


思わず、そのロープの出どころを探して、垂れ下がってるロープを辿って上を見え上げようとしたら、上から何か大きな塊が降ってきた。


「スイ!」


その塊は叫んだ。その声を聞いて、背筋に悪寒が走り、恐怖した。顔を見ずともわかる、それは幼馴染の愛美の声だった。仮面をつけたままの視界では、よくわからないが、ステージ外からも何か騒がしい声が聞こえてくる。


「スイ!あいにキタヨ!」


狂気に満ちた声。その声を聞いただけで精神が汚染されそうな、汚らわしい声だった。あまりのおぞましさに、蒼汰は一歩下がった。


そのおかげで、愛美が振りかざしたカッターナイフの凶刃から難を逃れた。ローブをかすめてカッターナイフは空を切った。


「ドウシテよけるのよ!そのカオ、みせなさい!」


愛美は叫び声を上げながら手に持ったカッターナイフを振り回し始めた。


「スイ!ダイスキよ!いつもいつもコメントたくさんカイタのにどうしてムシするの!!」


ついに、そのひと振りが蒼汰の腕をかすめ、血が流れる。蒼汰は痛みに耐えながらも、愛美の行動に驚き、動けなかった。愛美はそのまま蒼汰にタックルをしかけ、押し倒すことに成功した。


「スイ!いまそのカオをミテあげる!」


愛美は興奮に満ちた目で蒼汰を見下ろしながら、仮面をはぎ取った。


そして「蒼汰じゃねぇか!」と叫んだ。


蒼汰はもはや人ではないものに見える愛美としっかり顔を合わせてしまった。


ステージ関係者と警備会社の警備がようやくステージに上がり、愛美を拘束したが、時すでに遅し。ステージには設置された演出用の大きな画面に、体を起こして呆然と座っている蒼汰の顔が、大きく映されてしまっていた。


カメラを構えていたスタッフも映してやろうと悪意でズームアップしたのではなく、自身の好奇心から、レンズを向けて自然とズームアップしていた。


拘束されたまま愛美が叫んだ。


「翆じゃない!蒼汰が翆のふりをして、ステージで歌うふりをしていたんだろ!」と糾弾する。


これに反応して、ステージ観客席からも「替え玉かよ!」「偽物か!」「本物の翆を出せ!」「本人がステージに立つルールだったはずだ!」と声が飛ぶ。


蒼汰がもっとも恐れていた事態になってしまい、ショックのあまり、蒼汰は立ち上がれずにいた。そうしている間にも、愛美は警備会社によって連れていかれたが、観客の怒りは収まらなかった。


朱音がステージに立ち、責任者として説明を始めた。


「皆さん、落ち着いてください。まずはこちらを見てください」


そう言うとさっきまで蒼汰の顔が映し出されていた大きな画面に、別室の様子が写る。そこには仮面を被った人物が映し出された。ステージ衣装は身に纏っておらず、カジュアルな恰好をした、その体形から女性であることが分かった。


「別室にいる本物の翆さんです。皆さんのおっしゃるように、別室から歌声だけ中継するかたちでのステージ出演でした」


朱音は別室にいる偽の翆を示した。


「当初から翆さんとは、ステージでは歌わず別室からの中継で歌う、その契約でした。しかし運営サイドによるルール変更によって、私たちはルールと契約の板挟みになりました。そこで、口の固い知り合いである霧島君にお願いして、翆さんの代わりにステージに立ってもらいました。この報酬として、霧島君には、私が恋人になることを約束したのです」


朱音は真剣な表情で説明を続けた。


「ルール違反であることは認めます。皆様にはたいへんご迷惑をおかけしました。これ以上のステージ続行は無理ですので、サブステージAはここで閉幕と――」


こんなことで。こんなことで終わりにしていいはずがない!


「待ってください!」


蒼汰は傷ついた腕を抑えながら、ステージ中央に立つ朱音に駆け寄って、観客席に向かって叫んだ。


「僕は翆です。本物の翆です!今までずっと正体を隠して活動してきましたが、もう隠すことはできません!聞いてください、ボクが本当の翆だと証明します!」



<視点:朱音>



「――聞いてください、ボクが本当の翆だと証明します!」


蒼汰がステージの中央でそう言うと、ポケットからスマートフォンを取り出して何かを操作し始めた。


朱音はいったい何をしはじめたのかわからず困惑した。しかし、次の蒼汰の一言で驚かされた。


「翆のyoutubeチャンネルで、ライブ配信を開始しました。みなさん、お手元のスマートフォンで確認してください」


朱音は驚きと不安が入り混じった気持ちで、蒼汰の行動を見守った。観客たちが自分のスマートフォンで翆のチャンネルを開くと、そこにはステージ上の様子が映されていることが確認できた。


「歌で証明します」


蒼汰はそう告げて、スマートフォンを朱音に手渡すので、朱音は自然と受け取る。そして、蒼汰はマイクをステージ上に置いた。蒼汰が「朱音さん、僕を映してください」そう呟くので、朱音はそのスマートフォンを握りしめながら、蒼汰の決意を感じ、大きく頷いた。


その声は、人を魅了する。


まるで、静かな湖面に映る月に、一滴の雫が落ちて、輝く新円の波が広がっていく様のようだ。


騒がしかった観客席は、水を打ったように静まり返った。皆がその声に魅了され、もっと聴きたいと願いながら、身を乗り出すようにして聞き入っていた。


「偽物だ!」と叫ぶ男もいたが、周りの観客によって取り押さえられた。他にも騒ごうとする者がいれば、周りの客が一斉に睨み、黙らせる。そして、騒ごうとした者でさえ、声が染み込むように聞き入っていき、ついには静かに聞くだけになっていく。


その静寂と声の波紋は、サブステージAだけに止まらなかった。


これは朱音も後から聞かされたことだが、サブステージAの騒動を聞きつけ、様子をうかがっていた人たちが「翆のチェンネル見ろ!ライブ配信してるぞ!」と声をあげた。たちまち、その声は学園祭で賑わうキャンパス内を駆け巡っていき、あちこちで彼らが持つスマートフォンを取り出した。


皆の表情は驚きと感動で満ちていた。彼らはスマートフォンを手に持ちながら、静かにその声を聴いていた。一つ一つのスマートフォンの音は小さくとも、無数の数のスマートフォンから翠の歌声が広がっていく。


ついには他のステージにまで到達して、その様子に異変を感じた出演者たちは演奏をやめ、その歌声を聞こうと観客に静かにするよう促した。今、学園祭会場には翠の歌声だけが響き、全ての人がその歌声を聴こうとして静かになっていく。


翆の歌が終わる。


歌い終わった後、盛大な拍手が鳴り響き、それはステージを超えて学園祭全体に広がった。朱音はその光景を見て、涙がこぼれそうになるのを堪えた。蒼汰が朱音を手招きして呼び寄せ、スマートフォンのマイクを通して翆の素性を明かした。


「今まで翆として活動していたのは僕、霧島蒼汰です。こんな地味な男が歌ってるとばれるのが恥ずかしくて黙っていました。皆を騙してしまってごめんなさい。朱音さんは悪くありません」


皆は静かなまま、その告白を聞いていた。もう誰も、彼が翆であることを疑う者はいない。いたとしても、それは周りの人間に諭されるだろう、あの声を聞いて疑うお前がおかしいと。だが、静かに聞いていられたのもここまでだった。


「そして、バレてしまったからには、もうこれで翆としての活動はやめます」


朱音の胸は締め付けられるような思いでいっぱいだった。朱音はぜったいに守ると誓ったのに、守れなかった。蒼汰は翆には執着は無いと言ってた。言葉通り、翆としての活動はやめてしまうだろう。その喪失感で、朱音は泣き出すのを抑えきれなかった。


しかし、その瞬間、観客から「辞めないで!」の声が響き、その声は学園祭会場全体から響き始めた。


困惑する蒼汰に、朱音は涙を流したまま、微笑みながら言った。


「蒼汰くん、あなたは翆に固執しないかもしれないけど。私は嫌よ。辞めないで欲しい」


「でも、こんなダサい男が歌ってるって知ったら、嫌になりません?」


「何を言ってるの。蒼汰くんはダサくなんかない、かっこいいよ?」


「お世辞でも、朱音さんに言われると嬉しいです」


「お世辞なわけないじゃない。私はあなたの恋人になるのよ?その私が言うんだから」


「そんな話でしたね」


「それで、これだけのみんなが辞めないでって言ってるのに、やめるの?」


「……僕が歌って、いいんですか?」


少し間をおいて、大歓声と共にアンコールの声が叫ばれた。目を見開き、驚きの表情を見せる蒼汰。朱音に尋ねたつもりだったが、ライブ配信を聞いているみんなが応えてくれた。


朱音のインカムに運営からの指示が入った。


『あと一曲にしてくれ。その様子は全てのステージでライブビューイングされる。そうしないと今にもサブステージAに客が押し寄せようとしてるのを、出演者たちが呼び掛けて押しとどめてる状態なんだ。大変に危険だから、早くその旨を告知してくれ』


朱音は深くうなずく。すぐに各ステージは映像と音楽がつながっていく。


「今からサブステージAの翠のライブを、全てのステージでライブビューイングします!他のステージにいる皆さん!一斉に移動すると大変危険です!そのまま各ステージで楽しんでください!」


朱音は蒼汰に目で合図を送って、マイクを手渡す。


「この様子を見ている全ての皆さん!今からもう一曲だけ歌わせてもらいます!今後のこととかいろいろ気になると思いますけど、今はただ僕の歌を聴いてください!」


蒼汰は再びステージ中央に立ち、翆としての最後の一曲を歌い始めた。その声は学園祭全体に響き渡り、誰もがその美しい歌声に魅了され、静かに聴き入った。


朱音は、蒼汰の勇気と才能に改めて感動し、この瞬間がずっと続いてほしいと願った。観客の拍手と歓声が響く中、朱音の心は蒼汰への感謝と愛情で満たされていた。



<視点:蒼汰>



夜の月歌公園。蒼汰は一人で歌っていた。静かな夜空に彼の声が響き渡る。


歌い終わると、どこからか拍手が聞こえた。驚いて振り返ると、そこには朱音が立っていた。


「朱音さん、打ち上げに行ったはずじゃ?」


蒼汰は驚いて尋ねた。


「最初だけ顔を出して挨拶して、あとは任せてきたの。主役が打ち上げには参加しないんだもの」


「苦手なんです」


朱音はしょうがないなぁと微笑んだ。朱音は蒼汰に近づいてきた。


「学園祭、無事に終わったわ。ステージ競技の結果は、引き分けってことになった。事実上無効試合ってやつね。他のステージの出演者には、ほんと申し訳ないことをしてしまったわ」


「そうですね、本当に申し訳なく思います。せっかくのステージだったのに、僕が台無しにしてしまった」


蒼汰が落ち込んでそう言うのだが、朱音は少し声を出して笑って言った。


「でもね、ステージ責任者としてお詫びに行ったら、皆が口をそろえて言うのよ、お詫びはいらない、むしろ感謝してる」


「え?」


「その声ひとつで、あんなに多くの人を魅了して、黙らせてしまう。そんなことが出来るのは歌の神様だけだ。歌を信仰する者として、ぜひ肖りたい、って言ってる人もいたわ」


「……」


歌の神様、という言葉には、蒼汰はドキッとしたが、朱音には悟られなかったようだ。


「それに、多くのスカウトが私のところに来て、蒼汰くんのことを聞いてきたけど、恋人は売れないから、私から何も言わないし、仲介しないって断ったわ」


朱音は蒼汰を見つめながら続けた。


「蒼汰くん、これからどうするの?」


「どうやって知ったのか知らないけど、僕のところにも連絡がたくさん来ました。うるさいからスマートフォンをオフにしましたけど。すべて断ります。今まで通り、普通にやっていくつもり」


蒼汰は静かに答えた。


「それでか。もう!連絡したかったのにつながらないから、心配したのよ?たぶんここじゃないかな?って思って来てみたけど、もうロープウェイ止まってるし、一人で登山道を登ってくるの怖かったんだから」


「それは、ごめんなさい」


「まあ、いいけど。……プロの歌手になるつもりはないの?」


朱音はずっと聞きたかったことを聞く。おそらく、それこそが、朱音を通じて多くの人が確認したいことなんだろう。でも、蒼汰の気持ちは決まっていた。


「そのつもりはありません。さっき言った通り、今まで通り」


「どうしてなのか、聞いてもいい?言いたくなかったら、いいんだけどーー」


反則(チート)だから、かな」


きょとんとした朱音の表情も美人だな、と蒼汰は思ってその顔を見てた。聞きたいだろうけど、まだ朱音に話す勇気がない。だから、続けて言った。


「それ以上はまたの機会に」


そう言って誤魔化した。朱音は、思案するような表情と仕草をしたが、でも、踏み込めないと思ったのか、それ以上は聞かなかった。


自然と、二人は並んで、展望台から夜景を見下ろした。朱音は蒼汰に沿うように近づき、その腕を抱きしめた。


「蒼汰くん、報酬を受け取ってくれる?」


「ステージ競技の結果は引き分けだった。朱音さんは勝ったら恋人になるって宣言してたんだから、報酬は受け取れない」


「……勝ったようなもんじゃない。だって、アプリで集計した満足度アンケート、ほとんど翆のことだったみたいよ?私も一部しか見てないけど」


ちょっと拗ねたように朱音が言う。言いたいことはわかるんだけど、蒼汰にも譲れないことがあった。


「でも、勝ちじゃない。それに、報酬で恋人にはなりたくありません」


朱音は涙を浮かべて「私、振られたの?」と言った。


蒼汰は焦って「いや、そうじゃない。いや、そうなんだけど、そうじゃないんだ」と支離滅裂なことを言ったが、朱音の両肩を、蒼汰の両手でつかみ、お互いに顔を合わせて言った。


「だから、今から言うことは報酬とは関係ないから」


蒼汰は深呼吸して、朱音に告白した。


「朱音さんのことは大学に入った時から知ってて、美人だなぁって気になってた」


「えっ、そんな風に思ってたんだ」


朱音は驚いた表情を見せた。


「うん。そして、正体を明かさずに歌いたいっていう僕のわがままを全力で守ろうとしてくれて、本当に感謝してる。ステージ上でバレた時も、偽物まで用意して庇ってくれたし」


「だって、蒼汰くんの夢を守りたかったから」


朱音は真剣な眼差しで答えた。


「少しの間だけど同棲してドキドキした。朱音さんの優しさに触れて、ますます好きになった。だから、付き合ってほしい」


蒼汰は勇気を振り絞って言った。


「蒼汰くん…」


朱音は涙を拭いながら言った。


「実は私、小学生の低学年の頃、半年だけ日本にいて、蒼汰くんとは同級生だったの」


「え、同級生?全然覚えてないよ」


蒼汰は驚きを隠せなかった。


「転校してきたばかりで馴染めなかった時、蒼汰は優しく話しかけてくれて仲良くなったの」


「……ごめん、全然記憶にない」


蒼汰は申し訳なさそうに言った。でも、朱音は気にしていない様子で、頷き。


「うん、たぶん蒼汰くんにとっては私は特別な存在ではなかった。蒼汰くんは誰にもでも優しく接してたから、寂しそうにしてた私に声をかけてくれたのも、たぶんそれが誰であっても同じだったんだと思う」


「……」


「病気で休んでいるうちに突然アメリカの学校に転校することになって、ちゃんとお別れもできずに離ればなれになったの。その後、アメリカの学校で飛び級して、日本に戻って来た」


「そうだったんですね」


「大学で再会して、私はすぐに蒼汰くんに気づいたけど、蒼汰くんは覚えてないみたいだったから、その後も話しかけられなかった。報酬ってことにして恋人になるって言ったけど、本当は蒼汰くんは私の初恋の人だったの。あの夜に歌ってる蒼汰を見て、再び恋をした」


たしかに思い出せば、ここで会ったときに朱音は蒼汰のことを名前で呼んでいた。てっきりすべて知ったうえで話しかけてきたのだと蒼汰は疑っていたが、自分が覚えてなかっただけだったんだ。


「だから私こそ、付き合ってほしい」


「うん。付き合おう」


蒼汰と朱音は月明かりの下で抱き合った。朱音は少し残念そうに言った。


「……でも、告白する場所が失敗したかな」


「どうして?」


「だって、蒼汰くんも知ってるでしょ?ここで夜景を一緒にみたカップルは必ず破局するっていう都市伝説。私たちも破局しちゃうのかな」


朱音が夜景を見ながら言うので、自然と蒼汰も夜景を見た。少し笑いながら、蒼汰は言う。


「その話、もともとはどういう話か知ってる?」


「え、知らない。どういう話なの?」


「月が輝く夜には、女神が舞い降りて、歌を歌う」


「あ、それは知ってる。この山の名前の由来になったっていう伝説ね」


「その女神は嫉妬深く、歌を歌いに降りて来たのに、そこで仲良くしてる男女をみたら、別れさせたくなるっていう話なんです」


「え。女神様のいじわるだったの?」


「だから、僕たちは大丈夫です」


「ん?どういうこと?」


「じゃあ、帰りましょう!送って行きますよ」


朱音の背中を押して、帰ろうと促す蒼汰は明らかに何かを誤魔化そうとしてるが、朱音は何が何だかわからない。


「送るっていうか今夜もうちに泊まったら?アパートはもしかしたら誰か待ち伏せしてるかも」


「え、もう家までバレてるんですか?」


「電話も知られてるくらいだから、たぶんバレてるわ」


「嫌だなぁ」


「いっそ同棲しましょうか、恋人同士なんだし」


「え」


「我ながら良い考えだわ!そうしましょう!」


「ちょっと待って、そんな急に」


「そうと決まったら早く帰りましょう!」


元気よく登山道を歩いて下り始めた朱音を追いかけて、蒼汰は歩き出そうとして、ふいに空を見上げた。


月に蒼汰は呟いた。


「またきます」



   ◇   ◇   ◇



二人は答え合わせをしました。


「朱音さんって、イベント関係の仕事をするんですか?」

「そうよ。イベント会社を立ち上げて、自分のアイデアを形にする仕事がしたいの。すごくワクワクするわ」

「それは素敵ですね。朱音さんならきっと成功すると思います」

「ありがとう。最初は小さな会社から始めて、少しずつ事業を拡大していくつもり。イベントを通じて、人々に喜びや感動を届けるのが目標よ」

「素晴らしい目標ですね。朱音さんの情熱と実行力があれば、きっと実現できますよ」

「そう言ってもらえると本当に嬉しいわ」

「朱音さんの夢の実現に、僕も協力できることがあれば、ぜひ手伝わせてください」


「蒼汰くん、愛美さんのこと心配してたでしょう。あの日の騒ぎの後、愛美さんは警察に保護されて、一時的に精神科に入院していたの」

「そうだったんですね。あの時の様子を見て、本当に心配でした」

「ご両親が専門の医師に相談して、ようやく愛美さんは落ち着きを取り戻したそうよ。あの行動裏には、物事にこだわりすぎる傾向があったみたい」

「なるほど、そういう背景があったんですね」

「ご両親も驚いて反省してたし、愛美さん自身も深く反省して、私に謝ってきたの」

「そうですか...愛美なりに、反省しているんですね」

「双方に誤解があったけど、この経験を通して心境の変化があったみたい。これで一段落ついたと思うわ」

「そうですね。愛美も新しいスタートを切れるといいですね」


「蒼汰くん、あなたの歌声には特別な力があると思うの。まるで魔法みたいに人を引きつける力が」

「どうしてそう思うんですか?」

「だって、あなたの歌を聴くと、まるで心が引き寄せられる感じがするの。普通の歌手とは違う、特別な力があるとしか思えないの」

「朱音さんがそう言ってくれるのは嬉しいです。でも、僕はただ音楽が好きで、自分の思いを歌に込めているだけなんです」

「でも、それだけじゃ説明がつかないわ。どうしてプロの歌手になろうとしないの?その才能をもっと多くの人に届けたいとは思わないの?」

「僕は歌うことが好きだけど、歌が人を傷つけることもあると思ってるんです。もし朱音さんが僕の歌声に力があると思うなら、その力は悪用されないように、そっとしておくべきじゃないですか?」

「蒼汰くん、そんな風に思ってたんだ……でも、それならどうしてYouTubeで歌っているの?」

「YouTubeなら、僕の正体が誰にも知られないから、大丈夫だと思ったんです。でも、ばれちゃいましたけどね」

「それは、ごめんなさい、私のせいだもの」

「朱音さんは悪くないですよ。僕もステージに立つことを決意したんですから」

「これからも、YouTubeは続けるの?」

「はい、誰かが僕の歌を聴いてくれて、少しでも癒されるなら、それで十分です」

「蒼汰くん、あなたは本当に優しいのね。でも、その優しさが逆にあなたを苦しめているんじゃないかしら」

「大丈夫です。僕は自分の歌を信じているし、朱音さんが応援してくれるなら」

「うん、もちろんよ!」


今日も月は輝いて、います。



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