9.
よろしくお願いいたします。
「本当に、ダイアナ様には何とお礼を云えばいいのか…」
ローウェル侯爵家のテラスでお茶を口にしながら、セルマ・ドノヴァン子爵令嬢はダイアナに微笑んだ。
あの日延期になったお茶会がローウェル家で開かれ、ダイアナはセルマとレスリー=アンと三人でテーブルを囲んでいた。
セルマがいることに何事か事情があるのを察して、レスリー=アンは遠慮しようとしたのだが、セルマ自身も「ご一緒に」と笑顔で促すのでそのままお茶会が始まったのだった。
「婚約破棄ではなく、婚約解消になったとお聞きしましたわ。良かったですわね」
ダイアナがセルマに微笑みかける。
レスリー=アンはお茶のカップに向けていた目を僅かに見開き、黙ったままそのカップに手を伸ばして口に運んだ。
「わたくしも父にお願いしましたの。父にも少し罪悪感があったようですわ」
そもそもヒューとセルマの婚約は、領地の治水に成功しているドノヴァン子爵が、学院に通う傍ら彼の元に学びに来たヒューの人となりを好ましく思ったことに端を発する。
温厚で優しい人柄の彼なら、きっと娘を幸せにしてくれるだろうと考えたドノヴァン子爵は、早く彼を取り込んでしまおうと、治水に関する技術を全て提供する代わりに伯爵家嫡男のヒューと娘のセルマの婚約を提案した。
治水を学びたいという、正式な伯爵家からの要請を快く受け入れたドノヴァン子爵に対して好意を持っていたレイノール伯爵は、この提案を二つ返事で了承した。
息子からは将来を約束した娘がいると話は聞いていたが、伯爵領の豊かな穀倉地帯を流れる川は、雨量が増すと時折氾濫することがあり、治水はレイノール伯爵家の優先課題だったのだ。
互いに利害の一致した政略結婚など、貴族の間ではよくあること。
息子もそれはよく判っているはずだ、とレイノール伯爵は高を括っていた。
ドノヴァン子爵もよく確かめず、やや強引に話を進めた自覚はあったため、今回のことで傷ついたはずの娘から、ヒューとその思い人について遺恨はないのでなるべく穏便に、と乞われればその通りにするしかない。
ドノヴァン子爵家から、婚約破棄ではなく解消で、と告げられたレイノール伯爵は、さぞかしほっとしたことだろう。
今回の婚約解消により、宙に浮いてしまった治水の技術提供は、伯爵家からの段階的な金銭の支払いによって引き続き行われることとなった。
「レイノール伯爵子息ヒュー様は、如何なさるのかしら」
「ご自身自ら廃嫡を申し出たとお聞きしています」
「そう。伯爵はお怒りだったでしょうね」
お茶のカップをソーサーに戻しながら、エメラルドの瞳が僅かに翳った。
皆にとって最善だと思える方法をとったつもりだったが、それでも全て丸く収まるとまではいかなかった訳だ。
「父からの話ですけれど、はじめは伯爵様もご立腹だったそうです。でも廃嫡を申し出たヒュー様が、『バネット男爵令嬢と将来を誓い合ったことを知りつつ、縁談を進めたのは父上でしょう。私は男爵家へ婿に参ります』と宣言されたそうで、今まで大人しく伯爵様の云うことを聞くばかりだったヒュー様に驚かれていたそうですわ」
「ニーナ様のために頑張ったわね」
ダイアナの言葉に「ええ」と頷き、セルマは「でも」と続けた。
今までの話の流れで、だいたいの内容を察したであろうレスリー=アンにも瞳を向ける。
「頑張るのなら、できれば婚約が整う前に頑張って欲しかったですわ」
そう云いながらも、セルマの表情はさっぱりしていた。
恋情とは云えないまでも、セルマはヒューを未来の夫として好ましく思っていたのは事実だ。
セルマのこともそれなりに大事に思いつつ、それでもニーナへの気持ちを断ち切ることができず、ヒューは身動きが取れなくなっていたのだろう。
ニーナはバネット男爵家の一人娘で、婿を取らねばならない。
愛のない結婚をして互いに愛人を囲う貴族もいるが、ニーナ・バネットにはそれは望めない。
もとより、真面目なヒューが愛する人を日陰の身にしたいとは思っていなかっただろう。
セルマにしても、別の誰かを愛し続けている夫と結婚して、不幸な結婚生活を送ることは回避できたのだ。それで良しとしなければ。
「これから…どうなさるのですか?」
おずおずと、レスリー=アンが口を開いた。
セルマは、レスリー=アンの瞳を見つめてにっこり微笑んだ。
「たぶんもうわたくしが結婚することはないでしょうから、女官を目指そうかと思っていますの。兄の世話になって暮らすのも気が重いので」
婚約解消とはいえ、これでセルマに縁談が持ち込まれることはほぼなくなるに違いない。
ドノヴァン子爵は先妻を亡くし、後妻として嫁した女性が現子爵夫人で、二人の間にセルマの兄である嫡子とセルマの二人の子どもをもうけている。
先妻との間にも女児がいて、既にどこぞに嫁入りしていたはずだ。
学院で生徒会役員をやっていた優秀なセルマなら、女官になることも可能だろう。
視線をダイアナに向け、セルマはダイアナの手を両手で握りしめた。
「ダイアナ様には、本当に感謝しています。あの時、わたくしの話を聞いてくださったダイアナ様が、『それで、セルマ様はどうしたいと思っていらっしゃるの?』と聞いてくださったから、わたくしの心は決ったのですもの」
ダイアナは嬉しそうにセルマに微笑み返した。
が、そのあとで一つ溜息を吐く。
「今のセルマ様の言葉を、お父さまにお聞かせしたいわ。淑女らしく、大人しくしていなさい、と仰るばかりなのですもの。今回ご助力くださったジョナス叔父さまの方が、よほど理解も茶目っけもおありだわ」
「バートラム伯爵様にご協力いただいのですか…?」
レスリー=アンの質問に、そう云えば、まだ話していなかったわねと、ダイアナは彼女に話し出した。
「レイノール様とニーナ様を一度ちゃんと会わせてみないと、と思ったの。それもレイノール様に思いがけない形で会う方が、彼の本心が判るのじゃないかと。それで、叔父さまが夜会を開くと云うのでお願いしてみたのよ。事情を説明してご迷惑はおかけしないとお伝えしたら、ご快諾くださったわ。夜会のホールだと大勢の人の目があるから、小部屋で出来るだけ人目を避けるようには気をつけたつもり。ニーナ様はずっと行くのを渋っていたけれど、もしかしたらレイノール様とセルマ様の姿を見たら諦められると思ったのかしら、最後にはあの場に行くことに同意されたわ」
話しながら、ダイアナはあの日のあの場面を思い返していた。
ニーナを宥めることと夜会のホールから人が来ないように気を配っていて、部屋の中の人たちの様子をあまりよく覚えていない。
確かセルマとヒューを除いて、部屋にはテーブルに腰掛けた一組の壮年の男女と、少し離れたところの絵を見ていた若い男性が二人いたはずだ。
ヒューやセルマを見知った者がいないとも限らないが、あの日の出来事がそこまで大きく話題になることはないと願いたい。
「ニーナ様、泣いていらしたわね。ヒュー様に何度も来たことを謝って…」
セルマもあの時を思い出しているのか、視線を下げて呟くように云った。
愛する女性が涙を流しているのを見たヒューは、思わず彼女の名前を口走った。
そして「すまない」とセルマに云ったのだ。
あの「すまない」は、彼女の名を口走ったことにではなく、「彼女を愛しているんだ」という言葉が続くようにセルマには感じられた。
彼は高位貴族の子息としては誠実すぎ、優しすぎる。
ヒューが振りだけでもニーナのことを突き放せたら、自分の覚悟も変わっていたかもしれないものを。
この人とは結婚できない、と改めてセルマが強く感じた瞬間だった。
「それで、レイノール伯爵家はどうなるのですか?」
話題を変えるように、レスリー=アンがダイアナに問いかけた。
セルマもハッと視線を上げて、ダイアナに視線を移す。
「ご嫡男だったヒュー様の五歳下に、次男のケイン様がいらっしゃるわ。きっとケイン様が爵位を継がれることになると思うわ」
「そう、そのように父も申しておりました」
ダイアナの言葉に、セルマも頷いた。
「治水の勉強も、ケイン様が慣れるまでヒュー様と共に父の元に通うことになると聞きました」
「兄弟仲がよろしいのですね」
レスリー=アンがセルマに話しかけると、彼女はレスリー=アンに視線を向け、少し悲しそうに微笑んだ。
「ええ、ケイン様はヒュー様をとても慕ってらっしゃったわ。離れても、ご兄弟仲良くできることを願っています」
自分も傷ついたはずなのに、レイノール家のことで心を痛めている様子のセルマに、ダイアナとレスリー=アンは励ますように微笑む。
陽も傾いてきていて、そろそろお茶会も終わりにしなければ、とダイアナが口にしようとした時、セルマがレスリー=アンに改まった口調で問いかけた。
「わたくし、学院時代はあまり交流が持てませんでしたけれど、レスリー=アン様とお友だちになりたいと思っていましたの。今からでも、お友だちになってくださいます…?」
レスリー=アンははにかんだ笑顔でセルマに応えた。
「ええ、喜んで。よろしくお願いいたします」
二人の様子を微笑んで見ていたダイアナが、そうだ、とセルマに声をかけた。
怪訝そうな顔でこちらを見たセルマに、ダイアナは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「わたくし、セルマ様は女官にはならないと思いますわ」
「それは…なぜです?」
「ただの予感よ。でも、きっと当たると思いますの」
そう云って上機嫌なダイアナの様子に、セルマとレスリー=アンは顔を見合わせた。
お読みくださり、有難うございました。
あとで、もう一話投稿します。