8.
よろしくお願いいたします。
コンラッドがその夜会に参加することになったのは偶然だった。
長く王城で文官をしていたバートラム伯爵に尋ねたいことがあり、時間をとってもらって訪ねたところ、その夜に堅苦しくない夜会があるから良かったら…と誘われたのだ。
ジョナス・バートラム伯爵は交友関係が広く、いい人脈作りができるかもしれないという思いもあった。
ボールルームの人波の中に、目立つ赤い髪が部屋を出ようとする後ろ姿を見つけ、コンラッドは思わずそのあとを追った。
バートラム伯爵はローウェル侯爵の実弟にあたり、文官をしていた際に上司だった先代のバートラム伯爵に認められ、娘婿になった人物だ。
ローウェル侯爵令嬢からすると叔父にあたるバートラム伯爵の夜会に、彼女が来ていても何も不思議はない。
廊下を歩いていたダイアナの姿が、一つの扉の中に吸い込まれるように消えた。
コンラッドはその扉を見遣り、溜息を吐いて正面の明るい部屋へ足を進めた。
部屋に一歩入り、ぐるりと部屋を見渡す。
大きな絵画が何枚か壁にかけられており、一際大きな絵画の前にいる一組の男女が深刻な様子で話しているのが目に入った。
部屋にはほんの数人いるだけで、扉は開いているものの、夜会の騒めきから一際離れた場所に入り込んでしまったようだ。
「もうやめましょう、ヒュー様」
女性の、静かだがはっきりした言葉が聞こえる。
「わたくし、知っているのです」
そう続ける声は、押さえ気味の声なのによく聞こえた。
周りの話し声が途絶えたからだ。
部屋の中の動きが止まったようになり、全員の神経が会話の主に向けられていた。
無遠慮に向けられる視線はなかったものの、何人かはちらちらと伺うように絵画の前の男女に視線を向けている。
とんだ場面に出くわしてしまったと、コンラッドはすぐに近くのカーテンの影に身体を寄せた。
不穏な空気が漂う中、下手な注意を引くことは避けたかったのだ。
「知っているって、何を……?」
隣の女性を不審そうに見下ろし、静かに返事をした男の見当はついた。
ヒューと呼ばれた男は、レイノール伯爵家の嫡男だろう。
とすると、女性の方は婚約者のドノヴァン子爵令嬢だろうか。
すると、艶やかな赤い髪を美しく結い上げたダイアナが、長いストロベリーブロンドの髪をおろし、顔を俯けた女性を伴って部屋に現れた。
コンラッドが身を隠しているカーテンの脇をすり抜けて、ダイアナは女性を気遣いながら会話している男女に近づく。
「お話中、失礼いたしますわ」
そこでダイアナは言葉を切り、男女の注意が自分に向いたことを確認するように頷いた。
女性の方は冷静に、ダイアナと側の女性に目を向けたのに対し、男性は驚いたように大きく目を見開き、言葉を発しようとして口を開きかけ、そのまま動きが止まっている。
「この方と…本当にこのままでよろしいのですか」
眦を下げたダイアナの視線と言葉は、男性に向けられたものだ。
自分のことを云われた女性はビクリと肩を震わせた。
腕をしっかりとダイアナが掴んでいなければ、今にも逃げ出しそうに見える。
驚いた衝撃は過ぎ去ったのか、男性が突然現れた人物を見る目は辛そうでいて、それでいて熱を孕んでいるもののように見えた。
彼の視線に気がついたのか、ストロベリーブロンドの女性はそれまで俯けていた視線を上げ、絵画の前に並んで立つ男女の姿を見るとその瞳からは涙が溢れた。
「ごめんなさい。ここへ来てはいけなかったのです…ごめんなさい。ごめんなさい…」
「ニーナ……」
そう口にして一歩足を踏み出しかけ、男はハッと気がついたようにセルマを見下ろして口ごもった。
「すまない…」
セルマから視線を外して彼女に背を向けると、非難の言葉を待つように男は目をつむった。
何故ここに彼女がいるのか、おおよその察しがついたのだろう。
部屋の中にいる人々も、これが何かしらの男女の話の縺れだということは見当がついたはずだ。
静まり返った室内は、ことの成り行きに皆の神経が集まっていることが感じられる。
男の背中を見つめてから、肩を震わせて涙を流す女性に目を遣り、セルマは静かに口を開いた。
「貴方は優しすぎるのです。優しすぎてどちらも選べない。でも、それでは誰も幸せにはなりません」
厳しい叱責の言葉が飛んでくると思っていたのだろう。
男は驚いたように目を開き、セルマと視線を合わせた。
「貴族の家に生まれた以上、感情を抜きにして嫁ぐことも仕方がないと判っております。けれど、不幸になると判っていてこのまま進むのは気が進みません」
セルマはそう云って、男の顔をしっかり見上げていた。
今、彼女が口にした言葉は、聞く者が聞けば婚約や結婚の破棄を意味しているようにも思える。
真っ直ぐ自分を見つめてくるセルマの瞳を受け止め、男は彼女の瞳をしばらく見つめていたーーー彼女の真意を確かめるように。
「ーーー私が優柔不断なせいで、君にも辛い思いをさせていたのだな……すまなかった」
漸く彼女から視線を外して項垂れ、男は深いため息を吐いたあとに呟いた。
その言葉に、セルマは一度目をつむって大きく息を吐いた。
目を開けた彼女は視線をダイアナに向け、感謝するように微笑む。
ダイアナも頷き、微笑み返した。
彼女はそのまま男の方を向き、言葉をかけた。
「あとは別の場所でお話しいたしましょう。お部屋を用意させますわ」
男が頷くと、ダイアナはニーナと呼ばれた女性の手を引きつつ、先導するように歩き出した。
後ろに続く男女に聞こえるくらいの音量で話しかける。
「レイノール様、覚悟をお決めなさいませ。バネット男爵家には、ニーナ様お一人しかいらっしゃいませんから、お婿様は歓迎されると思いますわ」
ちょうどダイアナがコンラッドの側を通り抜ける時で、その声は彼にも聞こえていた。
ダイアナの言葉に、俯きがちに歩いていた男とダイアナに手を引かれた女性が、同時に顔を上げて彼女を見つめる。
彼女は前を向いたままだったが、二人の気配を察したのか満足そうに口の端を上げた。
コンラッドはカーテンの陰に身を寄せたまま、一行が部屋を出て、今の騒ぎに気がついていない人々を縫っていく姿を密かに見送った。
シャンデリアの光に輝いている赤い髪が遠ざかっていく。
その後ろ姿がほんの少しだけ立ち止まり、人波の向こうの人物に向かって頷いたのにコンラッドは気がついた。
こちらを向いているその人物が、彼女に向かってグラスを上げている。
では、バートラム伯爵は姪の計画に乗り、舞台を提供したという訳か。
「大したお嬢さんだ」
コンラッドは声を殺してそう呟き、込み上げる笑いを抑えることができなかった。
お読みくださり、有難うございました。