2.
よろしくお願いいたします。
青い筋の入った蝶が、ひらひらと見え隠れしつつ飛んでいく。
ガーデンパーティの会場からあまり離れるのは良くないが、ちょっとだけ……。
そう思って、ダイアナが蝶を目で追いながら歩いていると、ザザッと脇を何かが走って行った。
立ち止まって眼を凝らすと、低い木の上にいる大きな尻尾の茶色い動物と目が合った。
「あら、栗鼠ね!」
ダイアナは目を瞠って声をあげた。
虫は苦手だが動物は好きで、時々内緒で馬を撫でさせてもらいに厩に行くこともあるほどだ。
栗鼠は、ダイアナと目が合った途端に枝から降りてどこかへ行こうと動きだした。
「あ、待って!」
ダイアナは栗鼠を追いかけて走った。
けれど栗鼠は素早く、ダイアナはドレスを着ていて走りにくい。
いつの間にか、彼女は栗鼠を見失ってしまった。
しかも気がつけば、さっきとは周りの様子が違っている。
「あれ…ここは?」
比較的開けていた場所にいたはずなのに、気がつけばダイアナよりもかなり背の高い生垣が続いている。
どこを曲がってみても同じような景色が広がり、暫く歩いてみたが、一体自分が今どこに居るのか判らなくなってきた。
人はおろか、何も動くものもない。
時折、風が生垣を揺らしていくだけだ。
流石にダイアナも心細くなってきた。
あまり帰りが遅いと、自分がいないことに気づかれて騒ぎになるかもしれないーーー
でも、帰り道は判りそうもない……。
ふと顔を上げた向こうから、人が歩いてくるのが見えた。
男の人で、とても背が高い。
こちらに向かって急ぎ足で歩いてくるその人は、ダイアナに気がつくとさらに足早に近づいてきた。
淡い金色の髪が陽の光に反射して輝き、空色の瞳がダイアナを見下ろす。
「ここで何を……いや、今はそれどころではないので、ご協力ください、お嬢さん」
答える隙もなく、ダイアナはその人に手を引かれて生垣の角を曲がる。
手袋越しとはいえ、家族以外の男性に手を握られたことなどないダイアナは顔が真っ赤になった。
本当なら、こんな見も知らない男に、ついて行ってはいけないことはダイアナにも判っていた。
けれど紳士的な彼の態度は、少々強引とはいえ危険でない気がしたし、何やら訳があるようなところに興味が湧いてしまったのだ。
少し先に行ったところをまた曲がり、曲がったところで立ち止まると、男はダイアナの方を向き、片目をつぶって唇に指を当てた。
ダイアナが頷くと、「良い子だ」と呟くような声が聞こえた。
少しすると、人の声がする。
複数の女性の声だった。
「どこに行ってしまわれたのかしら?」
「こちらの方でしたわよね?」
「せっかくお話しできると思いましたのに…」
近づいてきた声は、ダイアナたちのいる方へ来ることはなく、やがてどこか遠くへと離れていった。
声が離れて行っても暫く男は動かず、漸く深い溜息を吐いたあと、ダイアナに笑顔を向けてきた。
「近道をしようと思ったのに、返って時間がかかってしまったな。さて、私が云えることではないが、これからは、見知らぬ男について行ったりしてはいけませんよ、ローウェル侯爵家のお嬢さん」
「!」
前半は独り言のように、だが後半は明らかにダイアナに向けての言葉だった。
ぶわり、とダイアナの頬が赤くなる。
それでは、この男は自分が誰か知っていて声をかけたのか。
しかも常日頃、家族や侍女に注意されていることを、この見知らぬ男にも云われてしまった。
状況を考えれば、仕方がないのだけれどーーー
「おっと、責めている訳ではありません。私にも事情がありましたので、今回のことはお互いに内緒で、ということにしましょう」
そこで男は言葉を切り、ダイアナに向かって微笑みながら片眉を上げた。
ダイアナも釣られて笑顔になり、こくりと頷く。
「申し遅れましたが、私はコンラッド・キャンデールと申します」
目の前の男は、ダイアナにボウ・アンド・スクレープの礼をして見せた。
キャンデールは伯爵位だ。
相手がほんの子どもだとしても、侯爵家の令嬢に礼を尽くした挨拶をしたことになる。
それならば、こちらもしっかり挨拶を返さねばならない。
ディードリックにして見せたように、ダイアナは綺麗に膝を折る。
「お初にお目にかかります。ダイアナ・ローウェルと申します」
ダイアナの淑女の礼に、コンラッドは微かに目を瞠った。
しかしすぐに口元に微笑みを浮かべ、ダイアナに腕を差し出した。
「それでは、ダイアナとお呼びしても?近くまでお送りしましょう。ガーデンパーティの会場はこちらですよ、ダイアナ嬢」
◆◆◆
その夜、寝支度を整えながら、ダイアナは頬を紅潮させて侍女のマーシャに一生懸命話しかけていた。
「本当に素敵だったのよ!本物の王子様よりもずっと王子様みたいだったわ!」
「お嬢さま、言葉にお気をつけください。そりゃあキャンデール家のコンラッド様ですもの。素敵に決まっております。ああ、動かないでくださいまし。ボタンを上まで留めませんと」
今日すでに何度目かのダイアナの言葉にも、マーシャは丁寧に言葉を返した。
鏡の前の椅子に坐って髪を梳かれながら、ダイアナはガーデンパーティで会った妖精みたいな少女を思い浮かべていた。
「ねえ、マーシャ。コンラッド様にはご兄弟はいらっしゃるかしら」
鏡の中の侍女に話しかけると、すぐに答えが返ってきた。
「コンラッド様がご嫡男でいらして、下に弟様と妹様がお一人ずつだったかと思います」
「すごいわ!よく知っているのね」
「有名なお家ですから」
「そう…」
少し間をおいて、ダイアナはもう一度鏡に映るマーシャに話しかけた。
「わたし、今日のガーデンパーティで、コンラッド様の妹の令嬢に会ってお話ししたわ。レスリー=アン・キャンデールって名乗っていたもの」
「まあ、そうでしたか」
「とっても綺麗な子で、銀色みたいな金の髪がふわふわで、丁寧でお淑やかで…どうしたの?」
鏡の中のマーシャが、ダイアナにふふふっと笑いかけた。
「お嬢さまが他のご令嬢をそんなに褒めるなんて、珍しいと思いまして」
「だって従姉妹のバネッサもジョシーも、ガーデンパーティに呼ばれなかったからって、私に散々意地悪なことを云ったのよ。マーシャも聞いていたでしょ。それに、お母さまが連れて行ってくださるお茶会で会う子たちは、「はい」とか「そうですね」しか云わなくてつまらないわ」
「お嬢さま…」
「はーい、言葉には気をつけて、でしょう?」
貴族の令嬢ははっきり自分の意見を云わずに、男性に従うものというのが一般の認識だ。
しかし聡明で好奇心の強いダイアナは、教師に何度そう教えられてもどこか釈然としない。
それに、とダイアナは心の中で付け加えた。
誰もが望む王子様との婚約を、内緒で「面倒」と思うことに同意する同志ですもの。
「お友だちになれると良いですね」
マーシャが鏡の中へ微笑みかけてきた。
ダイアナは、秋には王立学院中等部に入学する予定なのだ。
医学のような特別な学問を習う学校は別にあるが、貴族の子女は、十一歳になると王立学院に通うことになっている。
「そうね。お友だちになりたいわ」
そう振り返ってマーシャに告げ、ダイアナとマーシャは微笑み合った。
お読みくださり、有難うございました。
ダイアナが迷い込んだのは、迷路庭園(Hedge Maze)です。
ただそこまで入り組んだものではない…つもり。
コンラッドは逆側から来て、ダイアナと会ったということです。