561.サルジアのオドゥ
『オドゥ・イグネル』
失われたイグネラーシェ、その最後のひとり。その名前に意味があるとは思わなかった。
今彼が手にする茶器には、極上の初詰みの茶葉を使って淹れた澄んだ煎茶が注がれている。
濃く甘いお茶。故郷でよく飲んだ茶と、そっくりな味が舌になじむ。けれどそれが注がれているのは、土をこねて焼いただけの、粗末な厚ぼったい陶器の器ではなく、薄く硬く焼かれた白い磁器だった。
華やかな花鳥が細い筆で描かれた磁器は、指で縁を弾けばリィンと音が鳴りそうだ。
(これひとつで、一家全員でぜいたくな食事ができるぐらいの器、か……)
「吾は頼りない皇帝だろう?」
卓の向こうに座るサルジア皇帝シュライに呼びかけられ、オドゥは手にしていた茶器から顔をあげた。
「頼りないとは……どうしてそんなことを?」
眼鏡のブリッジに指をかけてあいまいにほほえむと、小さな茶器を口に運ぶ。舌の記憶とは恐ろしいもので、忘れていたはずの家族の団らん、弟や妹の笑い声まで脳裏によみがえる。整った顔立ちをした皇帝は、オドゥより少し年下だといい、穏やかな口調で続ける。
「魔力もさしてない。政のほとんどは官僚たち任せだ。ただ精霊の血族というだけで、この座にいる」
「皇位につく際、反対意見は少なかったと聞いているけど。チョーカーは使わなかったのかい?」
わざと砕けた物言いで、オドゥは慎重に答えた。彼は黒曜殿の扉を開けたときから、皇族たちと同等の待遇を受けている。
けれど皇帝シュライにとっては、長年音信不通だった遠い親戚が、突然あらわれたようなものだ。傀儡に囲まれての生活は快適だが、こうもすんなり受け入れられると逆に警戒心が湧いた。
シュライは黒い瞳をきらめかせて、優雅に片手を持ち上げ、細く長い指で自分の首筋をゆったりとなでた。
「使って……この程度なのさ。エクグラシアの王太子に効果はあったのかい?」
「そうだね。あったと思うよ」
「それはうらやましいな」
(レオポルドのほうがもっと劇的だったけれど)
オドゥは心に浮かんだ言葉は口にしなかった。サルジアにきてから、魔術学園で同級だった友人たちの話をしたことはない。王太子であるユーティリスのことは聞かれれば答えている。というよりもシュライの関心は、エクグラシアの王太子に集中していた。
そのためネリアやグレンのことも、オドゥは口にしないで済んでいた。情報には対価が必要だ。自分が持っているすべてを賭けて、ギャンブルのテーブルについたのだ。切り札は隠して相手の出方をうかがうのは、死んだ父親に仕込まれて身についた習性といえるだろう。
「ユーティリスがやってきたら、自分の目で確かめるといい」
「そうだな。彼からリーエンの話を聞くのは楽しみだ」
たがいに知ることなど何ひとつないのに、まるで旧知の友人みたいに、オドゥはシュライと言葉を交わす。
どこに行っても、すぐその場になじんでしまうのは、彼の特技といってもよかった。それにはちょっとしたコツがある。相手と呼吸を合わせて、息つぎのタイミングや、話すスピードをそろえる。徹底して相手の望む人間になりきることで、彼は自分の居場所を作ってきた。
今もゆったりと茶を飲むシュライに合わせ、オドゥは茶器をふたたび口に運んだ。ノドを伝って落ちる茶の、豊かな風味とは違う苦い想いが彼の心に広がる。
(……何が『最後の希望』だ)
取り戻したい家族の中には、彼の父親も含まれていた。けれど父は自分の死に際して、オドゥだけが生き残ることを望み、そして何もかも連れ去ってしまった。
「オドゥは何も知らぬのか?」
「え?」
聞き返してすぐ、オドゥは自分の失態に舌打ちしたくなった。皇帝を前にして、他のことに気を取られるなど……何もかもさっきから飲んでいる濃く甘い茶のせいだ。皇帝は気にせず、ふたたび彼に聞いてくる。
「リーエンの死について、本当にオドゥは何も知らぬのか?」
「僕はそのとき、まだ見習いだったからねぇ」
サルジア皇太子リーエンは毒殺され、重体となったユーティリス王子のために、錬金術師団長グレンと毒の魔女ヌーメリアが、急ぎ駆りだされたのは知っている。
けれどふたりとも自分の仕事について、軽々しく口にするような人物ではない。
(ヌーメリアも、ああ見えて頑固なんだよなぁ……)
彼女はふだんから、沈黙の鎧で身を守っているような女性だ。あと思いつく情報源といえば第一王子本人だけれど、いくら締め技をかけても吐かせることはできなかった。
(なんか別の意味で鍛えちゃった気もするなぁ……)
ちっさいレオポルドのときもそうだったが、オドゥ自身が途中から楽しくなってくると、つい必要以上にかまってしまう。
「そなたはおもしろいな」
「そう?」
皇帝の意外な評価に聞き返せば、シュライは楽しそうにうなずく。
「吾のそばには傀儡かレクサしかおらぬ。そなたと話をするだけで、異国の風が吹くようだ」
オドゥはいちおう聞いてみた。
「あの、マグナゼとかいう呪術師は?」
シュライの返事もあっさりとしていた。
「あれは飼っているだけだ」
「あっそ」
それ以上、何ともつっこみようがない。人の少ない皇宮で、身内ともいえる者同士のよそよそしさは、部外者であるオドゥにもはっきりわかる。
「なぜ飼っていると思う?」
「ええと……役に立つからかなぁ」
そう言いながらオドゥは、マグナゼの使い道をあれこれと考える。いくつか思いついたところで、皇帝が口を開いた。
「あやつを飼っているのは……死にざまが見たいからだ」
「死にざま?」
聞き返したとたん眼鏡がずれて、オドゥはあわてて指で位置を調整する。音も立てずに茶器を置くと、皇帝は静かに切りだした。
「死霊使い、吾の望みを伝えよう。対価は何でも用意する」
「対価って……いきなりだねぇ」
かなわない望みなどなさそうな男が口にする願い、それを聞いてしまえば、もう後戻りはできない気がする。シュライは薄く笑った。
「吾の望みがかなうことなどないと思っていたが、そなたが現れた」
「上機嫌な理由ってそれ?」
オドゥを『死霊使い』と呼ぶ者が願いを口にする。
「リーエンを復活させたい。〝死者の蘇生〟を吾は望む」
沈黙がしばらく続き、ようやくオドゥは困ったようにほほえんだ。
「……僕はまだ不完全だよ。死霊使いにはなりきれていない」









