557.決断が早すぎる
連休ですね。熱中症に気をつけてお過ごしください。
「〝消失の魔法陣〟をわたしに……」
「グレンはきみの体にこれを刻んでいない。オドゥの目的を考えても使うべきだと……」
「うん」
それきり彼はまた口を閉ざす。エクグラシアの魔力持ちたちは、魔術学園の在学中に〝消失の魔法陣〟を覚える。それは死した後に体を利用されないようにするためだという。
わたしの体にはそれが仕掛けられていない。それを知っているオドゥはずっと、わたしを観察しながらチャンスを狙っていた。
だからローラの提案は納得できるもので、わたしは膝の上で両の拳をギュッとにぎりしめる。
(消失の魔法陣を仕掛けるなんて、自分では考えたこともなかった。グレンの魔石だって見せられたのに)
髪と瞳を黒く変えていても硬質な美貌はそのままで、彼が何を考えているのかもうかがい知らない。けれど今夜彼はそのために私の部屋へきたのだ。
何か言おうと思うのに、胸の奥で何かがつかえたみたいに、うまく言葉がでてこない。エクグラシアの魔力持ちにとっては、あたりまえのこと。イエスというべきだとわかっているのに。
重苦しい空気に包まれた部屋で、先に沈黙を破ったのは彼のほうだった。
「だが私とユーティリスはそれに反対している」
「えっ?」
それはわたしにとっては意外すぎた。
「どうしてレオやユーリまで反対しているの?」
「ユーティリスは〝消失の魔法陣〟により、サルジア皇太子の肉体が解けていくところを目撃している。イヤな記憶がよみがえるのだろう」
「だけど……レオ⁉」
レオの指先から炎が生まれ紙を包むと、描かれた魔法陣は一瞬で灰になる。彼は今夜その魔法陣を、わたしの体に刻むために部屋を訪れたはずなのに。
「どうして……」
「それをきみが問うのか?」
つぶやくように返事をして、彼は黒曜石の瞳をわたしに向けた。真剣なその眼差しはとても厳しくて、わたしは氷漬けにされるような、灼熱の炎に焼かれるような、いたたまれなさを感じる。
「〝消失の魔法陣〟が発動すれば、あとに残るのは凝集した魔素の塊だけだ。だがきみはおそらく魔石すら残さず消えてしまうだろう。何もかも……存在した証すら残さず」
わたしの体……ちっぽけでもろい、それでもわたしがこの世界に持ってこられた唯一のもの。
『生きたいと願え、ネリア』
グレンはそう言ったあとに、こうつけ加えた。
『さもなければ、お前と〝星の魔力〟とのつながりは簡単に切れる』
「わたしの体はただ、〝星の魔力〟とつながっているだけだから……」
無尽蔵に思える莫大な魔力。いくらでも使えるそれは、わたし自身のものではなく、ただつながっているだけなのだ。彼はそれを怒っているし、悲しんでもいる。
「わたしが消えたら悲しいの?」
彼が決して言葉にしない感情を、かわりにわたしが口にする。その厳しい眼差しに隠れた彼の心を探るように、わたしは彼へと手を伸ばした。
「刻んでいいよレオ、わたしに〝消失の魔法陣〟を。紙を燃やしたって、あなたは覚えているんでしょう?」
「…………」
凍りついたように動きを止めた彼のほほを指でなでると、彼の手がわたしの指をとらえる。わたしは彼に向かってほほえんだ。
「思い出は消えないよ、どんなことがあっても。だからだいじょうぶ」
魔法陣だらけのわたしの体に、もうひとつ刻まれる魔法陣が増えたってどうってことない。ユーリやレオが反対していても、ローラの言うことのほうが正しいのだろう。
「嫌だ」
かみしめるように口にする、彼のひと言が重い。魔術師団長として判断するなら、ここでわたしの体に魔法陣を刻むべきなのに。
「レオ……レオポルド」
ひさしぶりに彼の名をきちんと呼ぶ。ぴくりと身を震わせた彼の瞳を、わたしはのぞきこんだ。
「魔術師団長として、あなたはどう判断するの。決断できないあなたのかわりに、ローラが言ってくれたんじゃないの?」
彼の顔が苦しげにゆがんだ。
「きみは……どうあっても私に魔法陣を刻めと言うのか」
「あなたが描く魔法陣はとてもきれいだもの」
彼が軽く目を見開いて、その瞬間でさえ長いまつ毛に縁どられた瞳がきれいだと、わたしはそんなことを考えてしまう。
「レオポルド……わたしだって、あなたが魔石になることなんて考えたくもないし、それを思うだけで胸がギュッとして、苦しくて切なくなるんだよ。それと同じだよ」
言うが早いか彼の手から指を引っこ抜き、わたしは自分の服に手をかけ、ひとつひとつボタンを外す。
「さっさと済ませちゃおうよ。万が一のことを考えて魔法陣を刻むだけでしょ。もしもやりたくないならローラに頼……」
わたしは全部言い終えることができなかった。彼がわたしを抱きしめて怒ったようにつぶやく。
「きみは自分を大事にしなさすぎる」
「そんなことな……」
もがもがと声をだして抗議しようとすれば、ますます強く抱きしめられて身動きが取れない。というかこれ、抱きしめるというより拘束⁉
「しかも自分から服を脱ぎだすとは、いったい何を考えている!」
「へ……」
怒るとこそこなの⁉
わたしの手を払いのけるようにして、彼は外した服のボタンを下から順にきちんと留めていく。
「あの、ちょっと……レオポルド⁉」
きっちりいちばん上まで留めた後、彼は大きく息を吐くとそっぽを向いて両手で顔を覆い、ぐったりとソファーに沈みこんだ。
「きみは男の忍耐力を試す気か……」
エクグラシア最強どころか世界最強とも言われる魔術師の(今は竜騎士のフリをしているけれど)、打ちひしがれたようなその姿に、なんだか悪いことをした気分になった。












