549.ローラと魔羊
ハルモニア号の看板は避難したひとびとがひしめきあっていた。
上空のライガから閃光魔法が放たれ、船員たちがうまく誘導して場所を空けると、そこへライガが滑るように着艦する。
空を飛ぶ人造の乗りものに、ライガを知らないバハムートの住人からどよめきがあがる。
黒髪の竜騎士がライガから降りると、赤い髪に戻したユーティリス王太子が走ってきた。
「レオ、きみはライガを扱えたのか……」
ひとさし指を一本薄い唇にあて、竜騎士は王太子を黙らせた。ライガの詳細はまだだれにも知られないほうがいい。
エクグラシアにはドラゴン以外に空を飛ぶ手段がある。
ただそれだけの情報が、いずれ大きな影響力を持つ。
ユーティリスはすぐに察して口をつぐんだけれど、少し悔しそうに言葉を漏らした。
「僕よりも運転がうまい」
レオは右の眉を上げた。
「駆動系に魔素を流すときにコツがある。最初は術式全体に魔素をめぐらせるよう、高出力で一気にたたきこむ。そのあと飛行を維持するためにバランスをとる」
王太子はハッとしたように目を見開いて、少しためらってから情けなさそうに眉をさげた。
「あとで……教えてほしい」
「ああ」
うなずいたレオに、王太子はため息をつく。
「いまさらだけど僕はオドゥにとても助けられていた。研究室にズカズカ入ってくるところはムカついたけど、ずっと彼は僕を気にかけてくれていた」
わずらわしいとさえ感じていた少し年上の先輩。けれどいなくなったときに湧き上がった喪失感は、思ったよりも大きかった。しばらく生活をともにしたあとだけに、なおさらそう感じる。
「オドゥは人の心に入りこむのがうまい。けれど自分の心はだれにも渡さない」
淡々と返事をした竜騎士は、ユーティリスに抱えていた娘をひょいっと渡した。
「彼女を頼む」
ユーティリスは渡された体の冷たさに驚いた。いくら上空にいたとはいえ、眠る彼女からは人の体温がちっとも感じられない。
「冷たい……」
黒髪の竜騎士は遮音障壁を展開した。
「気絶ではなく仮死状態だ。三重防壁も消え、まったくの無防備だ。ピアスの魔法陣が働いて、かろうじて彼女の身を守っている。これがどんなに危険な状況かわかるか?」
淡々と顔色ひとつ変えずに告げられた内容に、ユーティリスの顔はサッと緊張でこわばった。
「魔力ポーションは……」
「飲ませた。だが彼女は自力で魔力の回復ができないうえ、内部ではグレンがしかけた魔法陣がつねに働いている。それを維持する魔素まで失うとこうなる」
王太子は腕に抱えた娘を、赤い瞳で心配そうに見下ろした。
「彼女の魔力は膨大で、無尽蔵に近いと思ってました」
「ふつうの生活をするには問題ない。錬金術の仕事にも支障はないだろう。だが……彼女はどこまでが自分の限界かもよくわかっていない。それに今回のような非常時には、ためらいなく自分の力を使おうとするだろう」
「……わかりました。僕も気をつけます」
「敬語。口調が戻っている」
クッと口の端を持ち上げた五歳年上の男に、ユーティリスはふてくされたように唇をとがらせた。
「ややこしいんですよ。まったく……でもあなたがいてくれて本当に心強いです。ありがとう」
「私はローラと合流する」
遮音障壁が消えたときにはすでに、竜騎士の姿はその場になかった。
「ローラ!」
「ようやくのおでましかい、遅すぎるんだよ!」
転移してきた竜騎士の呼びかけに、魔羊にまたがっていたローラは、がなるように叫び返して眉をひそめた。
「エンツもないのに、よくあたしのところに転移できたね」
「相手のことを強く念じれば跳べるんですよ」
緊迫した状況でも涼しい顔で応じる生意気な愛弟子に、彼女は舌打ちして毒づく。
「チッ、婚約者じこみかい。無茶な魔力の使いかたを散々注意してきたのに、ますますひどくなった」
「師匠もメニアラにいるときよりずっと楽しそうです。ずいぶん野生的な使い魔ですね」
ローラが乗っている魔羊をちらりと見て、フッと笑う男に白髪の魔女は鼻を鳴らす。
「しかたないだろう。魔羊の群れを動かすなら、ボスを使い魔にするのがいちばん早い」
「いい判断です」
「よくないよっ!あたしに群れごと魔羊のめんどうを見させる気かいっ!」
「師匠には造作もないかと。つぶらな黒い瞳がかわいいではありませんか」
魔羊は脚力も強靭で岩場も平気で駆け抜け、長い毛でどんな気候にも対応できるが、群れで行動するため使い魔には向かない。
群れから引き離すと弱って死んでしまうのだ。
だいたいローラだって今朝までは、魔羊を使い魔にする気なんてサラサラなかった。
「あんたねぇっ!」
ブチ切れたローラの火弾を、竜騎士は真顔でさらっとよけた。
「錬金術師団がここに錬金術師を派遣するなら、魔術師団もひとり人員を置くべきかと。幸い師匠は身寄りもなく独身ですし」
「あんたはひと言よけいなんだよっ!」
「私はいつも『無口すぎる』と注意されておりましたが……」
「天使のような美少年が、口を開けばこんなに辛辣だなんて思わないだろ!」
ローラだって愛弟子の考えていることがわからないわけではない。だから魔羊牧場に跳び、さっさとボスを使い魔にすると、群れを率いてデルモスの花畑を蹂躙した。
けれど魔羊の群れを連れてはハルモニア号に乗船できない。ローラはここで使節団から離脱することになる。
「ここからどうするつもりだい。バハムートの崩壊は止められない。いくら魔石が巨大でも魔術で支えるのは無理だ」
「バハムートの未来を支える魔石をみすみす海に沈めるわけにはいきません。ローラ、補助をお願いします」
つぎつぎと術式が展開して魔法陣が構築するスピードは、並の魔術師にはまねできない。
まるで花が咲くように魔法陣がパッと開くと、魔素が術式の線を光らせて魔石のまわりが白く輝いた。
とたんに押し寄せる冷気に、ローラだけでなく魔羊たちも毛を逆立て、ぶるっと身を震わせる。
海からたくさんの氷柱が立ちあがり、赤く輝く魔石を覆うと包みこんでいく。
鳥籠のように魔石を覆った氷柱は、今度は水平に海面を凍らせて、ハルモニア号に向かって進んでいく。
黒髪の竜騎士はただ魔石を覆って氷の塊を作りだしただけでなく、造形魔術を加えて、波止場や砦なと港の設備といった構造物まで作りだしている。
「あんた……」
補助をしながらローラが目をみはっていると、竜騎士は無表情に答えた。
「氷は海水に浮きますから。魔素が循環する限り、永遠に溶けない氷がバハムートの魔石を守ります」
「それも婚約者じこみかい」
明らかに今までとは違う魔力任せではない力の使いかたに、ローラが確認すると彼は素直にうなずいた。
「そうですね」
そのとき竜騎士の胸元にある収納ポケットから、ひょこっと小さな人形が顔をだし、よいしょよいしょと魔力ポーションの小瓶を引っ張りだした。
「レオポルド、そろそろ飲んどいたほうがいいよ。言っとくけどもう三本目だからね。これ飲んだら最後だからね」
「私はいい」
そっけなく断られて、むうっとほっぺたをふくらました人形の造形は、どう見ても彼の婚約者と同じ姿で……。
小瓶を抱きしめるようにしていたミニネリアは、目を丸くしているローラに気づくとニコニコして手を振った。
「じゃあ、おばさんが飲む?」
「おば……」
滅びの魔女ローラ。塔でもバリバリの戦闘派魔術師として知られ、数々の逸話を残す大魔女。長い白髪をキリリと束ねた姿は貫禄がありつつも美しく、そんな彼女が『おばさん』と呼ばれたのはこれがはじめてだった。












