536.港の市場
バハムートのひとたちでにぎわっていた市場の屋台は、持ってきたハンドクリームがはけたタイミングでいったん閉めた。
休憩しているヌーメリアとローラに、ジャックラスネックレスを売った女性が話しかけてくる。
「ねぇ、ヌーメリアさんの髪飾り、ちょっと見せて」
「これですか?」
ヌーメリアの髪飾りは、ヴェリガンから贈られたアミュレットで、赤い実を運ぶかわいらしい二羽の小鳥が彫ってある。彼女は髪飾りがよく見えるように、少しかがんで後ろを向いた。
「ステキな模様が彫ってあるのね」
「夫から贈られたもので……寄り添う小鳥は〝相愛〟、実は〝豊穣〟をあらわすそうです」
彼女の声が『夫』のところで震えそうになる。慣れてないものはしょうがないのだ。
「細かい模様がよく見えないわ。外してもらってもいい?」
「え、ええ……どうぞ」
無邪気に差しだされた女性の手に、ヌーメリアが髪飾りを外して載せたとたん、市場で騒ぎが起こった。
突然あらわれた赤いローブの集団に、住人たちの悲鳴があがる。
「サルジアの呪術師だ!」
「子どもたちは中へ!」
「いやあぁっ!」
おびえた女性がアミュレットを握りしめて走りだし、ヌーメリアは胸に下げた毒のペンダントに指を伸ばす。ローラがすっと前にでた。
「おや、ようやくのおでましかい」
エクグラシアでは見かけない、赤いローブを着た一団……ヌーメリアはそのうちのひとりに見覚えがあった。
「あなた……マグナス・ギブス!」
緩くカールした黒髪に精悍な顔だちで、貴族らしい気品や威圧だけでなく、粗野な荒々しさも兼ね備えた男。リコリスの領主館から、ヌーメリアの敷いた捕縛陣を解いて逃げだしたままだった。
「光栄だな、ヌーメリア嬢。私のことを覚えていただいたとは。しばらく会わないうちに、より美しくなられた。そうそう、あの少年は元気ですか?」
どこかふてぶてしい態度で、優雅に一礼する赤いローブの男を、毒のペンダントを握りしめたままでヌーメリアはにらみつける。
耳障りのいい低い声なのに、この男がしゃべる言葉はなぜか、彼女の心をザワリとさせる。なにか引っかかるトゲのようなものを、全体に散りばめたようだ。
(〝言霊〟を扱う呪術師……エクグラシアにはない魔術……危険だわ)
「あなたには関係ないでしょう」
きつい声で突っぱねると、男は口元をほころばせた。
「今日はごあいさつに参上しただけですよ。使節団と交流を深めたくてね」
滅びの魔女ローラが、指先で魔法陣を紡ぎながら男をねめつける。
「サルジアから来た……というわけでもなさそうだ。ハルモニア号に紛れこんだのかい?」
「さぁて。私には貿易商の肩書きもありますのでね。ヌーメリア嬢のお役に立てるかと思ったのですが」
「あなたに用はありません。それにもう令嬢でもないわ」
男が黒い瞳を光らせた。
「あなたが持っている毒の知識、扱う技術はサルジアでこそ輝く。報酬だけでなく家も男も……望むだけの待遇を用意しよう」
「なっ……」
ヌーメリアのほほに血がのぼる。優しい言葉や紳士的な態度の裏で、マグナゼは彼女にドブネズミと呼ばれていたときの姿を、容赦なく思いださせる。
姉夫婦からなんと聞かされていたかは想像がつく。孤独にあえいでいた彼女は、男の目にはどう映っただろう。
リコリスの家でアレクと出会っていなかったら、彼女はマグナゼの申し出に、居場所を見つけたと感じたかもしれない。
ヌーメリアは〝毒の魔女〟と呼ばれる自分が嫌いだった。けれどもその称号は彼女を守るためにずっと必要だった。
(ネリアに認められて……新たな未来を見つけようと思ったから……)
生まれ変わらなくても、べつの自分にならなくても、そのままで幸せになれる。
『錬金術を使うときは、だれを幸せにするかを考えて』
ネリアの言葉が〝毒の魔女〟ヌーメリアに、錬金術師として生きていくことを決意させた。ただの逃げ場所だった研究棟が、心地いい住まいになり、パートナーとの出会いの場になった。
(ヴェリガン……)
彼女の夫となった男は、最初とくに彼女の印象に残らなかった。いつもオドオドとしてうつむいて、言いつけられた仕事だけすると、あとは自分の研究室で植物に囲まれてゴロゴロしていたから。
彼の印象が変わったのは、アレクが研究棟にやってきてからだ。ソラがいる居住区での暮らしは快適だったけれど、子どもが過ごすには物足りない。退屈するとアレクはよく、ヴェリガンの研究室に入り浸るようになった。
なぜかヌーメリアも、彼のところなら安心だと思えた。故郷でつらい生活をしていたアレクが、大人の男性とふたりで過ごすことに怯えるようすもない。
そして彼女が訪ねていくと、ヴェリガンは〝緑の魔女〟から受け継いだ秘伝のレシピを、どもりながら一生懸命教えてくれる。
(私は彼を利用しようとしただけなのに……)
いつだって彼女といるとモジモジして、下を向いてゴニョゴニョとしゃべり目も合わせない。
『ヴェリガンはすごいんだよ!』
アレクがほめるのを聞いてようやく、ヌーメリアは彼の魅力に気づかされた。
ヌーメリアはあらためて目の前にいる呪術師を見つめた。
残忍さをうまく隠して堂々としたマグナゼと、ひょろりとして気弱なヴェリガン……女性ならば皆、最初は自信に満ちあふれたマグナゼに目が行くだろう。
けれど残忍で狡猾……そうハッキリと顔に書いてあった。わざと笑ってみせる目には、冷酷な光をたたえている。
「あなたが私に用があるなんて……たとえば傀儡の毒をさらに強化したい、とかそういうことかしら?」
マグナゼは驚いたように目を見開いて、うれしそうにうなずく。
「よくおわかりだ。もちろんそれだけではない」
「ほかにもあるの?」
ヌーメリアが意外に思うほど、男は真剣な表情だった。
「あなたに聞きたかった。新しい師団長……あれは何者だ?」
ネリア・ネリス……ヌーメリアにとってはよき上司であり、かわいらしい年下の女性であり、恋の相談相手でもある。
(ネリアが何者かなんて私も知らない……知ろうともしなかった)
「質問の意味がわからないわ」
「あの女は私に魔法陣をかけた。だが使われた術が何かわからない。どうやって解くか知りたい」
ギラギラした目は切羽つまっており、マグナゼにも余裕がないことをうかがわせる。
「私じゃなくてネリアに聞いたら?」
ヌーメリアにも答えようがなかった。夏の事件についてはユーリからも説明されたけれど、ネリアがしたことは未だにさっぱりわからない。マグナゼは憎々しげに顔をゆがめる。
「術だけではない。あの女が持つ魔力の性質は……」
そのときエンツでネリアの声が降ってきた。
「ヌーメリア!ローラ!魔羊牧場で呪術師と傀儡たちに襲撃されたの。そっちはだいじょうぶ?」
「マグナゼがあらわれましたが、だいじょうぶです。そちらは無事ですか?」
「わたしたちは無事!今レオとユーリで後始末をしてる」
チッとマグナゼが舌打ちをした。
「傀儡どもめ……足止めすらできぬとは」
彼が腕をひらめかせて魔法陣を発動させると、離れたところで悲鳴があがる。
「きゃああぁ!」
見るとアミュレットを手にした女性が、〝奈落の陣〟に吸いこまれていく。
「は⁉」
当のマグナゼがぼうぜんとして、ヌーメリアを振りかえった。
「あのアミュレットは?」
ハッとしてヌーメリアも灰色の髪に手をやったが、アミュレットは女性とともに地面に吸いこまれた。ローラがあきれたように口を挟む。
「ヌーメリア、モノを媒介にした呪術だ。あんたを狙ったようだね」
それを聞かされて、灰色の魔女は顔色が変わった。
「私のだいじなものを利用するなんて!」
「そっ、それが呪術だ。想いがこもったものほど力を持つ!」
吐き捨てたものの呪術師は、さすがに分が悪いと思ったのか、転移陣を展開して逃げようとする。
「彼女とアミュレットを返しなさい!」
ヌーメリアは叫んで呪術師に飛びかかった。転移陣が赤く光り、彼女と呪術師の姿はローラの前から消えた。
「ヌーメリア!」












