529.月と星だけが見ていた
わたしはぼんやりとレオポルドにもたれかかって、どこまでも続く雲海を眺めた。ふたつの月の光を反射した雲は明るくてモコモコとしており、端は銀色に輝いている。
見上げれば漆黒の宇宙には無数の星がまたたき、ふたつの月がゆっくりと天球を渡っていく。
「雲の上って……晴れているから、月が照らすとこんなに眩しいんだね」
冷えてかさついた唇からは、しゃべるたびに息の欠片が、白いモヤとなって視界をさえぎる。
「デーダス荒野を飛ぶのとあまり変わらないな」
「そうかなぁ」
あの寒々しい光景とは、まったく違うような気がするけど。
ふたりそろって話をするだけで、煙を噴きあげているみたい。どのぐらい上空かは知らないけれど、アルバの呪文がなければきっと、ふたりともカチコチに凍ってる。
「ふふふっ」
「どうした」
「煙みたいだなって。吐く息が」
肩を揺らして説明するそばから、モワモワと立ちのぼるモヤを、すぐに風がさらっていく。
しばらく吐息を眺めるだけで楽しんで黙っていたら、後ろに座るレオポルドがため息をついて、ポツリと聞く。
「驚いたか?」
「何が?」
「今夜のことだ。この世界はきみにとって、美しいものではないかもしれない。人は生き延びるために知恵を絞るが、同時に他者を蹴落とすために、悪知恵を働かせることもある」
「……それぐらいじゃ、驚かないよ」
わたしは操縦するレオポルドに、ぐっと強く背中を押しつけて、顔を持ちあげのけぞるように、下から彼の顔をのぞきこむ。
「グレンはわたしに、この世界は美しいと教えてくれたよ。少なくとも彼にとっては、世界はとても美しいものに見えていた」
レオポルドは納得できないように、眉をひそめる。
「人との関わりを断とうとしたのにか?」
「傍観者だったの、ずっと。彼は人の世界に馴染めず、それでもだれかのために何かを作っていた。彼がようやく自分の人生を生きられたのは、レイメリアさんやレオポルドがいたからだと思う」
「……きみはアイツのことを信じすぎだ。ただの老いぼれ錬金術師、最後まで研究のことしか頭になかった狂人だ」
それだけ吐き捨てるように言うと、こんどはレオポルドが黙ってしまった。
……うん、知ってる。
でも狂っていたわけじゃない。彼に冷静な判断力はあった。
グレンはわたしの状況を知ったうえで、生きられるようにあらゆる手立てを考えてくれたけれど。
元の世界に……元の生活に戻る可能性について、決して口にすることはなかった。
わたしが泣いてもわめいても、データとして心拍数や脈拍、呼吸の頻度を測定するだけで、ただ観察していた。
どこまでも冷静で感情が欠落したようなミストグレーの瞳は、とてもまっすぐにわたしや世界のありのままを見ていて。
時にはそれが主観的な判断や思いこみより、とても頼りになったのは事実だけど。
デーダスでの孤独さを埋めてくれはしなかった。
彼はわたしにふたつの月があるこの世界は、どこまでも美しいと教えた一方で、残酷な現実も包み隠さず、ただの情報としてすべて伝えた。
偏屈でガンコで、お茶の淹れかたすら知らないおじいちゃん。
それなのにあっちの世界の話を、好奇心に目を輝かせて聞きたがった。
思い出を語るたびに、わたしがどんな気持ちになるか、気づきもしないで。
とても純粋で、夢中になるものがあれば、時を忘れ没頭する。博識で世界の理や錬金術の知識を、惜しみなくわたしやオドゥに与えた。
……でも。
彼の最後に残された命の炎を、奪ったのはわたし。
それはレオポルドを言霊で縛ったときと、あまり変わらない。
わたしは物思いを振り切って、銀色に輝く雲海に映るライガの影が、よく見えるように身を乗りだした。
「急に動くな」
レオポルドが少し慌てたようにバランスをとる。
「やっぱりぜんぜん違うよ、デーダスとは。どっちかっていうと海の上?」
「それはまちがいない」
「そうだったね!」
はしゃいだ声を上げた瞬間、ふとひらめいたものがあった。
「海……そういえばバハムートの本体って海中だよね?」
「そうなるな。人々はバハムートの甲羅の上、堆積物や貝殻がこびりついてできた岩礁に都市を築いている」
「浮いているってことは体積による浮力が、要塞都市を含めた総重量を上回っているってことだよね」
「浮力?」
「あの規模の設備、人口や魔羊の飼育を考えても、水上にでているのは氷山の一角。海中の本体は、とてつもない大きさなんじゃないかしら」
氷が水に浮くのは、結晶を作るときに体積が増えるからだ。
「カナイニラウの人魚たちは、海中に棲む水中バクテリアの発光器官を、魔素で光らせて水中に魔法陣を描くの。波がさらえば一瞬で消えてしまうだけど、バハムートが浮かぶこの海流でも、あの魔法陣を使うことができたら!」
「何か思いついたのか?」
「ちょっとだけね」
「…………」
まだ仮説にすぎない。それでもグストーの度肝を抜くことはまちがいない。
「船に戻ったら、検証してみるよ」
今夜はもう遅いから、明日にしよう。わたしが満足してレオポルドにもたれかかると、彼が不満そうにぼそりとつぶやく。
「寒い」
「え、アルバの呪文があるのに」
「きみの温もりが足りてない」
「…………」
すっぽりと腕に収まっているのに、彼はそんなことを言って。その瞳を見たらそれ以上言葉を交わさなくても、何をするのかは伝わった。
ライガは滑るように月光に照らされた雲海の上を飛んでいく。雲海に落ちるライガの影とふたつの人影。それがひとつに重なった。
どのくらいそうしていたろう。互いの身を離すとき、少しだけ唇が相手のそれに引っ張られた。
なんとなく名残惜しくて、温もりの残る下唇をなめると、彼も髪をかきあげて悩ましげに吐息をもらす。
「いつもより熱がこもるのは、歓迎会で妬いたせいか?」
「だまって」
手を伸ばして、さっきまでわたしにふれていた、薄い唇をそっと……左から右へ孤を描くように、ゆっくりと指でなぞる。硬質な美貌でも指先にあたる感覚は柔らかくて、彼の瞳がまたわたしを見つめ返した。
「わたしも足りてないみたい」
自然に伸びをして、わたしのほうから唇を重ねていた。しばらくして彼のほうから身を引き、とまどうように問いかけてくる。
「……黒髪のほうが好みか?」
「そんなんじゃなくて。わたしが黒髪だったから親近感があるだけ。レオポルドがどんな姿でも、わたしは気にしないよ」
そういうと彼の大きな手が、わたしのほほに添えられた。するりと顔の輪郭をなぞるように動いた指が、あごにかかった。
「私も気にしない。きみがどんな姿でも」
その瞳に宿る真摯な光に、わたしは胸を突かれた。彼はわたしの中に奈々を探している。
「レオポルド……」
「きみはちゃんとここにいる。ナナ……どんな姿であろうとも。私はきみの名を呼ぶ。きみが望むなら何度でも」
「うん、わかってる」
やっぱりここはもう、孤独をかみしめたデーダス荒野じゃない。
ぬくもりを求めて彼に手を伸ばせば、雲海に落ちるふたつの人影が、またひとつに重なった。
ネリアの口づけを受け止めながら、レオポルドはライガが墜落しないか、気が気じゃなかったそうです。












