470.転移
「怒ってねぇよ!」
リョーヘイはブスっとしたまま返事をすると、グシャグシャと自分の髪をかき乱した。
「顔がニヤけないようにしようとすると、歯を食いしばる必要があるんだよ!」
「何それ。楽しんだもんがちなんだし、いっぱい笑ったほうがいいよ」
速度をあげて走るジェットコースターから轟音と嬌声が聞こえる。ミカたちはテーマパークの奥にある、タイルで作られた幾何学模様が美しいエリアに向かって行った。
(鉢合わせしたくないから、わたしたちは海側に向かったんだっけ……)
先に立って歩きだせばリョーヘイも黙ってついてくる。受験しても東京の大学に合格するかはわからない。タイチは地元の国立大を狙っていた。
(リョーヘイはどうするんだろう……)
受験の話は気楽なようでデリケートな話題だ。ピリピリしている子はすごくピリピリしているし、この夢みたいな場所で、そんな話もしたくない。
――それにわたしは結局、受験なんてしなかったし……。
「うわぁ、すごい!」
演出なのかオイルのようなにおいがする、ひんやりした通路を抜けて視界がひらけると、入り江には船が浮かんでいた。
建物には明かりが灯りはじめ、茜色から美しい紫へのグラデーションがかかる空を、飛行機のナビゲーションライトが点になって進んでいく。水平線の向こうは都会の空らしい淡い紫に染まっていた。
「わたし大好き……この黄昏色をした空。ここで見られるなんて最高!」
「お前さぁ、こんな場所で『大好き』とかいうなよ。勘ちがいすんだろ」
笑顔でふりかえるとリョーヘイは怒ったようにボソボソ言う。わたしは思いっきり叫んだ。
「勘ちがい……してもいいよ!」
「え……」
べつにミカに影響されたわけじゃないけれど、そのときのわたしはいい気分だったのだ。理科室でリョーヘイとケンカしたことなんて、すっかり忘れるぐらいには。
彼は目を丸くして、それから困ったようにあたりを見回して、怒ってるような顔でぶっきらぼうにいう。
「だったら……手ぐらいつなごうぜ」
「……うん」
わたしが手を伸ばせば、彼の手はおそるおそる伸びてきて、それからわたしの指にきゅっと絡みついた。
「……ていうか手に汗かいてない?」
「俺がさっきのひとこというのに、どれだけ緊張したと思って……」
リョーヘイの抗議がじわじわと、実感となって押し寄せる。こんなのはじめてだ。
でも意識する前は……そう、小学校に入学したばかりの遠足とかで、手をつないだような気もする。リョーヘイはボソッとつぶやいた。
「お前、ちっこいけど……やっぱ手もちっこいのな」
「そっちがおっきすぎるの!」
ちっちゃかった男の子は、今ではすっかりわたしの背を追い越して、もう絶対に追いつけない。
「兄貴より背が高いかも」
笑顔で彼の横顔を見あげれば、チラッとわたしを見おろしてまたそっぽを向いた。
「ここで兄貴だすのかよ。ぜんぜんムードでねぇ」
「そんなことない……そんなことないよ。ちゃんとドキドキしたし、うれしかったよ?」
「過去形かよ!」
憎まれ口がいつものリョーヘイらしいのに、つないだ手は汗ばんでいて。わたしはうれしくなって、その横顔に話しかける。
「また来たいね。でもまずは受験がんばらなきゃ!」
「……死ぬ気でがんばる」
「やだ、死なないでよ!」
リョーヘイがつないだ手にグッと力をこめた。
「あのさ……もしふたりとも大学受かったら、そのときは」
「うん?」
けれど彼は首をひねって、言いにくそうに口をゆがめた。
「あーいや、合格したら言うわ。だから覚悟しとけ!」
「なぁに、その果たし状みたいな言いかた」
「うっせ、俺の限界なの。いまアタマ沸騰しそうになってんだから!」
「ねぇ、帰りたくないなぁ」
わたしにホテルの窓から手を振る観光客の人影が見えた。イタズラっぽく言えばリョーヘイも視線の先を追い、すぐに頭をぶんぶんと振る。
「バカヤロ、タイチたちと合流したら夜行バスで帰るかんな。そんな金もねぇし」
怒ったようにいうリョーヘイに、トン……と肩でぶつかった。
「いまさぁ、ちょっとだけ考えたでしょ?」
「行くぞ、欲しいみやげがあるって言ってたろ?店が混み合う前に行くぞ!」
急に急ぎ足で歩きはじめたアイツに、わたしはあわててついていく。
「あっ、わたしもバイト先におみやげ買わなきゃ!」
速い歩調に小走りになると、しっかり手は繋いだままで、彼は歩くスピードを緩めてくれた。そしてボソボソと乱暴な口調でいう。
「俺、お前の喜ぶ顔が見たかっただけだから、それでじゅうぶんなんだよ。これいじょう俺を欲張らせんな」
「はーい」
一緒にこの景色が見られただけで、うれしくて楽しくて幸せな気持ちで。
手をつないで見あげた空はきれいな黄昏色で、やっぱりそれはわたしのいちばん大好きな色だった。
――もっと。もっと話したかった。横顔でいいから見ていたかった。黄昏色の瞳はなぜかいつも、あの日と同じく心をザワつかせた……。
帰りの夜行バスはミカが横に座って……わたしはブランケットにくるまって眠っていた。タイチとリョーヘイは前の席で。
意識を取り戻したとき、自分がどこにいるかわからなかった。
(あれ……みんなは?)
身動きしようにも体がびくともしない。たしかバスの座席に座っていたはずなのに。むせ返るような鉄臭さとガソリンの臭い、そして血の香りがした。
遠くからわたしを呼ぶ声が反響する。
「奈々ぁっ、奈々ぁああ!」
「危ないっ、きみっ、離れなさいっ!」
(リョーヘイ……?)
返事をしようとして、声をだせないことに気づく。こんどはミカの声がした。
「お願い、奈々がまだ中にいるの。脚を挟まれてて、私では動かせなくてっ!」
「きみも怪我をしてるだろう!」
(……どうなって?)
複数のザワザワした声が遠くで響く。体に当たる布の手触りはたぶんバスの座席なのに。
「やだあぁ、離してよぉっ!タイチお願い、奈々を!」
――わたしはだいじょうぶだから。
「ダメだ、ここから早く離れろっ。ガソリンに引火する!」
「待って!奈々ぁっ!奈々あぁっ!」
「早く、少しでも遠くに!」
「急げ……火がっ!」
――わたしはだいじょうぶだから。
――だからみんな早く逃げて。
痛いはずなのに何も感じないのは、記憶の残像だからだろうか。ぼんやりとただ目に映るものを焼きつけた。
バスの通路の床には散らばった荷物、リュックにはリョーヘイと買ったばかりの、キーホルダーが揺れている。クリスタルがついたおそろいの……。
――旅行、楽しみにしてたのにな。
真っ暗な中で光るキーホルダーを見つめた。次の瞬間、わたしは炎と衝撃に包まれ、熱い……と思うヒマもなかった。
――そして、わたしだけ異世界に。
だれかの手が優しく頭をなでる。視界が涙でにじみ、それがだれの手かもよくわからない。穏やかな声が上から聞こえる。
「だいじょうぶ?」
「生きてた……」
「ん?」
わたしはポロポロと涙をこぼしながら、体を痙攣させるようにしてしゃくりあげた。
「リョーヘイもミカもタイチも……生きてた。助かったんだ……あの事故から逃げだしてた!」
思いだすのも怖くて考えないようにしていた。楽しみにしていた旅行、誘ったのも後ろめたくて。
「よかった……みんな無事で……」
「自分のことより友だちの心配?」。
「だってずっと気にかかっていたから……あの事故でみんなは死んでしまったんじゃないかって」
あきれたような声には聞き覚えがある。泣いているわたしの頭をなでながら、優しくたずねられた。
「きみの名前は?」
「松瀬……」
「マッセ?」
奈々、と答えようとして。聞き返してくるイントネーションに引っかかりを感じた。
(さっき、わたし何て考えた?)
ようやく意識がハッキリと覚醒する。わたしは手術台のような簡素なベッドに寝かされていた。
視線だけで部屋を見回すと、周囲の壁には素材がぎっしりと詰まれた棚と、ビン詰めの標本がならぶ。目の焦点がこげ茶の髪をした男の顔に合わさった。
「オドゥ・イグネル……」
オドゥは眼鏡のブリッジに手をかけ、深緑の瞳を穏やかに細めた。
奈々にも動きがあるようです。












