453.ドラゴンとスピネラの刺繍
港町タクラでは一夜明けても、工房に戻ってこないネリアに、ニーナが心配そうに顔を曇らせる。
「エンツにも反応がないの」
座った椅子をギシリときしませて、オドゥは気だるそうに伸びをした。
「魔導列車から飛びだしてきたし、弾いているだけじゃないかな。リリエラといっしょなんだろ。レオポルドが到着すれば、姿を見せるさ」
「そうよね……婚約したばかりなのだし。それにあのピアスをつけているんだもの」
紫陽石に刻まれたピアスからは、確かにレオポルドの魔力が感じられた。彼女の身が危険になれば、魔術師団長が察知するだろう。ユーリが残念そうに、オドゥの工房を見回す。
「潜伏生活も終わりかぁ。僕はニーナとホテル・タクラに向かい、テルジオと合流します。ミーナとアイリはここで工房の準備をするとして、オドゥはどうするんです?」
「僕は『杖作りに協力する』とネリアに約束したからね。サルジアに行くことになるんじゃないかな」
「なら、僕らといっしょに行きます?」
オドゥは眼鏡のブリッジを押さえて、あいまいに笑った。
「僕は後から合流するよ。ちょっとね……やることがあるんだ」
「じゃあ、朝食を食べたら解散かしら?」
手際よくテーブルセッティングをするミーナは、やはりセンスがいい。
色違いのランチョンマットにそろいのナプキン、縁取りのある皿を置くだけで、いつもの食卓がぐっと華やかになる。
その横でアイリは加熱の魔法陣を使い、冷えたダルシュを温めた。ユーリはパンをスライスして、それぞれの皿に載せていく。
「コーヒーの準備は僕がするよ」
オドゥが豆を計って焙煎をはじめると、ニーナがいい香りを胸いっぱいに吸いこみ、素直に彼を賞賛した。
「国家錬金術師のひとりとはいえ、こんなしっかりした工房を構えるなんて、たいしたものよ。それに四人ともすっかり、共同作業が板についているのね」
「そうね。オドゥ先輩と直接関わったことはなかったけど、実を言うととても頼りになったの」
ミーナがくすりと笑えば、アイリもうなずいてほほえんだ。
「工房も使いやすいですし、染料の合成に関する質問にも答えて頂きました。説明もわかりやすくて……ユーリもきっと、研究棟でこんな感じだったのでしょうね」
「まぁね。つい聞いちゃうんだよなぁ。研究を邪魔されることも多いけど」
「おい、そこは僕に感謝するところだろ」
文句をいいながらオドゥは豆を挽き、沸かした湯を注いで蒸らす。それからゆっくりと湯を垂らせば、コーヒー豆から細かい泡が立ち、工房は豊かなやわらかい香りに包まれた。
――何気ない当たり前の日常に感じていた日々が、今日で終わる。
そう考えるとアイリの胸は、何とも言えない寂しさでいっぱいになる。けれどそれを顔にださないようにして、パンをモグモグとかんだ。
「あ……色が」
目の前にいる青年の髪に朝日が当たり、パッと赤く燃えあがるように見えた。まばたきをしたアイリの視線に気づいたユーリが、自分の髪に手をやって苦笑した。
「薬もちょうど切れたみたいだ。瞳の色も戻ったかな」
「……ええ」
「それ、どういう仕組みなんだ?」
オドゥが頭に伸ばした手を、ユーリは軽く払いのけた。
「ぽんぽん叩かないでくださいよ。人体に影響がない魔力親和性の高い染料を使います。〝王族の赤〟にいちど染まった体を、いわば魔力でだますんです。けれど思い通りの色をだすのが難しくて」
「ふうん」
「だからワシャワシャするなと……いてっ!」
ユーリの抗議も気にせず、ふたたび彼の頭に手を伸ばしたオドゥは、払いのけられる前に髪を数本、ブチっと引っこ抜くと眼鏡のブリッジに指をかけ、そのまま光にかざした毛髪を観察している。
「何すんですか!」
「だって気になるじゃん。目玉を観察するのはまずいけど、髪ならいいだろ?」
「ちっともよくないですっ!」
鮮やかな緋色の髪と瞳……ここエクグラシアでは、だれもが知っている〝王族の赤〟。この色をとり戻した青年は、もうここにはいられない。それは最初からアイリにもわかっていたことだった。
アイリがうつむいて食後の皿を片づけていると、ユーリに話しかけられた。
「短い間だけど楽しかったよ」
にっこりと優しげなほほえみに、アイリは首をふる。
「何も手伝えませんでした。素材の買いだしをいっしょにして……あとは服の手直しぐらいで。あの……これを」
アイリはポケットから取りだした、四つ折りにしたハンカチをユーリへと差しだす。
白地に青いドラゴンと赤いスピネラの刺繍……彼女が夜に仕事を終えてから、数ヵ月かけて製作したものだ。
「自分で染料から合成して糸を染め、蒼竜とスピネラの花を刺繍したものです。前のはダメになってしまったので、こんどこそちゃんとしたのを渡したくて」
「僕に?」
さりげなく渡そうとしたのに、驚いたようなユーリの顔をまともに見られず、アイリは彼の手にぐっとハンカチを押しつけ、つき返されないようにサッと手を引いた。
「し、試作品です。ストバル商会で金の針を使いこなす職人さんに比べたら、腕もまだまだで染料だって色落ちするかもしれません。王子様に差しあげるものではないけど、ユーリなら受けとってくれるでしょう?」
「……そうだね」
ユーリは複雑そうな表情でそれを受けとり、ハンカチを見つめて苦く笑った。
「僕がきみにふさわしい男ならよかったのに」
「え?」
思いがけない言葉に、アイリはまばたきをした。
「アイリ、きみは僕の憧れなんだ」
「私が……憧れ?」
とまどうアイリを、ユーリは本当にまぶしそうに見つめた。
「賢いだけじゃなく努力家で、いつもひたむきに前を向いて、自分の道を一歩一歩進んでいく。翼を用意したのは確かに僕だけど、僕の想像を超えて夢に向かって力強く羽ばたいている。その姿はとてもまぶしいよ」
「そんなふうに思われていたとは、知りませんでした……」
アイリにしてみれば思ってもみないことだった。
この国でいちばん輝いているはずの青年は、かつて研究棟の二階で見せたのと同じ、さびしそうなほほえみを浮かべた。
「きみを見るとある人を思いだす。怖いほどに一途で、信念を貫き通す強さも持っている」
アイリが何かを言う前に、ユーリは自分の収納鞄を手に立ちあがった。
「どうか僕に命は賭けないでくれ。そんな価値はない男だから。これからも応援しているよアイリ、いやスターリャ」
五番街の店に立つときは〝アイリ〟ではなく〝スターリャ〟と名乗ると、工房でみんなと相談して決めた。
それは彼女が未来へ向かうための名前だ。決して後ろを振り返らずに、前へと突き進むための。
「なぜ……」
お互いに関わって、ぐずぐずしてる時間はもうない。自分の横を通り過ぎて廊下へ向かうユーリの背中に、振り返ったアイリは言葉を投げつける。この程度で彼を止められないと知りながら。
「なぜあなたは……ご自分の夢や未来ではなく、『過去』に向かって進むのですか!」
ユーリの足がピタリと止まった。ドラゴンの契約者たる青年は、燃えるような赤い瞳を彼女に向ける。
「僕にとっては『過去』ではないからだ」
言葉を失って立ち尽くす少女に、彼はすまなそうに眉をさげた。
「ごめん。本当に楽しかったよ。タクラでの生活を僕は忘れない。きみが心をこめた刺繍、ありがとう……元気で」
何も言えずに立ちつくすアイリの横を通って工房の通路にでれば、彼にとっては先輩格にあたる錬金術師がそこにいた。
「まーたお前、カッコつけたろ」
「そりゃそうですよ、僕は王子様ですから。やるならばだれよりも完璧にカッコつけたいです」
収納鞄を担いだユーリの背中に、オドゥが吐き捨てるように言葉を投げかけた。
「女相手にカッコつけたって報われないぞ」
「……報われたいと思ってませんから。それよりオドゥ」
帽子をユーリは目深にかぶり、オドゥに向きなおる。
「何だよ」
「サルジアから帰国したら僕は、あなたにちゃんとした処遇を与えたい」
〝王族の赤〟としての誘いだった。









