448.魔女のほしがった対価
「んー、この海鮮ダシ……うまぁ!」
「だろ。陸にあがってから珍しくていろいろ食べたけど、結局海のものに戻っちまった。これなら毎日食べても飽きない」
そういって背を丸めてター麺をすするリリエラは、どうみても小さなおばあさんで、海の色をした絶世の美女の面影はどこにもない。
「リリエラはこの数ヶ月どうしてたの?」
「魔導列車に乗っていろいろな土地をみてまわった。金が尽きたところでタクラに落ち着いてね、働きながらまた資金を貯めてる。陸の暮らしも慣れれば楽しいよ」
「そっかぁ……よかった。ふたりで海の牢獄を脱獄したかいがあったね!」
彼女のことはずっと気にかかっていたのだ。顔をみあわせて笑いあって、リリエラはグラスをふたつ注文した。
「そういうこと。再会を祝してエルッパで乾杯しようよネリア」
「いいね!」
リリエラに差しだされた小さなグラスを受けとり、打ちあわせればチンと澄んだ音がする。
グラスに注がれた透明な液体をくぴりと飲めば、それは思いのほか濃い酒だった。
「ぐっ、すごく濃い!」
「あはは、ネリアはほどほどにしときなよ」
リリエラは深い海のような瞳をきらめかせ、いたずらっぽい表情でわたしにたずねてくる。
「それよりあんたにそのピアスを贈った男のことを聞かせておくれよ、マウカナイアにきていた王子様とは違うんだろう?」
「あ、うん。そういえばリリエラはレオポルドに会ったことないよね」
わたしは彼女にレオポルドのことを説明した。王都で魔術師団長をしていること、初対面の印象はおたがい最悪だったこと……けれどなんだかんだでいつも助けてもらったことを。
「へぇ、面倒見のいい男じゃないか」
「まぁ、いっつも眉間にシワが寄ってるんだけどね。こーんな感じ」
両手のひとさし指を眉毛にあてて、グイッと寄せればリリエラはくすくすと笑う。
「それで愛想がよかったら女がほっとかないさ。それでどうしてあんたはタクラをほっつき歩いてんだい?」
「そうなんだよねぇ……黙ってでてきたし、カンカンに怒ってたらどうしよう」
「いまさら何いってんだよ」
彼ににらまれたら生きている心地がしない。もしかしたら戻らないほうがいいかも。
「オドゥやユーリに会いたかったのもホント。あとはどうしたらいいか、わからなくなっちゃって」
わたしは正直な気持ちをリリエラに話した。
「彼に優しくされるのって、もちろんうれしいよ。でもそうしたら自分がちゃんとできなくなるの。それに彼への贈りものを考えたくて」
「へえぇ……あのネリアがねぇ。恋しちゃってるわけだ」
「恋、なのかな。師団長の仕事が手につかなくて、彼のこと考えると百面相してるんだって」
それは甘くも優しくもない、混乱するほど狂おしい感情で。ただ彼に会えるならそれだけで、世界すらもどうでもいいと思わせる……そんな感情は危険なのに。
「恋に決まってるだろ。あんたはじゅうぶんやったんだし、師団長とやらの仕事だって、どうでもいいじゃないか」
耳元でささやかれるリリエラの声はしびれるほどに甘い。
「それじゃダメなんだよ、彼のために杖を作らなくちゃ」
わたしは手のなかにあるカラになったグラスを、ギュッとにぎりしめた。
「彼に頼まれたのかい?」
「ううん、逆。『杖などどうでもいいから自分のそばにいろ』って。でもわたしが彼のためにできることって、杖を作ることだと思うから、いま師団長を辞めるわけにはいかない」
「そんなもんかねぇ。あたしならすべて投げだして、彼にひっついて離れないけどね」
リリエラはあきれたようにため息をつくと、もう一杯エルッパのグラスを注文した。
「完成形が見えていて理想の未来があるなら、それに向けて歩みたいの。それは師団長としての責任かな。聞いてくれてありがとう、リリエラ」
そうだ、わたしは師団長としての責任も果たしたい。なんだかリリエラと話してモヤモヤしたものがスッキリした。
「あたしとしてはもうちっと艶っぽい話を聞きたいんだけどねぇ」
そういいながらリリエラはグラスをよこして、わたしたちはもう一度乾杯した。
ノドが焼けるほど強い酒をリリエラがぐいっとあおり、わたしはちびちびとなめる。クマル酒よりキツい蒸留酒は日持ちがするから、船に長期間積んでおける。船乗りたちが好む酒らしい。
「今夜はあたしの部屋に泊まりなよ」
「うん……ありがとう、リリエラ」
連れて行かれたリリエラの家は、小さな船をつなげた水上住宅の集落にあった。
波の動きにあわせて上下する家は足元がなんとなく不安定だけれど、クッションにもたれて毛布にくるまれば、ハンモックに揺られているようなユラユラとした感覚がある。
「魔導回路が壊れて使われなくなった廃船を家にしちまうんだよ、船の家がここらじゃいちばん家賃が安い」
「へえぇ」
船からだとタクラの港を覆うように、何層にも重なった建物のあちこちで灯る魔導ランプが、まるでプラネタリウムでまたたく星を見あげているみたい。
「きれい……」
わたしの横で元の姿に戻ったリリエラが、同じように寝そべってほほえむ。
「マウナカイアで見る満天の星空を思いだすんだ。それに船からならときどき人魚に戻って、こっそりと海で泳げるからねぇ」
「そっか、リリエラの暮らしぶりを見て安心したよ。だからやっぱりでてきてよかったな」
「ふふふ、ネリアには世話になったからねぇ。そうだ、何か願いごとがあればあたしが叶えてやろうか」
わたしは船の天井を見つめてぼんやり返事をした。
「願いごとかぁ……できることならもういちど『――』として、あのときみたいにふたりで笑いあえたら」
むくりとリリエラが身を起こした。長い藍色の髪が広がり、群青の瞳が濡れたような艶を放つ。
「それがあんたの願いかい?」
「ん……」
まぶたがだんだん重くなってくる。そういえば寝ないでタクラまでライガで飛んだし、さっきはエルッパなんて強いお酒も飲んじゃった……。
リリエラが歌うように低くささやく。
「あたしがあんたの願いをかなえてあげるよ。もちろん対価はもらうけれど」
「対価……わたし自分の体以外何も持ってないよ」
「そんなことないさネリア、あんたはあたしのほしいものをちゃあんと持ってる」
リリエラの声がやさしく子守歌のように響く。深い海の底に、落ちていくような眠気を感じた。
「あたしは海の魔女だ。あんたの願いをかなえてあげる。そのかわり……あんたのだいじなものをもらうよ。師団長なんてそんな肩書き、忘れちまいな」
そうね、もういちど「――」として生きたい。あのときみたいにふたりで笑いあえたら。
翌朝、わたしは船に当たるチャプチャプという波の音で目を覚ました。丸い船窓から差しこむ日差しに顔をしかめ、だいぶ日が高く昇ったことに気がついた。
「うーん、すっかり寝過ごしちゃった。リリエラ?」
けれど頭をもたげて見回しても、船の中にリリエラの姿はなく、そこにいるのはわたしひとりだけだった。寝ているあいだに唇をかんだのか、口の中に血の味がする。
「あれ、リリエラ……どこ……」
船内を見回すと壁にかかっている小さな鏡が目にはいる。
なにげなく鏡に目をやったわたしは、そこにいた人物に絶句した。昨日の夜、リリエラは何ていった?
『あんたの願いをかなえてあげる。そのかわり……あんたのだいじなものをもらうよ』
わたし……わたしは何て答えた?
驚いたような顔で目を丸くして、長い黒髪を持つ奈々が鏡の中からわたしを見ている。
わたしのだいじなもの……それが何かはすぐに気がついた。わたしは自分の耳たぶを指でつまむ。
「ピアスが……ない!」
紫陽石とペリドットのピアス、彼が術式を刻んで婚約の証にくれたもの。それが耳からなくなっていた。













