216.師団長室資料庫(オドゥ視点)
師団長室、資料庫で。
オドゥとヌーメリアの会話です。
夜になり研究棟にまだ残っていたオドゥ・イグネルが、師団長室に顔をのぞかせた。
「ソラいる?うわ、なにこの花瓶……」
もう夕飯の時刻もすぎていて、ネリアたちも居住区のほうでくつろいでいる時間だ。ひとり片づけをしていたソラが顔をあげた。
「ネリア様がライアス様にいただいたそうです……ライアス様の作だとか」
ギョロリとこちらを睨む竜王から、すこし距離をとりながらオドゥは師団長室にはいってきた。
「あいつこんなのつくる趣味あったっけ?魔除けにはなりそうだけど。ソラ、資料庫に読んだ文献を戻したいんだけど……ああいいよ自分でやる、みたいものもあるし」
「かしこまりました。資料庫にはただいまヌーメリア様もいらっしゃいます」
「ヌーメリアが?」
めんどうだな……と一瞬顔によぎった表情は、オドゥが自分の眼鏡に指をかけてズレをなおすときれいに消えていた。
黒縁眼鏡をかけた青年は資料庫の扉にむかい、留守の間にソラが丹念にみがいた真鍮の金具に手をかけようとしてふと動きをとめた。
「……ソラ、僕らが留守のあいだにネズミは入りこんだかい?」
「……〝赤〟の間に二匹。〝竜〟が取り調べています」
ソラの返事にオドゥが眉をあげてふりむいた。グレンは師団長室の守護精霊が何をしようと黙認していた。というより自分が狙われようと探られようと、いっさい関心を払わず無頓着だった。だからまわりが対処するしかなかった。
「ソラが始末しなかったの?」
「……ネリア様は喜ばれないかと」
「賢明だね」
たいていはエヴェリグレテリエだけで事足りたが、ときにはオドゥも手を貸した。それだけオドゥはグレン・ディアレスに心酔しており、彼の研究を守るために働いていたわけだが。
あの老人、最後の最後でそんなオドゥの努力さえも、無に帰すようなふるまいをした。
……まぁいい、いまいましい三重防壁は残していったが、ただの魔石にはもう何もできない。すべては今、彼にとって手の届くところにある。
オドゥは人のよさそうな笑みを浮かべる。精霊には何も響かないだろうが、これはくせのようなものだ。
「ソラはさ、ネリアがどう考えるかちゃんと読みとって、それに合わせた行動ができるんだね」
「〝精霊契約〟を交わした主ですから」
「そう……これからもその調子で、ネリアを守ってよ。ネリアはグレンの残した『宝』だからね」
僕以外のすべてからね……声にするかわりにオドゥは無言で資料庫の扉をあけた。
オドゥの静かな足音に、ひとり資料庫にたたずんでいたヌーメリアが奥で身じろぐ気配がする。灰色の〝毒の魔女〟はちょうど欲しい資料の前にいる。
邪魔だな……どうやってどかそうか、それとも今回はあきらめるか……ひきこもるなら地下にある自分の研究室にすればいいものを。オドゥは眼鏡の奥にある深緑の目を細め、できるだけ優しく聞こえるように声をだした。
「ごめんヌーメリア、邪魔しちゃった?借りてた資料を返したらすぐにでていくから」
「いえ……あの……私のほうがでていきますから」
ヌーメリアはうつむいたまま首をふり、オドゥにとって都合のいい答えを口にした。
「そう?悪いね」
ちっとも悪いと思わないのにそういうと、ヌーメリアは立ちあがってこちらに向かって歩いてくる。それに合わせてオドゥは道をあけようと棚に寄った。
ネリアがくるまではいつもオドオドとうつむき、ろくに人の顔をみなかった灰色の魔女がすれ違いざま立ちどまる。そのまま灰色の瞳でまっすぐに、オドゥの顔を見あげるようにのぞきこんでくる。
「……何?」
「オドゥは……どうしてネリアにきちんと想いを伝えないのですか?」
オドゥが首をかしげると、ヌーメリアはどこか思いつめた表情のままためらいがちに口を開いた。
「ええ?僕はいつだってネリアに気持ちを伝えているじゃん」
「そうですが……ネリアが魔力暴走を起こしかけて倒れた晩に、居住区に入れないあなたは、彼女を心配してずっと中庭にいたでしょう?」
「ああ、そのこと?」
どう返事をしようか考えはじめたオドゥに、ヌーメリアはさらに言葉を続ける。
「それにあなたは学園時代から研究棟に出入りし、研究棟の錬金術師たちのなかではだれよりもグレンから信頼されていた。師団長室やデーダス荒野への立ち入りも、許されていたではありませんか。そのことをネリアに伝えれば……」
ヌーメリアの言葉をおくれて理解し、オドゥは表情を作るのを忘れ素の自分がむきだしになった。それは瞬きのあいだに見逃してしまいそうな一瞬だったが、ヌーメリアは「ひっ」と喉の奥で小さな悲鳴をあげ口をつぐんだ。
そうだった、この女はいつも気配を消したがる。用心深いこの僕でも気づかぬうちにみられていた時があったってことか……うかつだったな。
オドゥは眼鏡のブリッジに手をかけ穏やかな声をだしたが、その声はいつもより低くなった。
「やだなぁ、ヌーメリアにはそんなふうにみえていたの?それ僕の口からはネリアにいいづらいんだよ、けっきょくグレンの機嫌をそこねた僕は、デーダス荒野の工房からは締めだされてしまったしね」
「でも……あなたはだれよりもグレンのために働いて……」
「いえないんだよ」
殺意がわくのを感じながらオドゥはヌーメリアの話をさえぎった。相手は〝毒の魔女〟だ……不用意にこちらからしかけるわけにはいかない。
「それをネリアに話したらさ、なにもかも彼女に説明しなきゃならない。グレンの目的もどうしてデーダス荒野に工房を作ったのかも。グレンを信じて師団長としてあんなにがんばっている彼女に、すべてを教えられると思うかい?」
ヌーメリアは灰色の目をまたたいた。錬金術師団で十年働いたのだ……グレンがどんな人間かは骨身にしみている。
ヌーメリアがグレンに感じる感情は、ひとことでいうなら〝恐怖〟だ。ネリアは本当にグレンと三年もともに過ごして、なにも感じなかったのだろうか。
「ていうか資料庫でひとり考えごとしていたのって、それ?」
「そうでは……ありませんが……」
唇をかんでうつむいてしまったヌーメリアを、オドゥは眼鏡の奥から静かに観察する。
(そうだ、悩むなら自分のことで悩めよ)
「ヌーメリアもさ、ネリアのことより自分のこと考えたほうがいいんじゃない?アレクが入学したら居住区で暮らす理由もないだろ?」
「そう……ですね」
ネリアの求めに応じて結果をださなければならない。ヴェリガンとも協力していかなければならないのに……今日は市場から逃げだしてしまった。
そんな自分がふがいなくて、夕食もそこそこに資料庫にこもった。地下にある自分の研究室にいかなかったのは、夜だとアレクが心配するからだ。「資料庫にいる」といえば、邪魔しないでくれる。
ふたたび自分の殻にこもってしまったヌーメリアをみて、オドゥも心の落ちつきをとりもどした。
「ヌーメリアの人生はこのままアレクが巣立って終わりじゃないんだよ?ともに生きたいと思うような人はみつかった?」
「わたしに……そんな人いません」
ヌーメリアはゆっくりと頭をふる。自分の冴えない灰色の髪が目に映る。広場でヴェリガンにじゃれつく女の子たちにはこんな髪色はいなかった。
休日にアレクと過ごすのを楽しむほかは、仕事をしてずっと研究と開発の毎日だ。仕事で接する相手はふえたがそれだけだ。そう、ヴェリガンだってただの同僚だ。
「そう?……意外と自分のことはわからないっていうからね……気づいてないだけかもしれないよ?」
オドゥは眼鏡のブリッジに手をかけたまま優しくほほ笑むと、資料が並んでいる棚へとむかった。
オドゥって優しいけど、ときどき怖いよね。












