2.転移者と収納魔術
十七歳の高校生だったときに遭った、事故の記憶はほとんど残っていない。
春休みに高校の友だちと何人かで、県外にあるテーマパークへ旅行にでかけた。たっぷり遊んで自分たちの街へ帰る途中、乗っていた高速バスが事故を起こした。
事故のはずみで転移し、この世界に飛ばされたわたしは、気がついたらデーダス荒野でグレンの工房に寝かされていた。
意識をとり戻したとき、わたしは動くこともできず、自分がどんな状態かもわからなかった。
「ネリア?」
だれかの声がして、わたしがそちらに意識を向けると、ボサボサ髪の老人がベッドの脇に立っている。
老人はガサガサした手でわたしの腕を持ちあげ、顔をのぞきこむようにして脈をとる。深いシワが刻まれた顔で瞳は鋭い眼光を放ち、野生の狼みたいだと思った。
「ふむ。脈は落ちついておる」
(……だれ?)
言葉にならなかった疑問を、彼はすぐに理解したらしい。
「グレン・ディアレス。錬金術師だ」
言葉が明瞭に聞きとれたことを、そのときは不思議にも思わなかったけど。あとからグレンに、この世界にきてすぐ彼が、わたしに言語解読の術式を施したと聞いた。
「お前さん、名前は?」
「───」
名前……そう、ちゃんとある。けれど──と答えようとしたとたん、わたしは事故の恐怖に青ざめた。
あの世界で最後に聞いた、友人たちの絶叫が頭の中でこだまする。
『────、────!! ────!!』
事故が起きた瞬間は思いだせず、友人たちがどうなったかもわからない。知るのも怖くてガタガタ震えだしたわたしを、グレンはなんの感情も見せず、ただ見下ろしていた。
しゃべろうとして唇から、シュウシュウと息が漏れる。しばらくたってようやく口にできたのは、目覚めて最初に聞こえた音……〝ネリア〟。
「〝ネリア〟……でいい」
そうつぶやくと自分がこの世界に、たった今生まれ落ちたような感覚になる。
「ネリア? ネリアか……ふむ、そしたら『ネリア・ネリス』とでも名乗るか?」
わたしはグレンの提案にうなずく。こうしてわたしの名は『ネリア・ネリス』になった。
あとからそれは、エクグラシアの古語で『誰だ? 誰でもない』という意味の、言葉遊びのような名前だと知る。
そのときのわたしは、ほかに気になることがあって、それをグレンに訴えた。
「ねぇ、グレン……」
「なんだ?」
「世界が緑色なんだけど」
「ふむ……色調補正の術式を忘れておった。これでどうだ?」
まぶたにふれた指が離れて、わたしが目をパチパチとまたたくと、緑一色だった世界に色がつく。
グレンのボサボサした髪は白髪ではなく輝きのある銀色で、瞳は今にも雪が降りだしそうな、冬の曇り空みたいなミストグレー。
「うん、ちゃんと見えるみたい」
「お前の眼球は失われてしまったから、わしが新たに作り直した」
キョロキョロと工房を見回していると、彼がさらりとわたしに教える。
「グレンが作り直したの?」
「『世界が綺麗に見える瞳がいい』と頼まれた」
グレンがわたしを助けたのはだいぶ前のことで、そのとき彼と言葉を交わしたらしい。
転移したわたしは事故のケガで死にかけていたため、彼は時間をかけて欠損した組織を修復し、皮膚も再生させたという。そう教えられても、わたしはなにも思いだせなかった。
「わたし、動けるようになる?」
「ああ。だから今は眠れ」
彼はわたしの枕元で、ボソボソと低い声でなにかをつぶやく。韻を踏んだ懐かしいような旋律を耳にしながら、わたしはストンと深い眠りに吸いこまれた。
それからまた時々目覚めて、グレンと話して疲れたらまた眠る。目を閉じて眠るたびに少しずつ、わたしは元気になっていった。
事故でボロボロになったわたしの体には〝痛覚遮断〟の魔法がかけられ、痛みがないかわりに最初は動けなかった。
地下の工房から地上の部屋に移されたあと、術式を解かれたとたん痛みにのたうちまわったけれど、わたしはグレンの助けも借りて必死にリハビリをした。
こうして一年かけて体を動かせるようになると、わたしはそのまま彼の家に居候して、家の片づけとか簡単な手伝いをしながら、この世界について学んだ。
偏屈で人嫌いなくせにグレンは、魔導国家エクグラシアで錬金術師団長を務めるほどの高名な人物だという。彼の書斎には本がいっぱいあった。わたしからすると、ただの偏屈なおじいちゃんだったけど!
王都シャングリラにも住まいがあるのに、彼は王都から魔導列車で北西に三日かかるエルリカの街から、さらに魔導車で何日も進んだデーダス荒野に家を建て、地下に造った工房で実験に明け暮れていた。
年老いた錬金術師はひねくれているというより、人と接するのが面倒そうで、自分の研究以外にはいっさい関心がない。
なにごとにも無頓着な彼と暮らすのは、慣れるとそう大変でもなかった。
デーダスの家は外から見ると、レンガ造りの小さなあばら屋だけど中は意外と広い。
それぞれの寝室と収納庫のついた台所、暖炉のあるリビングから続くグレンの書斎、地下には資料や素材の保管庫を備えた工房まである。
けれど書斎の床は足の踏み場がなく、テーブルの上は積まれた研究ノートや実験用の素材が雪崩を起こしていて、モノの隙間で生活している状態だった。まるでゴミ屋敷だけれど、どれも捨てられなかった。
無造作に置かれているのは貴重な研究資料と、手に入れるのも大変だという稀少な素材ばかり。わたしは資料の山を崩さないよう、よけて歩きながら彼にたずねた。
「ねえグレン、〝収納魔法〟ってないの?」
「は? 収納魔法?」
いつもサラッと魔法を使うくせに、グレンはけげんな顔をする。
「だってグレンはいつも、ここと王都を転移魔法で移動するでしょう? あれって空間を繋げるのよね? 空間をいじれるなら、それを曲げたり伸ばしたりして、たくさんの物をしまったりとか……」
銀髪のおじいちゃんは、さっぱりわからないようで首をひねった。
「なんで物をしまいたいのかわからんが、〝空間魔法〟ならあるぞ。この家も外見よりずっと広いじゃろ?」
「それだ! ……っていうか、空間魔法が使えてこのありさまって……」
わたしは素材や資料で埋まった、床がまったく見えない部屋を指さす。
「そもそも、しまう必要などないじゃろう。使いたいときにすぐ手にとれないのでは不便ではないか」
「だってこんなに物があったら、探すのが大変でしょ?」
「探す必要などない。呼べばくる」
「はぁ!?」
「まったく……異世界のもんは常識がない。サーデ」
手のひらを上に向けて、グレンは呪文を唱えた。すると目の前に積まれた本の山から、一冊が飛びだして彼の右手に収まる。わたしはあっけにとられて目を丸くした。
「え、何それ……超便利じゃん!」
「ほしいものを具体的に思い描く必要はあるが、面倒くさがりが考えたのか、呪文も短い」
うわ、無精ひげの生えたあごを、得意そうになでるドヤ顔むかつく。
「呼べばくるなら片づけられるよね! 積んでおく必要ないよね!」
わたしが抗議しても、グレンはぷいっとそっぽを向いた。
「べつに今のままで困っておらん」
「わたしが困るの!」
幸いわたしは異世界に飛ばされるだけあって、もともと魔力が多いらしい。ただし転移でそれは使ってしまい、からっぽになったわたしと〝星の魔力〟をグレンがつなげてくれた。よくわからないけど。
放りっぱなしの資料や文献を、片づけながら読んでいくうちに、錬金術の基本的な知識を身につけたわたしは、グレンに空間魔法を教えてもらい、自分で工夫して収納魔法を編みだした。
術式を書くのは超めんどうだったけど、わたしは散らかった素材を分類して整理し、半年かけてデーダスの家を片づけた。
おかげで素材にも詳しくなったし、きれいに片づいたテーブルで、わたしは満足してお茶を飲んだ。
「ん~、人の暮らしをとり戻したって感じ!」
「落ち着かん……」
やり切った感のあるわたしとは反対に、グレンは部屋のすみで猫背をさらに丸めてしょぼくれていた。