169.腹を立てていた事なんてどうでもよくなる
ほとんどずっと海の中です。
レイクラに見送られて、わたしたちは店をでた。
カイは昨日も巻いていたコバルトブルーの腰巻に茶色の鞄を肩にかけ、ユーリも店で選んだ赤い腰巻を身につけている。わたしは昨日買ったエメラルドグリーンのドレスだ。
それだけだとみんな、ビーチをそぞろ歩いているような格好なのに、砂利を踏みながら誰も口をきかなかった。カイはビーチの中心に向かう方角とは、反対に進んでいく。
「どこにいくんですか?」
「ついてくりゃ、わかる」
連れていかれたのは、石を積み上げただけの古い波止場の突端だった。いまは使われていない波止場のようだけど、ビーチと違って船がつけられるように、このあたりの海は深くなっているようだ。
海からの風に緑の髪をなびかせこちらを振り返ったカイが、ユーリに向かって挑発するように言った。
「……置いていかれないようにしろよ」
「気遣いは無用です……いきましょうか」
言い返すユーリの、茶色に変えたはずの瞳が、赤く燃え上がったような気がした。ユーリは口を引き結んで、波止場から濃い青を見せている海面を見下ろしている。
「じゃあ行くぜ。人魚の世界を少しだけ見せてやる」
そう言うと、カイは波止場から身をおどらせた。続いてユーリが飛び込んだため、わたしもあわててその後を追った。
カイは水に飛びこむと同時に人魚に姿をかえ、ぐんぐんわたしたちをひき離す。昨日わたしに難なく追いつけただけあって、最初からすごいスピードで飛ばしていく。
わたしは人魚に変わる時に、ドレスのすそが脚に絡みつくのに慣れなくてもたついたため、少し出遅れた。
ユーリがちらりとわたしを振り返ったけれど、すぐに視線を前方に戻した。なにしろカイが速すぎて、ユーリにもわたしまで気遣う余裕がないのだろう。
わたしは必死で二人を追いかけた。
悠々と先を泳いでいるように見えるカイの姿が、どんどん小さくなっていくのにあせりながら、魔力を足先にある自分のヒレに集めようとするけれど、油断するとすぐに失速してしまう。
それはユーリも同じことで、ようやく彼に追いついて、泳ぐ彼をちらりと横目で見たら、彼も全然余裕はなさそうだった。
それでもこのスピードについていけているということは、成長後の彼の魔力もだいぶ安定したのだろう。わたしと目が合うと、彼は微笑んだ。
ユーリはいつも優し気に微笑むけれど、がっつり骨太な男だと思う。大胆不敵で、王子様なのに平気で無茶をする。テルジオや家族がいくら心配しようと、一度こうと決めたら、彼は絶対に譲らない。
負けず嫌いの彼にとって、越えられない壁があるというのは、幸運なことなのかもしれない。ユーリはわりと器用になんでもこなすのに、簡単には満足しない。
彼にとっては、目標とするものが常に、彼の目の前にあるほうがいいのだ。今もこうして、彼はカイの背中を追いかけている。
真剣な眼差しでひたすら前を見つめる彼の横顔は、腹を立てているようでもあり、楽しんでいるようでもあり。
わたしもカイの追跡に集中することにした。カイは研究所では口数も少なくぶっきらぼうで、おとなしい印象だったのに、ダイナミックに海の中を泳ぐさまは、生き生きしていて別人のようだ。
『俺は……海流に乗ってやってくる生物の研究をしている』
これだけ泳げて、魚達の群れに飛び込んで行けたら、どれだけ楽しいだろう。彼は、マウナカイアの海中を知りつくしているのではないだろうか。一度ちゃんとカイの話を聞いてみたい。
水の中をグングン進んでいくと、水温はところどころで変わり、ぬるい温かさを感じたかと思うと、深みのある場所ではひやりとした冷気が海底から伝わる。海の中でも風向きのように潮の流れがあるうえに、冷たい海水は下に沈み、対流が起きているようだ。
わたしたちが吹きすさぶ木枯らしが苦手なように、魚たちも潮の流れが速い場所は苦手かもしれない。潮の流れがゆるやかで、温かな場所なら、魚も居心地がいいと感じるかも……。
そんなことを考えながら、どのぐらい泳いだろう……カイの背中を追って、わたしたちが珊瑚の林をいくつも抜けると、突然視界が開けた。
(うわぁ……!)
そこはびっしりと珊瑚がおいしげった大きなすり鉢状のくぼみで、まるで大きな円形劇場にきたみたいだった。視界が三百六十度、さまざまな種類の珊瑚でできた棚のようになっている。
日当たりのよい場所では海草がおいしげり、珊瑚の足元にはへばりつく海綿をついばむ、変わった模様のウミウシたちがいて、色鮮やかな熱帯魚たちの群れが、その中を行き交っていた。
(熱帯魚の集合住宅みたい……)
ただひたすら青い海の中に飛び込めば、これだけ豊かな生態系があることに圧倒される。言葉を失いそうな絶景の中心で、カイはコバルトブルーの魚体をひらめかせると、わたしたちを待ちかまえていた。
緑の髪にエメラルドグリーンの瞳をしたカイは、そのまま海の中に溶けてしまいそうに見える。
きっとここが、彼が連れてきたかった場所なのだろう……わたしたちが追いついたところで、カイは自分が下げていた鞄からビンを取りだし、フタを開けて何かを海中に撒いた。それはどうやら魚のエサだったらしく、わたしたちのまわりに赤や黄色や青……さまざまな色をした熱帯魚たちが集まる。
触れようとすれば逃げてしまうけれど、身動きせずにじっとしていれば、好奇心旺盛な魚たちは、人間を怖がることもなく近寄ってくる。わたしたちはしばらく、魚たちの乱舞にみとれた。
再びカイの先導で泳ぎはじめると、銀色の身体をきらめかせて泳ぐ魚たちの大群に遭遇した。かれらにとってはわたしたちは大きな魚に見えるのだろう。群れに飛び込むと、綺麗にそこだけぽっかりと穴があく。
世界はなんて綺麗なんだろう……わたしは素直に感動した。
イルカのように海面から躍り上がれば、トビウオたちとの競争だ。カイとユーリは競い合うように、高く飛んではまた水面に潜る……ということを繰り返している。そのまましばらく、泳ぐということを楽しんだ。
どこまできたのかわからないけれど、見渡すかぎり海しかなく、やがて前方に海面にぽっかりと顔をだす、小さな砂地が見えた。カイはその近くまでくると変身をといて、浅瀬に立ち上がった。
「ここは潮がひく間だけ、こうして海の中から顔をだすんだ。休憩場所にはいいだろう?」
人間に戻って水の中からでると、浮力を失った体はとたんに重力を感じる。重い体、砂地にめり込む足……そして太陽はこんなにも熱い。雫をしたたらせるドレスが重くて、すぐに浄化の魔法をかけて乾かした。
水から上がったユーリは、肩で息をしていた。情けないことに、ついて行くだけで精一杯だった。肩で息をしているところなど、見られたくはなかったがしかたない。
「ユーリ、だいじょうぶ?」
「ハァッ、ハッ……だいじょうぶ、です……」
帰りもあるのだ……ここでへばるわけにはいかない。髪をかき上げ雫を払うと、浄化の魔法で体裁を整えた。カイは余裕の表情で、こちらを見下ろすと口角を上げた。
「どうだ、綺麗だったろう?あれを見たら腹を立てていたことがあったって、どうでもよくなる」
「そう、ですね……」
奴の言う通り、海の中の景色は息を呑むほど素晴らしいものだった。そう、腹を立てていたことなんて、どうでもよくなるぐらいに。
「お前のぶんだ。ムダにならずに済んだ」
投げられた包みをほどくと、パンに肉と野菜を挟んだだけの、簡単なサンドイッチがでてきた。
「これ……」
「ほら、水もあるぞ……なんだ、もっと豪華な食事がよかったか?」
「いえ、十分です……いただきます」
「わぁ!サンドイッチ!カイが作ったの?」
「泳いだら腹が減るだろうが」
「ホントだね!お腹ペコペコ!いっただきまーす!」
ネリアは屈託なく、カイから受け取ったサンドイッチに、うれしそうにかぶりつく。
人の好意に対して無用心だ……と叱りたくなるが、彼女のこの屈託のなさが、彼女自身の身をこうして自分のそばに置いている面もあるのだろう。
もう少し、男に対して警戒してほしい……それは僕に対してもだけど……。
かぶりついたサンドイッチは、少し潮の味がした。












