魔力を失った人狼
リネーレ大陸は、かつては獣人だけが暮らす大陸であった。
他の大陸や島々から孤立して独自の進化を歩んでいた大陸に、ある時、人が到来した。
人はその魔力と文明を持って大陸の中央にリネーレ共和国を建国。獣人はこれに抵抗し、長きに渡って戦いを繰り広げた。これを契機として獣人の数は激減し、現在ではリネーレ大陸の主たる種族は人となった。
戦いは二百年ほど続いて、遂に終結。人と獣人は和平を結んだ。
獣人との最後の戦いから十五年が経ち、共和国の首都テスタリオの光景は随分変わった。最近では獣人が生活する姿が良く見られるようになっている。
ジェニーが務める軍の特別治安部隊は、通称『ナイツ』と呼ばれ、かつては対獣人のために組織された。現在では規模を縮小し、反政府組織の掃討にあたっている。入隊後二年、今ではジェニーはブラックウッド隊の隊長である。
互いに多くの犠牲を払って最後には共存という選択をした人と獣人は、しかしというか当然というか、消しきれないわだかまりを抱えている。現在の共和国元首であるアークライト総統は、戦中から一貫して共存路線を唱え続けているが、国の中には反獣人を掲げる人間も少なくない。それはナイツの中でも同じだった。
獣人との戦いで両親を亡くし、それでもジェニーが獣人を憎まずにいられたのは、当の両親が繰り返しジェニーに教えてくれていたからだ。
理性のある生き物は、互いの差異を理解し、歩み寄る努力を忘れてはいけない。たとえ幻想に思えても、憎しみに囚われ未来への希望を捨ててはいけないのだと。
だからジェニーは、この半年前ナイツの隊員となった初めての獣人を、自分の部隊に招き入れた。獣人には理解がある方だと思っている。
思ってはいるが、自宅のバスルームに裸の人狼がいるという状況は、許せるものではなかった。
ジェニーは無言ですくっと立ちあがり、腰の横で両手を広げる。左右の手のひらに、まばゆい光球が発生した。
「――ちょ、ストップ! 死ぬ!」
一瞬で顔を青くして、彼は慌てて手をあげる。ジェニーは怒りのこもった眼差しで見下ろす。
「死ねばいいわ」
「とりあえず話くらい聞くべきだって!」
「魔力のない犬のふりをして騙したわね。許さない」
「騙してないから、とにかく聞いてよ」
彼が立ちあがろうとしたので、ジェニーは慌てた。
「ちょっと、駄目!」
「あー……。裸だったね」
と、彼は肩にあったバスタオルを取ってさっと腰に巻き付けると、今度こそ立ちあがる。敵意はないという証明なのか、両手を胸の前でひらひらさせている。
丁度ジェニーの額と彼の口が同じ位置にあった。やや細身だが、抜群に均整の取れた体躯をしている。ナイツで鍛えられた人間を何人も見てきたジェニーには分かる。こういう体格の男は、戦わせると大体いい動きをする。バランスの良い筋肉が、しなやかに体を動かすのだ。
思わずそんなことを考えてしまったジェニーは、すぐにはっとする。
「魔力が枯渇してるんだ。分かるだろ?」
「…………」
確かに、人型となった今でも、魔力は欠片も感じられなかった。
「今できるのは人型と狼型に姿を変えることだけ。完全な人狼にはなれない。無力なものだよ」
完全な人狼というのは、おそらく人に近い体格で二足歩行する狼の姿のことであろう。対峙したことはないが、その姿をした人狼は圧倒的な速度と腕力を誇り、驚異的な戦闘能力を有するという。
「だったらどうして人型でいなかったの。迷い犬のふりをして同情を引くなんて」
「理由があって逃げていたから。狼型の方が、足が速い」
「うちの前でじっとしている間に戻れば良かったでしょう」
「いや、服が無かったし」
「…………」
思い切り顔をしかめて、それでもジェニーは仕方がなく魔力を抑えた。
光球が消えると、彼はほっとしたように表情を緩めた。
「話、聞いてくれる?」
「聞かないわ。とりあえず今夜の寝床は貸すから、明日になったら出ていって」
睨みながら答えると、彼は情けなく眉尻を下げた。
「でも、行くところがないんだけど」
「知らないわよ」
「飼うって決めて家に入れてくれたんだよね? 一度拾ったからには責任持って欲しいな」
しゃあしゃあと言われて、ジェニーは目を吊り上げた。
「それは、犬だと思ったからでしょ!」
「犬と同じだって。魔力ないし」
「同じじゃない!」
「でもさ、話を聞く価値はあると思うよ。俺はこの街の野良犬じゃない。パラディーから逃げてきたんだ」
その言葉に、ジェニーは動きを止めた。
パラディーとは、リネーレ大陸の最北、アヴェリア山脈のふもとにある人狼の国だ。
現在では共和国とも国交があるが、戦中は最も激しく戦った獣人国家の一つだ。共存に反対する不穏分子は、この国よりもずっと多いだろう。
「逃げてきた? パラディーで何があったの」
「やっと聞いてくれる気になった?」
「早く話して」
「あー、でも待って」
そう言って、彼はいいことを思いついたとばかりに表情を明るくする。
「それを話すから、ここに置いてよ」
「……はあ? ふざけてるの? 話を聞いて欲しいと言ったのはあなたよ」
「だって話だけ聞いたら追い出されそうだし」
「当然でしょ」
「じゃあ話さない」
ジェニーは頬を引き攣らせた。彼はにこっと笑顔を見せる。
キレそうになる自分を何とか押しとどめながら、ジェニーは聞いた。
「何故私がその要求を呑むと思うの」
「だって君は、唯一獣人を部下に持つナイツだから」
ジェニーは一瞬目を見開き、すぐに不快さに眉間の皺を深くする。
「私を調べたのね」
「ナイツの近くで何日かふらついていたら分かっただけだよ。獣人を連れていたのは君だけだった」
「……ふらついていた?」
「助けてくれる人を探してたんだ。うろうろしていても誰も気にとめなかったよ。魔力のないただの犬だったからさ」
ジェニーは、彼が自宅の前にいた理由をようやく理解する。
「それで、本部から私の家までついて来たのね」
「そう。君ならきっと助けてくれると思ったから」
「家に入れて貰えなかったらどうするつもりだったの」
「……それは考えてなかった」
その答えに思わずジェニーが脱力すると、今度は懇願するような瞳を向けてくる。
「ここに置いてくれないかな」
請うように言われて、ジェニーは厳しい顔のまま腕を組んだ。
「本部で保護するわ」
「保護のためには素性を調べられる。それじゃ駄目だ。ナイツにだってパラディーのスパイがいるかもしれない」
「それは……」
そんなはずはないと言い切れないところが、ジェニーにとっても歯がゆいところだった。
「頼むよ。君しか頼れない」
腕を組んだまま、ジェニーは相当に苦い顔をしてしばらく考えると、最後には諦めたように深い深いため息をつく。
腕組みを解くと、ジェニーはしぶしぶと答えた。
「……仕方がないわね」
「ホント!?」
と、言った途端に彼はジェニーに飛びついてきた。
「……!?」
ジェニーの思考が一瞬停止する。
「ありがとう、ジェニー」
逞しい体に抱きしめられていると気づいた瞬間、ジェニーは焦って抵抗した。
「は、放して! 馬鹿!」
「……あ。ごめん、つい」
ぱっと腕を解かれて自由になっても、ジェニーは険しい目をしたまま睨みつける。
にも関わらず、無邪気な笑顔をつくって彼は、背後のバスタブを親指で指した。
「じゃあ、とりあえず。せっかくお湯があるんだから入っていいかな。シャワーだけじゃしっかり体が温まらなくて」
ジェニーは思わず呆れ顔になる。
「はあ? 何なのその図々しさ。そのお湯は、私のために用意して貰ったのよ」
「じゃ、一緒に入る?」
嬉しそうに言われて、ジェニーは一瞬唇をひくりと動かす。それから無理やり彼をバスルームの外へと追い出した。
「シャワーで十分でしょ! さっさと出ていって!」
声を荒げて扉を閉めた後、言い忘れたことを思い出してもう一度扉を開けると、ジェニーは顔だけを出して棘のある声で言った。
「犬に戻っときなさいよ」
「ええー。狼型だと話せないんだけど……」
「いいから! そんな格好でうろうろしてたら叩き出すから!」
言い捨てて、ジェニーはわざとバタンと大きな音を立てて、扉を閉めた。