迷い犬を拾ってみれば
厳しい寒さが終わった頃に降る雨は、震えるような冷たさはなく、しとしとと優しく草木の成長を促している。この雨が上がれば、鮮やかに芽吹いていく景色を明るい陽光が照らし、人々は待ち焦がれていた春の訪れを実感するのだ。
「――そうは言っても、寒そうね」
と、ジェニー・ブラックウッドは目の前の存在に呟いた。
仕事を終えて帰ってくれば、ジェニーが借りている二階建てのタウンハウスの、外壁から張り出したバルコニーの下で、大きな犬が体を伏せて雨宿りをしていた。ここに辿りつくまでにずぶ濡れになってしまったようで、寒さに身を固くして耐えている様子が伺えた。
顔だけを上げてこちらをじっと見つめる犬の瞳は、金色に近い薄い琥珀色だった。毛色は、濡れているだけでなく泥や埃で随分汚れてしまっていて、灰色というか錆色というか、とにかく汚かった。
「悪いけど、飼ってあげられないわよ。日中は家を開けるし、帰らないことも多いから」
言いながら、ジェニーは膝を折って身を屈めると、傘を持っていない方の手を伸ばす。犬の頭に触れると、犬は鼻を上げて目を細めた。
ジェニーは数度犬を撫でた後、そのまま手のひらに魔力を込めた。そこから淡い光が漏れ出して、薄い膜となって犬を包む。
「これで濡れないでしょ。しばらくは大丈夫だから、その間に新しい場所を探しなさい」
ジェニーは立ちあがり、すぐ横にある玄関へと向かう。軒下で傘を閉じると、もう一度だけ犬に視線を送った。犬は微動だにせずジェニーを見つめていた。
「ごめんね」
こちらをじっと見続ける犬に、胸にじわじわと迫るものを感じながらも、ジェニーは建物に入ってドアを閉めた。
傘を置いて一つため息をつくと、奥からハウスキーパーのメイベルが出てきた。
「お嬢様、お帰りなさい。今日も遅かったですね」
ニ十歳となり、雇い主となったジェニーを今でもお嬢様と呼ぶのは、メイベルがかつてジェニーの父母の元でも、ハウスキーパーをしていたからだ。
もうすぐ六十歳になるメイベルは、このところ年々ふくよかになっていることを気にしている。
ジェニーの両親は、もう十五年も前に他界していた。残念ながら、二人の姿をはっきりとは覚えていない。何枚か残った写真がジェニーに二人の様子を教えてくれた。ジェニーの長くさらりとした黒髪は母に、明るい星空のような青い瞳は父に良く似ていた。
父母の死後、他に親族のいなかったジェニーは国立養護院で生活することになったが、メイベルはジェニーの身を案じて何度も足繁く会いに来てくれた。
本当は自分が引き取って一緒に暮らしたかった、と言ってくれたメイベルの言葉は、両親を亡くしたばかりのジェニーの心を慰めてくれた。実際にはそれは許されなかった。ジェニーには国で身柄を保護されるだけの理由があった。
「ただいま、メイベル」
成人である十八歳を待って、軍の特別治安部隊に入隊したジェニーは、部隊本部の近くに家を借りた。
二階建てのタウンハウスはさほど大きな建物ではないが、一人で暮らすには十分広い。両親と同じように、ジェニーがメイベルにハウスキーパーとして来てくれないかと依頼すると、メイベルは少し涙ぐみながら快諾してくれた。
「外にいました? 大きな犬」
「……いた。いつからいるの?」
「私がこちらに来た時にはいましたよ。お嬢様が出かける時には気づきませんでしたか?」
「気づかなかった。朝は急いで出ていくから」
「だったらもしかして、昨日の晩からいたのかもしれませんね……」
ジェニーは部隊支給のコートを手渡しながら、眉尻を下げた。
「可哀想ですね、あんなに濡れて」
「…………」
「ずっと離れないのは、余程ここに何かを感じているんじゃないですかねえ」
コートにブラシをかけながら、わざとらしく言うメイベルを、ジェニーはじろりと睨んだ。
「そんなこと言っても駄目。散歩する暇もないし」
「散歩なら私が日中にしておきますよ」
「それならメイベルが連れて帰ればいいじゃない」
「我が家には猫が五匹もいるのをご存じでしょう?」
メイベルが用意してくれている食事のために、ダイニングルームへと向かうジェニーを、メイベルは足早に追いかけてくる。
「私はかねがね心配していたんですよ、若い女性の一人暮らしは危険だって」
メイベルの勤務は、ジェニーが家を出た後の正午から夜までだ。夜間から朝にかけてジェニーは一人きりになる。
「だから?」
「あの大きな犬だったら、番犬に丁度良いじゃないですか」
「いらないわよ。自分の身は自分で守れるから」
すげなく答えてジェニーはダイニングチェアに腰かける。目の前には、牛の塊肉が赤ワインでとろとろになるまで煮込まれて良い香りをさせている。
「知っているんですよ、お嬢様が本当は動物が大好きだってこと」
「私は知らない」
手を拭いて、ライ麦のパンをちぎって口に入れる。
「うちに来た時には、猫たちにべったりじゃないですか」
もぐもぐと口を動かしながら、ジェニーは何も答えない。口の中に食物をほおばったままお喋りするのはマナー違反だ。
「お嬢様」
ジェニーは首を横にふるふると振るだけで、無言で食事を味わう。おいしい。やっぱりメイベルは料理が上手い。
するとメイベルは諦めたのか、はあ、と大きなため息をついてダイニングルームを後にした。多分、いつものように風呂の準備をしてくれるのだ。
それから綺麗に食事を平らげて、ジェニーは最後に水を飲んでから席を立った。
メイベルがまだ戻って来ないのを確認すると、ジェニーはそっと窓辺に寄った。
カーテンを引いて外を覗き見る。ジェニーが顔を出した窓から、玄関を挟んで反対側の窓の下に、大きな犬が一匹。
「気になるんですね」
背後の声に、ジェニーはびくんと肩を揺らした。慌てて振り返れば、いつの間にそこに戻ってきていたのか、メイベルが口元をにっと綻ばせている。
「ち、違う。これは――」
「やっぱり動きそうにないですねえ」
焦ったジェニーを無視して、メイベルも窓から外を見る。犬は一歩も動いていないようだった。
「お嬢様、お願いですから」
もう一度懇願されて、ジェニーの決意は折れた。
「……あー、もう。分かったわよ」
ジェニーは観念したように前髪をくしゃりと握りつぶす。メイベルはぱっと顔を輝かせた。
「まあ、ありがとうございます! さっそく中へ入れましょう。温かくしてあげなくちゃ」
うきうきと玄関へ向かうメイベルに、ため息をついてジェニーも後に続いた。
犬は素直にメイベルに従って、建物の中へ入ってきた。
「本当に良かったわね。今日からお前の御主人様の、ジェニーお嬢様よ」
そう言うと、メイベルは何かを思い出したように走り去る。かと思ったら、大きなバスタオルを持って戻ってきた。
その間、犬はジェニーを見上げるようにして、大人しくそこに座っていた。
「さ、拭いてあげるわね」
そう言ってバスタオルを広げたメイベルに、ジェニーは手を伸ばす。
「メイベル、もう帰る時間よ。後は私がやっておくから。遅くなったらいけないわ」
「いえ、いいんですよ。少しくらい」
「洗わなくちゃ汚いし、このままお風呂に連れていくわ。どうせ私も今からだし」
「……でも、お一人では大変ですよ。こんな大きな犬」
バスタオルを受取って、ジェニーは犬を見やる。たしかに大きい。家に入るとなおそう感じる。
そこで今更ながらジェニーはある可能性に気がついて、はっとした。
「ちょっと、これ本当に犬?」
「犬じゃないですか」
「狼じゃないの?」
「…………」
ジェニーとメイベルは、しげしげと目の前の存在を見る。街で見る犬に比べて、顔つきが勇ましい気がする。
判断のつかない表情をしてメイベルが、ジェニーの顔を覗きこんでくる。
「犬と狼の違い、分かります?」
「分からないわ」
「……じゃあ、犬で」
「じゃあって何よ」
「どっちでも良いじゃありませんか。大人しいし、利口そうですよ」
「そりゃあ普通の狼なら良いけど……。人狼だったらどうするのよ」
ジェニーの言葉に、さすがにメイベルも表情を固くした。
「……お嬢様、私には魔力を感じることができなくて。どうなんですか?」
「うーん……」
ジェニーは身を屈めて犬に正面から向かい合った。人狼であれば感じるはずの魔力は感じられない。
「まあ、大丈夫そうかなあ……」
その言葉に、良かった、とメイベルが胸を撫でおろした。
「そうですよね。それならすぐに分かるはずですもの」
「……そうだとは思うけど。私たちも、人狼の生態を完全に分かっているわけじゃないから」
「大体、人狼なら、この家の前でじっとうずくまっているなんて、そんなことしませんよ。人型になって助けてくれって言えば良いじゃないですか。もしあのまま拾われなかったら、死んでしまうところですよ」
「……それもそうね」
メイベルの言葉に納得して、ジェニーは立ちあがった。
「じゃあ、後は綺麗にして寝るわ」
「お一人で大丈夫です?」
「大丈夫。明日から、日中の世話は頼むわね」
「もちろんです。明日、餌も用意してきますから。今日のところは牛乳でも上げてください」
「分かったわ。お疲れ様」
荷物を取りに行って、家を後にするメイベルを手を振って見送ってから、ジェニーは再び横に座る犬を見た。
「とりあえず綺麗にしよっか」
濡れた足元だけをバスタオルでさっと拭いてから、一緒にバスルームに向かう。
中に入ると、ジェニーは温度を確かめてから犬にシャワーをかけた。人間用の石鹸は動物には刺激が強いと聞いたことがあるので、お湯だけで綺麗にする。
くまなく丁寧に流して、汚れた水が出なくなったところで、シャワーを止めた。犬の毛色はやや灰色がかった美しい金色になった。
「お前、本当に大人しいわね。前にも人に飼われてのね、きっと」
大きなバスタオルを犬に掛ける。丁度頭と体が、すっぽりと隠れた。
「洗うのはいいけど、乾かすのが大変ね……」
ジェニーが犬の正面で屈んでから、ごしごしとタオルを動かしていると、ごそごそと犬が動き出した。
「ちょっと、動かないでよ。拭けな――」
ジェニーは言葉を途中で飲み込んだ。
犬の体が、見る間に形を変えていく。多分それは、時間にすれば数秒のことだった。
ジェニーは尻もちをついた。そんな無様な格好になったのは、記憶がある限り、はじめてのことだ。声を上げようとするのに、唇は音を成さない。
これ以上ないくらい見開かれた眼前には、タオルを被った男が一人。
タオルがはらりと男の肩にすべり落ちた時、アッシュブロンドの髪から、同じ毛色をした獣の耳がぴょこんと飛び出していた。
そして薄い琥珀色の瞳をした男は、人懐こく微笑んだ。
「やあ、御主人様」