啜る(2)
「注文はされないんですか?」
彼女は僕に囁いた。
僕は店内に入ってからというものメニューとにらめっこをしたまま、目だけを出して食事をする彼女の動向を見ていた。
「何を注文していいか迷っていて……」
嘘だ。
元々、腹が減っていたわけではない。
道を歩いていたら強引に引き入れられたのだ。
それも彼女を見つけてウインドウ越しに店内を見ていたせいでもあるのだけれど。
店内に通された後はなんとか彼女の見える位置に移動して、なんどか注文を迫られたが困った顔をしてやり過ごし、その後はひたすらメニューとにらめっこしていたのだ。
その後もあの店員はこちらを時々睨みつけている。
食欲というものに縁遠い僕には食事をして満足するという感覚がない。
お腹いっぱいに食べさせられてお腹が苦しくなることはあるけれど、それは苦しみだけで幸福感とは縁遠い。
彼女のように食べることで幸せな表情を浮かべることに憧れのようなものをもっているのかもしれない。
「このメニューはオススメですよ」
彼女が指し示すメニューには"筋骨隆々男汁拉麺”と表記されていた。
油のたくさん入った豚骨ベースのラーメンのようである。
あんなに美味しそうに食べる彼女のことだから、彼女がおすすめするメニューはきっと美味しいのであろう。
しかし、僕は彼女のように満足に食事をできる自信がない。
大量に残してしまって、また店員ににらみつけられるかもしれない。
しかし、それでは前に進めない。
堂々巡りである。
彼女があんまりにこちらをキラキラした目線を送るものだから、店員の鋭い眼光よりも注文をしなければならないという使命感に襲われる。
「じゃあ……それを……注文します」
あまり乗り気ではなかったが彼女の勧めに乗ることにした。
彼女は僕の言葉を聞くと、さっと手を上げ、店員は駆け足で近づき、”筋骨隆々男汁拉麺”の注文を完了した。
なんという早さだろう。
僕ならば、店員が近くの席を片付けにくるまで待っている。
その店員を他のお客の注文に取られたならば、次のチャンスが来るまでひたすら待つ。
それがどうだろう。
彼女は店員の仕事などお構いなしによく通る声で店員を呼びつけ、脇の空いたワンピースから腕を出しながら子供のように大きな動作で挙手をする。
彼女がこんな風に堂々と主張すると店員側も仕事の手など止めて、急ぎ足で注文を取りに来る。
あんなに恥ずかし気もなく無防備な脇を見せつけたならば、そうせざるを得ないだろう。
まるで客と店員が事前から打ち合わせていたような、流れるような一連の展開であった。
「あっ」
彼女は注文を全部言い終わったあとこちらに向き直った。
「私、いつもの癖で……出すぎた真似をしてしまって」
彼女は申し訳無さそうに頭を下げた。
僕には彼女が頭を下げる理由がわからなかった。
「いえいえ、そんなことないです。助かりました」
「よかったぁ。いつもやっていることなので無意識に体が動いてしまって。あの、今更なんですけれど、”筋骨隆々男汁拉麺”でよかった……ですよね?」
あまり乗り気ではなかったが、彼女の勧めというのならばなんでも良いのだ。
「ええ、本当に助かりました。外食をする時、注文をするのが苦手なもので」
「そうなんですか。慣れてしまえば簡単ですよ」
そうはいうが、人見知りの激しい人間にとって、忙しそうな店員を相手に自分の空腹を満たすために店員を呼びつけるという行為はひどく身勝手なことをしているようで申し訳ない気持ちになってしまうのだ。
「あまり、慣れてなくて」
彼女には僕の言っていることが理解できなさそうだった。
あんなに高度な技術持ち、それを無意識にやってのける彼女には、その能力を持っていない僕のことなど理解できないだろう。
そんなやりとりをしていると、注文した”筋骨隆々男汁拉麺”が運ばれてきた。
「美味しそうですね~」
彼女は目を輝かせて、このヌルヌルとしたどんぶりを見つめる。