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現代社会の殺処分について

作者: 秋風

保健所行きになった動物は里親が見つからない場合は殺処分になってしまう。

これは成人している日本人ならば誰もが知っているだろう。

中には殺処分を行わず、別の保健所へ移す保健所も在るようだが、その数は少ない。

保健所に送られる動物は2パターンある。

「飼い主に捨てられた動物」か「飼い主に捨てられた動物が産んだ子」である。

どちらのパターンにも人間が関わっている。

最近では震災が起き、飼い主を失ってしまった動物もいる。これは不可抗力と言えるだろう。

保健所で殺処分を行う人間が悪いのか、それとも殺処分というシステムを創った人間が悪いのか。

その答は否である。殺処分を行う人間の精神的苦痛は計り知れない。夢に死んだ犬が出てきて自殺をした職員までいる。システムを創った人間も、苦渋の決断をしたのだろう。

動物が増える一方では国の経済が崩れてしまう。

だとすると悪いのは誰か?それは人間だ。何の考えもなしに動物を捨てる愚かな人間だ。

ある保健所に50匹の動物が居たとしよう。

この中に人間が勝手に産ませて育てられなくなり捨てられた、買ってきたけれども、育てるのが面倒になり捨てられた動物たちが何匹いるだろうか?

(「飼い主に捨てられた動物が産んだ子」を人間のせいにしてしまうとすべての動物がこれに当てはまってしまうので今回は除外する。)

きっと半数以上は人間が捨てた動物だろう。

人間は無意識に人間至上主義を掲げている。かく言う私もその一人だろう。


昔の偉人の言葉にこういうものがある。「人が虎を殺さんとする時にはスポーツと呼び、人が虎に殺されんとする時は凶暴と呼ばれる。」

これは虎だけの話ではない。熊も、猪も、あらゆる動物に当てはまるだろう。

私は思う。自らの身一つで、身の危険を護るためや子供を護るため、命を繋ぐために狩りを行い食料を得ようとする動物よりも、ただのお遊びをスポーツといった大義名分を掲げて食すためでもないのに銃という兵器を使い動物たちを蹂躙する人間のほうこそ凶暴であり、狂っているのではないかと。

勿論食すために殺される動物たちには感謝と、自分たちの都合で殺してしまい申し訳ないという気持ちを持って殺すのが礼儀であってマナーである。

私は 牛や豚を殺すのは可哀想とは思うが、殺すな。とは思わない。殺すな、という人は今まで肉を食べたことのない者なのだろう。肉を一度も食べたことがなく、生き物を一匹も殺したことのない人間が殺すなというのであれば私は肉を食わない。

だが、そんな人間がい居るのだろうか?いや、居ないだろう。

歩いているときに微生物を殺してしまっている。アリを殺してしまっている。鬱陶しいという理由で蚊を殺してしまっている。

大抵、この話をすると、人は、「命の大きさが違う」またはそれに準ずる言葉を言う。

しかし、命に大きさは存在するのだろうか?何故、牛や鳥は殺してもいいのに人間は駄目なのだろうか?

勘違いしないでもらいたい、別に人殺しを肯定しているわけでない。

ただ、同じ生き物であるのに何故人間は駄目なのか?というものに疑問を持っただけである。

この疑問に対する答えは大体こうだ。「牛と人では価値が違う」これが真理であり、人間至上主義の根幹である。

アリを殺した時に罪悪感や嫌悪感を抱く者がこの地球上に一体何人居るだろうか?100だろうか?1000だろうか?それとも0だろうか?それはわからない。理解ることといえば、71億人居る人口の1割にも満たないであろうということだけだ。

小さな子供が「牛さんを殺さないで」と言ってしまうことは仕方がないことだ。まだ経験や今の人間社会の現状を知らないからこそ言ってしまうのだ。

それは責められるべきことではない。ただ単に、無知であった、というだけなのだから。

話が多少それてしまったが、保健所の話に戻そう。

人は、保健所で殺処分されている動物を見ると、助けてあげたいという気持ちが浮かぶのではないだろうか。

しかし、動物というものは簡単に飼える訳ではない。引き取ったとしても、育てられなくなってしまえば捨てるか、他の里親を探すしか無いだろう。

里親が見つからなければ捨てる。捨てられた動物は又保健所へ。この悪循環である。

そして捨てた人間は言うのだ。「精一杯やった」「出来るだけ手は尽くした」「自分には無理だった」「なぜ自分が責められるのだ?」と。こんなものはただの自己満足にすぎない。いや、自己満足というのも烏滸がましい。これは偽善だ。それも中途半端な偽善だ。最後までやり通す偽善ならば賞賛しよう。途中で投げ出す偽善は蔑もう。中途半端な偽善を行使するならばやらないほうがマシである。

人間ほど自分勝手で愚かな生き物は存在しない。


地球上の動物で一番何が怖いかと聞かれたら私は''人間''と答える。

人間は平気で同族を金で売買する。人間は猟奇的な事件を起こす。人間は簡単に裏切る。

人間は怖い。何を考えているかが理解らないのだ。

却って動物の思考は簡単である。「眠い」「空腹」「悲しい」「寂しい」「嬉しい」「楽しい」「殺したい」

大まかにいえばコレぐらいである。そして何よりも嘘をつかない。

正直な生き物なのだ。

野生の虎に手を出せば食いちぎられるだろう。当たり前である。

人間の嫌なやつの癇に障るようなことをしてしまえば倍以上になってやり返されるだろう。

権力者の癇に障ることをしてしまえば、社会的抹殺もあり得る。

だから私は人間が一番怖い。


まぁここまでだらだらと語ってきたわけではあるが、「そんなことで悩むな」と言われてしまえばそれで終わりなのだ。

読んで頂きありがとうございました

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― 新着の感想 ―
[一言] 人間である限り人間至上主義という考え方から逃れることはできないのでしょうね。
[一言] 同じ地球の住人である以上、動物をむやみに殺すことは不条理なことですね。 もちろん、食べるためにそうするのならわかります。動物同士でも行っている、自然の摂理ですから。 けれど、邪魔になるから殺…
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