私の価値は五十円
帰りの電車──腫れた足をかばいながら窓際に立つ私は、そこに映った自分の顔を見てギョッとした。
『それがあなたの十年後ってよく言うじゃない?』と、会社の同僚が今日の昼休みに言っていたのを思い出した。
目の下に深く刻まれた皺。これが私の十年後────。
鞄の中のアルバムの人は──真面目でとても誠実そうだが、好きとか何だとか、そういう感情は全く湧かない。私の心の琴線には何も触れることがない人。でも自分の歳や彼の条件、そんなことを考えると……。
──ここで手を打たなきゃ。
これが私の本心だった。
****
「推名さあ、その携帯って何年前のだよ?」
「……二十一のときに変えたから、もう六年前」
仕事帰りに待ち合わせた学生時代の先輩──悠さんは、もうすっかり飲み仲間だ。学生時代は敬語だったけど、そんなものはとうに撤廃されていた。付き合いもかれこれ十年近い我々は、お互いに良い友人だった。
それに向こうは一年留年して卒業したから、私と同期みたいなものだと言える。
「それでか。いまどき二十代でラインやってないのお前ぐらいだよ? 早く俺と繋がろうよ」
「二十代って言ったって、もう三十路が見えてるし。それに何かその繋がるって響きがイヤだ。個人情報を安売りするのも」
ネクタイを緩め、頼んだ生ジョッキを飲み干した彼は「ぶっ」と吹き出して私の顔を見た。
「ばっかだなあ、お前の個人情報なんて、せいぜい五十円だよ五十円」
「ごっ……五十円ってことはないでしょ!」
「いや五十円だ。これでも高く積もったんだぜ」
調査会社に勤めている彼の発言だから、それは真実なのだろうけど。
「う、もう少し高いかと思ってた」
「そんなもんだぜ、人間の価値なんて」
そうだろうか──人の価値って、お金には換算できないと思うんだけど。
私はふと、来月結婚する、学生時代の同期を思い出した。
「美優が……彼女が結婚するじゃない?」
彼はメニューから目を離さずに頷く。「うん、俺二次会から行くよ」
「彼女銀行勤めでしょ、で、このご時世だけど寿退職。彼女が社会人二、三年目の頃によく言ってたんだよね」
「何て?」
「仕事に慣れれば慣れるほど、人間のことをお金でしか見れなくなってくるって」
「ふーん」
彼女曰く、顧客のランク付けなんてザラだけど、個人の客でもせめて二、三千万ぐらいは預金がないと、人扱いはしないということらしかった。『冗談だけど』と前置きした上での発言だし、その頃からは年月が経っているから、ひょっとしたらその『人扱い』のランクも一千万ぐらいは下がっているのかもしれないけど。
「あ、でも美優の旦那さんって都庁勤めでしょ、手堅い人を選んだよね」
「そうだな──なあ」
「何? あ、私カミカゼ」
追加の注文を取りに来た店員さんに告げる。
「お前飲み過ぎんなよ。俺、抱えていけないからな」
「私、学生時代から五キロ太ったからなあ~。悠さんと私、多分体重が三キロぐらいしか違わないと思う」
「推名って今何キロ? 俺今五十六だから」
「…………黙秘します」
本当に三キロしか違わなかった……まずい。
黙秘ねえ、と私の上半身をマジマジと見る彼が、呆れた顔で息を吐く。
「まあ、まだ大丈夫かな。お前背高いし──って知らねえけど、お前の裸とか知らねえけど俺」
「わざわざ言わなくていいよもう!」
最近スカートがきつくなってきた気がするし、今日は家まで歩こうと、この時点ではそう心に決めていた。
「そうだ、さっき言いかけたことって何?」
カクテルグラスの水滴を指に乗せて遊んでいた私は、初めて来たこの店の雰囲気を、気に入り始めていた。
入り口は暗いけど、通されたカウンターは適度な明るさで冷房の風もキツすぎず、アルコールで火照った身体を優しく冷やしてくれる。
今日連れてきてもらった店は、よく行く居酒屋じゃなくて、お化け屋敷をコンセプトに作られたバーだった。「俺今度ここに女の子連れて行きたいから、下見だよ」と悠さんは言っていたから、私みたいな飲み相手はちょうどいいのだろう。
入るときに手をつながなければいけなかったけど、学生時代に酔って手をつなぐ、いや、つながれていたことはよくあるから、なんてことはなかった。
悠さんの手のつなぎ方が私の人差し指を持つ、という『しょうがなくやってます』感がありありだったのも、私が意識しなかった理由のひとつだけど。
「──あ、いやさ、お前は最近どうなのかなと思ってさ、彼氏とかいないの?」
「うーん……いたら、金曜の夜にここで飲んでないでしょ」
「だよなあ」
「悠さんはどうなの? 彼女と上手くいってる?」
「あ、うん──別れた」
「はあ?」
思わず出した大きな声は、周りの喧噪にかき消された。
「うわー、もったいないなあ、何でそんなことを」
私の漏らした嘆息に、彼は訝しげな視線を向ける。
「どっちが?」
「いや、彼女がもったいないことしたなあって──何歳だっけ?」
「元カノ? お前と同じ、二十七」
「いやあ、もったいない」
「ほんとにそう思ってんの?」
「うん、だって悠さんかっこいいじゃない」
悠さんは見た目だけなら十人中十人が振り返るであろう、二十八歳にはとても見えない──高校生と言っても通じる外見だった。
彼が昔、電車で痴女に遭ったと苦々しく言っていたのを聞いて『ああいかにも』と思ったし、就職先では新卒時に女性社員がどよめいていたと──彼主宰の合コンに出たときに、彼の先輩社員が語っていた。
「愚かなことをしたもんだなあ。結構瀬戸際じゃない、私たちの年齢は」
「ああ……全くだよな……」
だから今日は誘ってくれたのか。
久しぶり──といっても三ヶ月ぶりぐらいで、仕事が忙しいのだろうとは思っていたけど。
「よし、じゃあフラれた悠さんの分は私がおごろう」
「いやお前俺は……クソ、そんな格好悪いことはできねえよバカ、俺が払うよ」
「いいっていいって、夏ボ出たから!」
結局この後、カクテルを更に四杯飲んで、私は上機嫌になって店を出た。
「あ、暑い! 暑いなー!」
「だから、飲み過ぎんなよって言っただろ」
悠さんと私の家はバスで二十分。直線距離にすると大して離れていない、というか学生時代の友人の中では一番近いところに住んでいた。
私が就職して三年目に住み始めたマンションは、二DKの家賃九万円。山手線最寄り駅でこの間取りと値段はなかなかない。まあ駅から少し歩くのと、余り治安がよろしくない、というのがデメリットだが。
「いやあーありがとね誘ってくれて! 私もストレス解消になったし、また来週からがんばれる!」
「ああ……俺、お前のその大虎ぶり、久々に見たよ……」
「え、何? でもごめんね、結局おごってもらっちゃったし」
先ほどからため息ばかりついている彼は「女におごってもらうのは、格好悪いんだよ」と、私の鞄まで持ってくれている。
「この鞄えらくかさ張ってるな、何入ってるんだよ」
私の鞄の中を開けて覗こうとする彼に「あ、やだやだ、見ないで」と駆け寄ったが、ヒールが溝に引っかかり、私はぐぎっと右足を曲げて転んでしまった。
「うわぶ!」
「お前、現役のときの機敏さはどうした?」
「もう離れて久しいから無理だよ……」
私たちは『古杖術』という武道の部活仲間だった。準備運動の際に、よく反復横跳びの速さを競ったりしていたのだが……。もはや運動神経のかけらも残っていない。
「なあ、これってお見合い写真か?」
「うわああああ」
助け起こしてもらったのはいいが、私の両手は彼の右手で押さえつけられたままだ。彼はもう片方の手で器用に、アルバムをめくっていく。
「へえ……四十歳、T大卒のM物産…………真面目そうな顔だ。なるほど」
パタンと閉じた冊子を突きだした彼は「年齢は少し上だが、上等だな」と一言感想を述べた。
開放された手でアルバムを鞄にしまう。彼と目が合ったが、その整った顔立ちからは感情は読み取れない。
「いつから?」
表情を変えずに聞いてくる。
「せ、先月会ったばかりだけど」
「それ、どこまで進んでるの?」
彼の尋問口調に、私の酔いが段々覚めてきた。
「来週、三度目のデート」
「三度目か──順調だな、もうセックスした?」
その童顔に似合わぬ発言に、思わず、彼をまじまじと見てしまう。
「セ……いや、まだだけど」
お互い、十八十九のときからの付き合いだ。彼氏や彼女がいない時から知っているし、互いの……昔の彼氏や彼女のことも知っている。
そんな彼から、『やったか』と聞かれるのは何だかとても変な感じがした。少しオヤジ臭いというか、似合わないなと思ったのだ。
「ふーん。桐子はその人のこと、好きなの?」
「わかんない、まだ好きかどうかなんて……でも、好きになれそうな気がする」
「お前がそう思うんならいいんじゃないか?」
「そっか、そうだよね」
私の少し腫れた足を触り「これぐらいなら大丈夫か」と呟いた彼は「お前、歩いて帰るなよ」と指を指して言うと、手を上げて、家の方向へと歩いていってしまった。
****
「──さん、推名さん、し・い・な・さ・ん……!」
「う、え──あ、はい!」
「この案件、私もBCCで入れといて」
「あ……はい」
──だ、駄目だ、仕事に支障をきたしている。
次の週、水曜日に見合い相手から来たメールは「明後日の金曜、部屋予約してるから」という直球の内容だった。
会うのはこれで三度目だから、そろそろ身体の関係になってもおかしくはないと思うのだが──。何とか引き延ばせないだろうかと、断る理由ばかりを考えていた。
悠さんからは先週の金曜以来、メールも電話もない。
別に悠さんに何を期待している訳でもないが、彼から「お互い頑張ろう」の一言をもらえたら、前に進めるような気がしていた。
──気が乗らないから断ろうか。いやしかしここで相手の機嫌を損ねたら、それで御破算になるかもしれないし……。
「はあ、何やってんのかなあ、私……」
「──推名さん、ちょっと打ち合わせするから来て」
「え、あ……はい」
「あとコーヒー、私の分も持ってきてくれる?」
上司に言われて、私は無料の薄いコーヒーを二人分、抽出しに行った。
「──あなた、仕事にプライベートの感情を持ち込まないように」
「う……すいません」
さすがというか、何というか──直属の女ボスは、私の不調を見抜いていたようだった。打ち合わせは十分程度で済んだのだが、「それで、何? お姉さんに教えて」と上司は私のアレコレに興味津々のようだ。
「といっても課長に話せるような浮いた話じゃないですよ……」
「まあまあ、誰にも言わないから」
「それは誰かに言いふらすフラグですよね」
「失礼ね、言わないわよ」
まあ、この人が興味のある社内のイザコザではないから話をしてもいいか──。
私はかいつまんで事情を説明した。
「──わかったわ、あなた、揺れてるのね」
「え? 誰と」
「だからそのお友達と、見合い相手と」
「ないない、あり得ないですよ。だって十年近く友達やってるんですから」
上司は深く息を吐くと、ボールペンで資料の余白を叩きながら私を睨んできた。
「あのねえ、あなたのそう言う態度イラッとするのよねえ。影響ないってんなら、仕事はちゃんとやってよね」
「あ、ひ、酷い……」
潤む目を見せたが、女帝には効果がなさそうだ。
「推名さん、嘘泣きはやめて」
「はい」
「やっぱ嘘泣きか」
へへ、と笑ってみせるが、上司の顔は更に青筋が立っている。
「す、すいません。でも私、こんな好条件のお見合い相手、捨てられませんって」
怒りの上司は「何て正直な」と少しあっけにとられた顔をしてから、苦く笑った。
「それが本音よね、そうよねえ」
薄いコーヒーを飲み干した彼女は「これはあくまでも一例だけど」と有り難いお話を私に聞かせ始めた。
****
「ごめんなさい、待ちました?」
フラットシューズで駆けていく私を笑顔で迎えたのは──見合い相手の小口さんだ。
高そうなスーツに高そうな時計がよく似合っている。背丈は、実は私の方が高いので、彼は私の靴を見て機嫌をよくしたようだった。
「いや、君が遅れてくるのは今回で三回目だから。もう慣れたよ」
「いやあ、すみません」
金曜日、新橋のSL広場で私たちは待ち合わせて、そして私は十五分、遅刻をした。
毎度の遅刻の理由は様々だけど、今回は課長からいろいろと言われ、思い切るのに時間がかかったからだった。
オフィスを出る間際、まだ残っていた課長からは『頑張れ』と親指を立てて見送られた。残っている社員たちは何事かという体で私と女帝を見ていた。ひょっとしたら次の週には、もう私のことは知れ渡っているかもしれない。
まあ、もうどうにでもなれ! と覚悟は決めたから、何があろうと構わないのだけど。
「じゃあ、行こうか」
「あ、はい」
紳士的な笑顔の見合い相手──小口さんは、私の手をしっかりと握って歩き始めた。悠さんの人差し指だけつなぎとはえらい違いだな、と私は思わず小さく笑ってしまった。
私たちは小洒落たレストランに入って、そこで私はワインをしこたま飲んだ。いや、飲まされたというのが正解かもしれない。
ワインはチャンポンでなければいける口なのだが、三杯目から何だか私は視界がフワフワとし始めて、いつも以上に愉快な気持ちになっていた。
「あはははは! 小口さんとっても面白いですね!」
「あ、いや、そうかな、ははは……」
「すぉうですって! わたひぃ、何だかとっても機嫌がよくて…………」
ここで記憶は途切れて────次に気がついたら、私の視界には見知らぬ、寂れた天井があった。
暗い──とても暗い場所だ──。
「う、すっごく気持ち悪い……」
こみ上げる吐き気を我慢して辺りを見回した。
外からは電車の音が聞こえてくる。あのレストランから、そう遠くにいった訳ではなさそうだ。
窓から漏れる電車の明かりが室内を照らす。ここはどうやら線路沿いのビルで、私は室内の堅いソファに転がされていたようだ。
ハッとして思わず自分の下着を確認するが、脱がされた形跡はない。
ほっとしたところ、ドアの向こうから二、三人の男の声が聞こえてきた。何を喋っているのかよく解らない。
ズキズキとする頭で考えを組み立てた。これはひょっとすると────。
「あ、目が覚めたかい?」
「こ、小口さん……?」
スーツ姿は変わらないが、先ほどのにこやかな表情は全く見えず──彼は歪んだ口元で小馬鹿にしたような声を発した。
「いやあ良かった、君の個人情報が全く見当たらないからさあ。僕らは困ってたんだよ」
「え」
私の鞄を持った小口さんは、日本語ではない言葉で後ろの二人と会話をする。
「君の鞄、漁らせてもらったけどさ。なーんにもないね、免許も保険証もクレカも、社員証すら。携帯だって今時ガラケーだしね」
何も価値がない、というようにポイっと鞄を投げた。
──ま、まさか……課長の言うことがずばり当たるなんて……。
『私、昔ね……婚活詐欺に遭ったのよ』
『え』
『K大卒の医者で年収三千万って肩書きでさ、まあホテルに行って次の日になったら……』
『なったら?』
『財布の中身は引き抜かれてるし、保険証も免許証もない、カード枠いっぱいに買い物されてるわで、そりゃ酷い目に遭ったのよねえ』
『いやあ、それは大変でしたね』
『だから、あなたも気をつけて。まあ、勢いも大切だけどね』
『はあ……』
──なーんて、他人事だと思っていたけど。課長が今日だけは絶対に財布の中身を置いて現金だけで行けって、しつこく言ってくれたおかげだわ。
「いやあ、すいません小口さん。じゃあ、私はこれで」
落ちた携帯と鞄を拾い、出口に行こうとした私に「おいこら待てババア」と声が掛けられた。
「ババア……?」
「あ? ババアに片足突っ込んでるようなもんだろ二十七なんてよ、お前自分の価値解ってんのか? クリスマスケーキって知ってるか? ゼロ円だよゼロ円、つーかむしろマイナスだよ!」
「は?」
──二十七歳でババア呼ばわりか。こいつ、バブル世代じゃないとは思うんだけど、よく言うわ……。
大の大人三人、しかも国籍不明という、こっちとしてはおしっこを漏らしてもおかしくはない状況だ。だが吹っ切れてしまった私にはそれが却って可笑しく思えてきた。
自分の麻のジャケットを探ると──小さな筒が二本。
──あった! まだ神様は、私を見放してなかった……!
私は三人から見えない角度で一つ目の『筒』を片手に持った。
「クリスマスケーキって言い方が古いですよ、小口さん。ああ……小口さんって偽名ですよね」
「ああ? だから何だってんだよ?」
「いやあ良かった、あなたが大馬鹿者で」
「んだとこらぁ……!」
退路を断たれる前に! 私は自分の鞄を力いっぱい相手の顔にたたき込んだ……!
「んがあ!」
目つぶしがきいた!
これはスピード勝負だ! 私の手の内がバレる前に!
「……!!」
残りの二人が奇声を上げて飛びかかってくるが……!
「はぁっ!」
気合いと共に金属の筒を伸ばす!
伸縮杖……!
百五十センチの金属の杖を真横にして、私は思いきり二人の首めがけて押し当てた!
「…………!」「……!?」
よろめく二人の間を縫って、私は汚いドアを蹴破り、外に飛び出した!
急いで階段を駆け下りる! 四階……三階……二階……!
二階の踊り場まで来たとき突然、右足が『グギッ』と悲鳴を上げた。
「うわっ……!」
思わず転げる背中を、男が掴んで捕らえたようだった。首元が圧迫され、苦しさで息が詰まりそうになる。
「あ……がはっ……」
「このアマァっ! ふっざけんなよ……っ」
──落とされる……! その前に何とかもう一本!
痺れる身体で残り一つの『筒』を手に持つが、うまく力が入らない。
絶望しかけた、そのときだった。
「おい桐子! 筒持ってんなら貸せ!」
突然、聞き慣れた声が耳に入ってきた。目の前に現れたのは……悠さんだ!
「は……悠さんパス!」
もう一つの筒を悠さんに投げて、私はそのまま目を閉じた────。
次の瞬間に勢いを付けた杖が、ズボっと男のどこかに刺さる音が聞こえた。悲鳴と共に私を束縛している力が緩む。
「桐子飛び降りろ!」
「あ……はい!」
そのまま階下へジャンプした。五十六キロの悠さんじゃ私を受け止めきれないと思って、とっさに悠さんの横めがけて飛び降りた。
「バカ! そこに下りるな!」
「ごめん……!」
気を遣ったのに、わざわざ悠さんもずれることはないじゃないか。
「ぐぁ、待てこらぁ!」
怒声を背に、私たちは一気に外に転がり落ち、そして交番へと走って行った。
****
三日後──。
警察からは「婚活詐欺の犯人を三人、捕まえました。なお余罪は多数と思われます」という連絡があった。
だがこの件がテレビや新聞等で報じられることは一切なかった。
二日間の有給を消化したのち──警察側から監視の人員を配備され、毎日悠さんからも送り迎えをされた。何だかこの好待遇に溺れそうだった。
また襲われるかもしれないという恐怖心よりも、まるで昔漫画で見たような、極道の娘が登校する風景みたいだという思い込みと好奇心が勝った。
警察をその筋の人たちに置き換えて妄想するわけだ。それも今日で終わるけど。
「にしても、何で悠さんは場所がわかったの?」
この日もオフィスを出たところを待っていた悠さんと、最寄りの駅まで行って二人で歩いて帰るところだった。
「週明けに在籍確認をとったら、そんな名前の社員はいないって言うからさ。ピンときたよ」
「そっか……じゃあ泳がせてたわけ?」
「そうだな。ただ、会社名を詐称しただけかもしれないから、慎重に、とは思ってたんだけど」
「けど?」
「あー……俺、名簿屋と知り合いでさ、そっから洗ったんだよ。あのお見合い写真の奴、他でも同じ偽名を使ってたみたいで……うかつな奴だよな」
でもうっかり屋で助かったよ、と言う悠さんは、そのことを若干言いづらそうにしていた。
「まあいいか、とにかく裏技を使ってくれたわけかあ」
「そうだよ、大サービスだからな」
「はいはい」
一応はこれで犯人も逮捕され、無事終了、ということでいいのだろうか。
今回のことで、世の中いい話なんてそうそうないということを、私はキツく身にしみて思い知った。
「それよりお前、筒なんてまだ持ってたんだな」
「ああ、うちの上司がああだこうだ言うからさ。そこまで言うなら一応……と思って」
「なかなか鋭い上司だな」
「うん、女ボスだよ。何か、私が揺れてるんじゃないかって見抜いてたし」
「揺れてる?」
「うん私が──」
──あ。
悠さんに、悠さん本人の話をしてしまうところだった。
「ああ、あの、胸が揺れてるみたいな……」
「お前胸ないだろ」
「いや結構あるよ私、見たことないだろうけど」
「そうだよ一度も見たことねえよ、一度ぐらい見せてみろってんだよ」
「え」
「あ、いや、見たいとか、そういうわけじゃなくて……いや……」
「…………」
「おい、何か言えよ……」
「いいよ」
「……え」
「別に……いいよ」
「うそ、マジで?」
「……うん」
何でこんな会話になっちゃったのか、自分でもよくわからない。
でも勢いも大切だという課長の言葉──それだけは、何となくわかったような気がした。
手を差し出すと、悠さんは真っ赤な顔で、私の人差し指だけを掴んで歩き始めた。
ああ……私は何てバカだったんだろう。
「ごめん……」
「何がだよ?」
少し見上げた先にある横顔は、別に高校生でも何でもなくて、二十八歳の大人の顔だった。
「私、何もわかってなかったなあって思ってさ」
「今だってわかってねえだろ、桐子は」
「そうだね……あれ、悠さんいつから私のこと、名前で呼んでたっけ?」
ずっと苗字で呼ばれていると思ってたのに。
「お前鈍すぎるから名前で呼んでみたけど。でもまだ気付かないから……もう半分諦めてたんだ」
いつから? なんて聞くだけ野暮だと思った。私は彼の手を開き直して──それから自分の指を絡めて伝えた。
「私……あなたのことが多分、ずっと好きだったよ」
「お互いに相手がいたのに、よく言うよ」
そう言いながらも、耳まで真っ赤にした悠さんは私の髪をくしゃくしゃにした。
それから、周りに人がいないことを確認してから「俺も好きだった」と私だけに聞こえる声で言って、そのまま唇を合わせてきた。
私も悠さんと同じぐらいに真っ赤になっていたと思う。「きっと路上カメラには映ったね」とか「中学生かよ」とか言いながら、私たちは交差点を渡って、マンションへと歩いていった。
****
「課長、先日はありがとうございました」
久々の打ち合わせの席。会議室でこそっと言う私に、上司はにっこりと笑った。
「彼、いい人じゃない」
「え、彼ってもしかして」
「ええ、Aデータ社の」
──悠さんだ。
「ひょっとして、会社に電話してきたんですか?」
「そうよ、先週の金曜日、あなたが昼休憩中にね。私がたまたま電話を取って、それで事情を説明されたのよ」
「あ、そうだったんですか……」
「まあ、万が一ってことでよ。あなたのお見合い相手は、ただの気の小さな、犯罪者と同姓同名の一般人かもしれないけどって、前置きしてたけどね」
「そうですか……悠さんらしいです」
「ふーん悠さんって言うんだ、その彼」
にんまりとする上司に「ええ」と頷いた。
「推名さん、愛されてるわね、悠さん。ええと苗字はたしか……」
「あ、小田前です、小田前さん」
悠さんは悠さんだから学生時代からずっと名前で呼んでいて、忘れかけていたけど──そういえば小田前って苗字だった。
「そう、その小田前さんね、言ってたわよ、推名の個人情報は絶対に他人に渡さないようにしてくれって」
「え……」
「お金なんかじゃかえられないものだから、よろしくお願いしますってね」
そんなこと、絶対に私の前じゃ言ってくれないだろう。
──悠さん、わかりづらいんだよな──。
男のツンデレって、彼みたいな人のことをいうんだろうか。
私の携帯の中にある、一番初めの画像データは──六年前、私と彼で撮ったものだ。
確か彼氏と別れたばかりの私のことを、『フラれた記念だ』と飲みに誘ってくれた帰りに、彼が撮ろうと言ってきた。
彼だって、あのとき内定を取り逃がして彼女と別れたばかりだった。
来月結婚する彼女とは、次の水曜に会うことになっている。
そのときに思い切って、彼とのことを打ち明けてみようか……。
薄いコーヒーを二つ淹れながら、私はぼんやりと考えていた。
10/23:誤字、文末修正。改行調整。