第16話
今日は珍しくひまりが店を予約していた。いつもの騒がしい居酒屋ではなく、大将が一人で切り盛りしている静かな料亭。テレビから一番遠い席でもアナウンサーの声が良く聞こえた。
ここ数日、世間は大量殺人事件の話題でもちきりだった。男女二人組が殺人を繰り返し、死体処理を共謀していた。そんな第一報はあまりにも衝撃的で、普段連絡をよこさない父が電話をかけてくるほどだった。
動機は捜査中とされ、今のところ二人は共犯とされている。しかし、実際はそんなに単純な話ではない。事件の解明が進めば、世間はより大きな問いを投げつけられるだろう。
ひまりは一滴ずつ味わうように日本酒を飲んでいる。いつものお喋りは見る影もなく、テレビをぼんやりと眺めて物思いに耽っていた。
テレビではダイビングスーツを着た警察官が多摩川に飛び込む様子が流れている。あの下に一体どれだけの罪が隠されているのか。ひまりは愛莉との最後の時間について何も話そうとせず、僕も聞かないことにしている。ただ、相当なショックを受けたことは分かっていた。
「私は納得させられなかった」
空の徳利を覗きながらひまりが呟く。僕はたこぶつを口に放り込む。
「難しい問題だと思う。形はさておき、愛莉は社会に見放された子供を助けたんだから」
「あんなの間違ってる」
「そうだけど」
日本酒のおかわりが来るまで、ひまりは頬肘をついて虚空を見つめる。今度は、犯罪心理学の専門家が大量殺人犯に特徴的な性格について解説している。そのどれもが愛莉には当てはまっていないように感じた。
「こんなことを言えば、ひまりに嫌われるかもしれないけどさ」
「なに」
「虐待を受ける子供と虐待する大人がいる状態。その大人が殺され、子供が虐待から解放された状態。どちらがマシかと問われたら、僕は後者を選ぶかもしれない」
正直な感想だった。ひまりはあからさまに嫌そうな顔をする。しかし、僕の感覚では前者を選ぶ人はこの社会で少数だ。
「後者では、一人の殺人者が社会に増えることも付け加えないといけないのよ」
「確かにそうだ。それだと難しくなるね」
「そもそも選択肢がおかしい。どうしてそんな最悪な二択から選ばないといけないの」
私なら別の未来を提示できる。そう言い切れないからこそ、ひまりは渋い顔をしていた。
「絶対間違ってる、絶対に。でもどうしたら」
ひまりは自問自答を続け、一人の世界に没入していく。日本酒は僕が代わりに飲んだ。
全国ニュースから地方ニュースに移っても内容はほとんど変わらない。天気予報までのわずかな時間で、ようやく別のニュースが伝えられた。
都内のマンションで、乳幼児に熱湯をかけるなど虐待を繰り返した二十三歳の男が逮捕された。動機は夜泣きを止めないため、しつけのつもりでやったとのことだった。日常にありふれた事件。愛莉が知れば烈火のごとく怒るに違いない。
結局のところ、社会とはそれを構成する人間の写し鏡である。誰か一人が悩み苦しんだところで、何も解決することはできない。実際、愛莉は社会を治そうとして逆に傷つけてしまった。
ひまりのお猪口を満たしてやると、意識がこちらの世界に帰ってくる。その手にはいつの間にか折り紙で作られたクローバーが握られていた。四枚の葉の大きさがまばらで、出来はそれほど良くない。
「よし決めた」
一口でお猪口を空にしたひまりが大きな声を出す。僕は大将の怪訝そうな視線に気付いていないふりをして、まぐろの刺身を口に運ぶ。その日は、これ以上事件の話題が上がることはなかった。
後日、ひまりのもとに拘置所にいる愛莉から手紙が届いた。そこには愛莉が妊娠している事実と獄中出産の決意が綴られており、僕らは再び衝撃を受けた。
この子をどうか幸せにしてあげてほしい。そんな最後の一文は、ひまりに対する挑戦だった。




