『その竈(かまど)には父の愛が灯る』 【前世で孤独だった私は、不器用な父(ゴブリン)に拾われ、その恩を返すため過酷な辺境を開拓してたら、楽園と呼ばれる領地になっていた。】
初投稿 父と娘(転生者)のサバイバルしながらも愛情ある日常。そんな親子の物語を楽しんでいただければ幸いです ※AIの補助を得て執筆しています
それは衝動的な行動だったのかもしれない。
けれどもう、一人になりたかった。
ゴブリンのグリムは、自分のことを「群れの誰からも必要とされない存在」だと思っていた。
群れでは一番小さく、戦えば負け、逃げることだけが取り柄。
だからなのか、それならいっそ一人で生きていこうと思った。
以前、森の奥で見つけた洞窟そこを住処にしようと歩き続ける。
だが、そんな沈んだ彼の心に追討ちをかけるように雨が降り出し、やがて雷雨になった。
早く洞窟へ向かわなければ。
重りの付いたような足に鞭を打ち、小走りに走り出す。
どれだけ走ったのだろうと、顔を上げたその時。
鮮烈な光、一拍遅れで空が吠える。
一瞬の稲光、その光が照らした先には馬車の残骸、何かに襲われたのか恐ろし気な爪の跡。
その異様さに、後ずさりをした時、不意に泣き声が聞こえた。
本当は今すぐ逃げ出したかった。
だが、不思議とその泣き声が気になり足を向ける。
無残に壊れた馬車の傍らには、既に事切れた母親らしき人に抱えられた赤ん坊がいた。
無意識だった、気が付けばその腕の中に赤ん坊を抱えていた。
ゴブリンの社会に、多種族を守るという発想は存在しない。
だが、空腹で泣きじゃくる赤ん坊を前にしたとき、グリムは初めて『守るべきもの』を手にしたのを感じた。
「……死ぬな。……俺みたいに、なるな」
そっと抱きかかえ直した拍子に、赤ん坊の毛布から、泥にまみれた銀のプレートがこぼれ落ちる。
そこには『アリス』という文字が刻まれていた。
そのプレートを見て、かつて村の外れの茂みから、一軒の店を眺めていた記憶を思い出した。
看板には同じ文字が書かれ、村人たちはそこを「アリスのパン屋」と呼び、親しんでいた。
文字の形が一致した瞬間、グリムは確信した。
この音は「お腹がいっぱいになって、誰もが笑顔になる魔法の言葉」なのだと。
「……あ。……り。……す。……お前、アリスだ」
その名を呼んだ瞬間、赤ん坊は初めて「きゃはっ」と笑った。
グリムは、この子の人生をあのパン屋のように温かいものにすると誓い、銀のプレートを自分の一番硬い角に固く結びつけた。
洞窟の中は、外の雨音を遠ざける代わりに、不気味なほどの静寂と冷気に満ちていた。
グリムは自分の胸元で微かに動く、小さな命の重みに震えていた。
拾ってきたはいいものの、何をすればいいのか、彼には分からなかった。
ふぎゃあ、と。 小さな、けれど鋭い声が洞窟の壁に反響した。
「……ひ、ひぃっ!?」
グリムは飛び上がった。アリスが泣き始めたのだ。
その泣き声は、空腹を訴える切実な叫びだった。
やがて、その泣き声に呼応すかのように魔力が溢れ出す。
アリスの無意識の魔力が、泣き声と共に漏れ出した。
パキパキと音を立てて洞窟の岩肌に亀裂が入り、入り口の岩がいくつか崩れ落ちる。
「ごめん! アリス、ごめん! 今、何か、出す!」
グリムは慌てて、自分が隠し持っていた「宝物」を取り出した。
それは昨日、森で拾った泥だらけの芋だ。
ゴブリンにとってはご馳走だが、彼はそれを自分の服で必死に磨き、アリスの口元へ差し出した。
「……これ、食え。……うまいぞ」
だが、アリスは顔を真っ赤にして、さらに激しく泣き叫んだ。
乳歯すら生えていない赤ん坊に、生の硬い芋など食べられるはずもない。
「……これ、ダメか。……そうだ、人間、白い水、飲む。……知ってる、俺」
グリムは思い出した。村の牧場で、大きな獣の腹から人間が搾り取っていた、あの温かな白い液体——ミルクだ。
しかし、そこに行くには村の境界を越えなければならない。
弱小ゴブリンにとって、そこは死地だ。
「……アリス、待ってろ。……死ぬな。……絶対、持ってくる」
グリムはアリスを毛布に包み、洞窟の一番奥、風の当たらない場所に置いた。
そして、ボロボロの腰布一つで、再び雨の森へと飛び出した。
村の牧場には、巨大な番犬が二頭、闇の中で目を光らせていた。
グリムにとっては、それはドラゴンにも等しい絶望的な怪物だ。
普通なら、影を見ただけで逃げ出す。だが、耳の奥でアリスの泣き声が響いていた。
(俺、逃げない。……逃げたら、アリス、死ぬ)
彼は泥を全身に塗り、息を殺して地面を這った。
番犬が鼻を鳴らし、唸り声を上げる。
グリムは心臓が止まりそうな恐怖の中、牧舎の隅に置かれた山羊の乳の瓶を見つけた。
ガチリ、と瓶が触れ合う音がした。 その瞬間、番犬が吠え、グリムの肩に牙を立てた。
「ぎ、ぎゃああああっ!!」
激痛が走る。肩の肉が食い破られる。
だが、グリムは瓶を離さなかった。村人が松明を持って駆けつけてくる。
石が投げられ、背中に鋭い痛みが走る。
彼は血を流しながら、泥にまみれて森へと逃げ込んだ。
洞窟に戻ったとき、グリムは立っているのもやっとの状態だった。
肩からは血が溢れ、全身が打ち身で紫に変色している。
それでも、彼は瓶の中身を木の器に移すと、それを焚き火のそばでじっと温めた。
「……あ、ちち。……ダメだ。……これ、熱すぎ」
自分の指で何度も温度を確かめる。
熱すぎればアリスが火傷をするし、冷たければ腹を壊す。
ちょうど人肌の温かさになったのを確認し、彼は震える手でアリスの頭を支え、慎重にその唇へ器を寄せた。
「……飲め。……ゆっくり、飲め。……アリス」
アリスは、差し出された温かな液体を夢中で啜った。
ごくごく、という小さな音が洞窟に響く。
やがてお腹がいっぱいになったアリスは、満足げにふぅと息を吐き、グリムの指を握ったまま、すやすやと眠りに落ちた。
「……ふ。……ふふ」
グリムは、自分の傷の痛みも忘れ、泥と血で汚れた顔を歪めて笑った。
暗い洞窟の中。 自分の命を削って手に入れた一瓶のミルクが、この子の未来を繋いだ。
その事実それだけで、グリムの心は満たされていた。
アリスが成長し、乳だけでは足りなくなった頃,グリムは「お粥」という存在を村の窓越しに知る。
だが、道具も知識もない彼は、自分の牙でドングリを石で細かく砕き、水を加えて練る。
それを木の皮に包んで蒸すという、あまりに原始的で、しかし愛情に満ちた方法で食事を作った。
あの日拾われてから、二年の月日が流れた。
それは、アリスの中に眠る「前世」が目を覚ますのに十分な時間だった。
朧気だった記憶の靄も徐々に晴れてきていた。
前世の記憶を持つ彼女は、目の前の「緑色の化け物」が、自分のために自分の食事を削り、ボロボロになりながら、口当たりの良いものを探してきていることに気づいていた。
(お父ちゃん……。それは毒のある実だよ。食べちゃダメ。……ああ、また食べてお腹壊してる……)
グリムは、アリスに食べさせる前に必ず毒味をした。
ゴブリンの頑丈(だけが取り柄)な消化器を頼りに、彼はあらゆる野草を齧り、何度も高熱を出して寝込んだ。
アリスはその度に、拙い魔法で彼の額を冷やした。
「……アリス。……これ、甘い。……うまいぞ」
彼が差し出したのは、彼が崖から落ちて片脚を引きずりながら採ってきた、森で一番甘い木の実だった。アリスはそれを口にし、涙を流して笑った。
アリスが五歳になった頃。彼女はすでに、父であるグリムよりも高い魔力を制御し始めていた。
ある日、グリムはアリスを喜ばせようと、崖の上に咲く「蜜の花」を採りに行き、足を滑らせて滑落した。
傷だらけで帰宅したグリムの手には、無残に潰れた花びらが握られていた。
「……ごめん、アリス。……うまく、採れなかった」
グリムは情けなさに涙をこぼした、自分は弱い娘に美味しいもの一つ満足に食べさせてやれない。
だが、小さなアリスは、父の泥だらけの手を取り、その潰れた花びらを口に運んだ。
「……おいしいよ、おとうちゃん」
そしてアリスは、傷だらけのグリムの指に、優しく魔法をかけた。
「痛いの、飛んでけ」 それは彼女が初めて自発的に使った「治癒魔法」だった。
グリムは驚き、そして娘を抱きしめた。
この子はいつか、自分のような者の手には負えないほど立派な人間になるだろう。
けれど、今はまだ、この冷たい洞窟で、不器用な「あーん」を繰り返す時間が、世界で一番尊いものだった。
その夜、森は不思議なほど静まり返っていた。
洞窟の入り口から差し込む月光が、岩肌を青白く照らし、パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが響いている。
アリスは、グリムの膝を枕にして横たわっていた。
グリムは、自分のゴツゴツした指でアリスの柔らかな銀髪を梳いていた。
ゴブリンの爪は鋭いが、アリスに触れる時だけは、彼は細心の注意を払ってそれを引っ込める。
それは壊れ物を扱うような、あるいは自分には勿体ない宝物に触れるような、祈りに似た手つきだった。
「ねえ、お父ちゃん」
アリスが月を見上げたまま、小さな声を出した。
その瞳には、五歳児には相応しくない、遠い場所を見つめるような憂いが宿っている。
「……なんだ。……アリス。……眠く、ないのか」
「うん。……ちょっとだけ、不思議な話をしてもいい?」
グリムは首を傾げた。彼にとって、この娘の存在そのものが不思議の塊だ。
「……いいぞ。……お父ちゃん、聞く。……全部、聞く」
アリスは少しだけ躊躇するように唇を噛んだ。
けれど、自分を支えるこの緑色の大きな手が、どれほど不器用で、どれほど温かいかを感じると、自然と言葉が溢れ出した。
「私ね……今の私になる前、別の場所にいたの。ここじゃない、もっと空が霞んでいて、夜でも太陽みたいに明るい、変な場所」
グリムの動きが止まる。彼の理解の範疇を超えた話だった。
「別の、場所……。……遠い、村、か?」
「ううん、もっと遠い。そこではね、私は毎日、鉄の箱に乗って、窓のない大きな建物に行って、夜遅くまでずっと『仕事』っていうのをしていたの。お父さんもお母さんもいなくて……誰も、 私が今日何を食べたか、なんて聞いてくれない場所」
アリスは、前世での孤独な社畜時代の記憶を、幼い言葉に変換して語った。
数字に追われ、他人の顔色を伺い、冷えたコンビニ弁当を一人で頬張っていた、灰色の毎日。
「そこではね、誰も私を助けてくれなかった。……だから、あの日、お父ちゃんが私を拾ってくれた時、本当にびっくりしたんだよ。だって、お父ちゃんは自分もお腹が空いているのに、私にミルクをくれたから」
アリスがグリムの手をぎゅっと握りしめる。
「お父ちゃんは、私が泣くたびに、自分の傷だらけの体なんて気にしないで、一生懸命お粥を作ってくれるでしょ? ……あんなに温かいもの、私、前の世界でも食べたことがなかったんだよ」
グリムは、アリスの話の半分も理解できていなかった。
「別の場所」がどこなのか、アリスが何を言っているのか、彼には想像もつかない。
ただ、一つだけわかったことがある。
この賢くて美しい娘は、かつて、悲しくて寂しい思いをしていたのだということ。
「……アリス。……難しい、話。……よく、わからない」
グリムは不器用に、けれど包み込むような優しさで、アリスの小さな肩を叩いた。
「……でも。……お父ちゃん、ここに、いる。……お前を、拾った。……お前が、泣けば、お粥、作る。……ずっと、作る」
グリムにとっての真実はそれだけだった。
娘がどこの誰であったかなど、どうでもいい。
今この腕の中で体温を分け合っている小さな命が、二度と寂しい思いをしないように、明日も森へ行って食べ物を探す。
それだけが、彼の生きる理由だった。
「……そっか。そうだよね」
アリスは、前世の重い記憶が、焚き火の煙と一緒に空へ消えていくような感覚を覚えた。
転生者としての叡智も、巨大な魔力も、このゴブリンの父親の前では何の意味も持たない。
ただ、「愛されている」という事実だけが、彼女の心を黄金色に染め上げていく。
「お父ちゃん。明日の朝ごはんは、またあの『ドングリの蒸しパン』がいいな。……ちょっと苦いけど、私、お父ちゃんの味が一番好きなの」
「……ああ。……焦げないように、焼く。……お父ちゃん、頑張る」
グリムの答えを聞きながら、アリスはゆっくりと目を閉じた。
洞窟の外では、夜の風が木々を揺らしている。
けれど、この暗くて狭い岩穴の中だけは、世界で一番温かい、安らぎの光に満ちていた。
さらに数年が経ち、アリスは立派な冒険者として街へ出るようになる。
彼女はどんな強敵に勝っても、豪華な褒賞をもらっても、夕暮れ時には必ずあのボロい洞窟へ帰る。
グリムは今でも、震える手でパンを焼いている。
「……おかえり、アリス。……今日の、ご飯は。……うまく、焼けたぞ」
アリスは微笑み、父の隣に座る。
彼女を最強にしたのは、才能ではない。
自分よりも弱く、臆病で、それでも娘のために泥を啜り、震えながら離乳食を作ってくれた
「世界一弱い、お父ちゃん」の献身が、彼女の心の根幹を創り上げたのだ。
アリスが二十五歳になった頃。
彼女は「銀閃の死神」として名を馳せていたが、未だに父グリムとの生活は不安定なままだった。
――魔物と人間。
その境界線に住む二人を、世間は放っておかなかった。
ある日、アリスの留守中に冒険者崩れの男たちが洞窟を襲い、グリムはアリスが大切にしていた「思い出の鍋」を守ろうとして、深い傷を負ってしまう。
「……ごめん、アリス。……俺が、弱い、から。……家も、守れない」
血を流しながら謝る父の姿に、アリスは涙が枯れるほどの怒りと、それ以上の決意を抱いた。
彼女は王都へ向かい、ギルドと国に対し、最も困難な依頼を提示した。
「北の『絶望の原生林』を私が単独で開拓する。魔獣を払い、街道を通し、人が住める土地にする。……その代わり、開拓した土地のすべてを私の私領とし、父を害する者の立ち入りを永久に禁ずる。その権利を、王の名で保障しなさい」
そこは、凶暴な魔獣と呪われた植物が支配する、歴代の騎士団さえ匙を投げた死地だった。
国側は「勝手に死ぬがいい」と高を括り、その無謀な挑戦を許可した。
アリスとグリムの、二人きりの開拓が始まった。
アリスが魔剣で巨大な樹木をなぎ倒し、襲い来る魔獣を討伐して安全を確保する。
その後ろを、グリムが不自由な足を引きずりながら、ボロボロの鍬で土を耕し、岩を退けていく。
そんな二人のもとに、最初の「住人」が現れたのは開拓を始めて数ヶ月のことだった。
それは、人間に住処を追われ、飢え死に寸前だった子連れのオークの母子だった。
アリスは当初、父を守るために剣を抜いたが、グリムがその震える手でアリスの腕を止めた。
「……アリス。……待て。……この子、お腹、空いてる。……昔の、お前、みたいだ」
グリムは自分が食べるはずだった、貴重な「ドングリの蒸しパン」を、おずおずとオークの子供に差し出した。
魔物であるオークにとって、ゴブリンは格下の存在だ。
しかし、泥まみれで笑うグリムの姿に、オークの母親は声を上げて泣き崩れた。
それからだ。アリスの強さに縋り、あるいはグリムの噂を聞きつけた者たちが、一人、また一人と森へ迷い込んできたのは。
徴兵から逃げ出し行き場を失った人間の兵士、角を折られ群れを追われた亜人の戦士、そして親を亡くした孤児たち。
アリスは彼らに冷たく言い放った。
「ここに居たいなら、働きなさい。父の邪魔をする者は、私がこの手で細切れにする。……でも、父の手伝いをするなら、屋根と食事は保証するわ」
開拓地は、いつしか奇妙な活気に包まれていった。
アリスが森の奥で巨大な獲物を狩ってくると、亜人たちが手際よく解体し、人間の脱走兵が火の番をする。
そしてその中心には、いつもグリムがいた。
彼は言葉こそ拙いが、種族の壁を越えて、誰にでも分け隔てなく、食事を振る舞った。
「……これ、食え。……元気、出る。……アリスが、獲った、肉だぞ」
差別され、泥を啜って生きてきた亜人や人間たちにとって、自分たちを「戦力」や「奴隷」としてではなく、ただの「家族」として扱うグリムの存在は、救いそのものだった。
彼らはアリスを「最強の領主」として敬い、グリムを「大旦那様」と呼んで慕った。
泥まみれの開拓地は、もはやただの作業場ではない。
どんな差別からも切り離された、世界で唯一の『聖域』へと姿を変えていった。
三年が経った。
死地と呼ばれた森には、アリスが切り拓いた真っ直ぐな街道が通り、グリムと仲間たちが耕した豊かな畑が広がっていた。
国側は、アリスが本当に開拓を成功させたこと、そしてそこが「魔物と人間の混成部隊」による最強の要塞と化していることに驚愕し、ついに彼女に「領主」の称号と自治権を与えざるを得なくなった。
新しい街『グリム・テラス』の誕生である。
領主館のテラスで、立派な服を着せられたグリムは、相変わらずオロオロしながら、住人たちに自分が育てたジャガイモを配り歩いた。
「……これ、うまいぞ。……みんなで、作った、土の、宝物だ」
かつては番犬一匹に怯えていた小さなゴブリンが、今や数千人の「除け者たち」の父親代わりとなっていた。
アリスは、そんな父の誇らしげな背中を眺めながら、かつて洞窟で交わした約束を思い出していた。
「お父ちゃん、見て。……もう誰もお父ちゃんを汚いなんて言わない。
ここは、世界で一番温かい、お父ちゃんの家だよ」
年月は残酷に流れ、アリスの時間は止まったかのように若いままであったが、ゴブリンであるグリムの身体には、その寿命の限界が刻一刻と刻まれていた。
かつて泥にまみれて崖を登り、娘のためにハチの巣を奪った屈強さは消え、今やベッドに横たわるグリムの身体は驚くほど小さく、軽くなっていた。
窓の外では、黄金色に輝く夕陽が街を照らしている。
アリスは領主としてのすべての執務を放り出し、父の枕元に椅子を引いて寄り添った。
その手には、一口分だけ丁寧にすり潰されたジャガイモのポタージュが握られている。
「お父ちゃん、あーん。……これ、お父ちゃんが一番こだわってた、北側の畑のジャガイモだよ。今年のは、格別に美味しいよ」
アリスが震える声でスプーンを差し出すと、グリムはゆっくりと、力なく口を開けた。
ポタージュを飲み込むその喉の動きさえ、今の彼には大仕事だった。
「……ああ。……うまい。……アリス。……お前の、スープ、世界一、だ」
グリムの視界はもう、ほとんど何も見えていなかった。
目の前にいるのが、美しい銀髪の大魔導師なのか、それともあの雨の日に拾った小さな赤ん坊なのか、彼には区別がつかない。
ただ、口の中に広がる温かさと、自分の手をぎゅっと握りしめる、あの頃と変わらない娘の熱だけが、彼の生命を繋ぎ止めていた。
「ねえ、お父ちゃん。覚えてる? 洞窟で食べた、あの焦げたドングリパンのこと。あの時、私にお粥をくれたから、今の私がいるんだよ。お父ちゃんがいなかったら、私は……」
アリスは言葉を詰まらせ、グリムの節くれ立った、切り傷だらけの手を自分の頬に寄せた。
ゴブリンのゴツゴツとした皮の感触。それは、自分を守るために番犬に噛まれ、ハチに刺され、岩を運び続けた「父の勲章」そのものだった。
「……アリス。……泣くな。……俺は、幸せ、だった。……お前が、一口、食べるたびに。……俺、お腹、いっぱい、だった」
グリムは微かな力を振り絞り、アリスの頭を撫でようとした。
指先が彼女の髪に触れた瞬間、彼は満足そうに目を細めた。
「……外に、誰か、いるのか……?」
「……うん。街のみんなだよ。みんな、お父ちゃんのご飯を食べて育った人たちが、お父ちゃんにお礼を言いに来てるの」
部屋の外、廊下や庭には、種族を超えた何百もの民が静かに跪き、自分たちを育ててくれた「大旦那様」の最期に祈りを捧げていた。
グリムは最期の力を振り絞り、アリスの耳元で囁いた。
「……アリス。……みんなを、お腹いっぱいに、してやれよ。……食べれば、元気、出る。……仲良く、なれる……」
それが、 グリムの最期の言葉だった。
夕陽の光の中、彼はかつて角に結びつけた銀のプレートに触れながら、静かに息を引き取った。
握られていた手の力が、ゆっくりと抜けていく。
夕陽の光が部屋をオレンジ色に染め、静かな眠りが彼を包み込んだ。
アリスは父の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
数か月後。アリスは街の中央広場に、一つの像を建てた。
それは、誇らしげな領主の姿ではなく、ボロボロの布を纏い、大切そうに赤ん坊を掲げる不格好なゴブリン『開拓者グリム』の姿だった。
そしてアリスは、父の遺言通り、その像の足元を巨大な「竈」へと変えた。
そこは『グリムの台所』と呼ばれ、火が絶やされることはなかった。
身寄りのない子供、飢えた人々が集まれば、街の人々が当然のように温かい食事を分け与える。
アリスは、像の下で楽しそうにパンを齧る子供たちを見つめながら、静かに微笑む。
「お父ちゃん、見てる?。ここは、誰もお腹を空かせない、世界一温かいあなたの庭だよ」
彼女を最強にしたのは、才能ではない。
自分よりも弱く、臆病で、それでも娘のために泥を啜り続け、最期には世界を温める大きな竈となった、たった一匹の「お父ちゃん」の献身だった。
そして今日も、「グリムの台所」は皆の腹を満たしていく。




