第2章:時間と空間の歪み - 宇宙の孤独と倦怠
火星周回軌道に「ヘリオス号」が投入されてから数日が経った。窓の外には、息をのむような火星の姿が広がっていた。一面に広がる赤茶色の荒野には、地球では考えられないスケールの巨大なクレーターや、太古の水の痕跡を思わせる乾いた河床が網の目のように刻まれている。北半球には、かすかに白い氷冠が輝き、かつてこの惑星が、今とは全く異なる姿をしていたであろうことを示唆していた。しかし、その壮大な眺めも、やがてクルーたちの日常風景へと溶け込んでいった。
宇宙生物学者のアイシャ・カーンは、毎朝決まって窓にへばりつき、火星の表面を飽きることなく観察していた。彼女の瞳は、好奇心と感動で輝いていた。彼女の人生のすべてが、この赤い惑星の謎を解き明かすために捧げられてきたのだ。エリジウム平原の広大な平坦地は、彼女たちの着陸予定地だ。そこには、地下に大量の氷が存在する可能性が示唆されており、ISRU(現地資源利用)による水資源の確保が期待されていた。
「司令官、今日はエリジウム平原の最新の地形データを解析してみます。ひょっとしたら、まだ誰も気づいていない水の痕跡があるかもしれません。」アイシャは、司令官のアレックス・モロゾワに興奮気味に報告した。
「頼むぞ、アイシャ。君の鋭い視点に期待している。」アレックスは、いつものように落ち着いた声で答えた。彼女自身も、火星の神秘には心を奪われていたが、司令官としての職務は、その感動に浸ることを許さなかった。彼女の頭の中は、常にクルーたちの健康と安全、そしてミッションの成功で満たされている。
宇宙飛行の中期に入ると、クルーたちは、長期間の閉鎖環境がもたらす心理的ストレスに、徐々に直面し始めていた。特に、地球との通信遅延は、彼らの精神に大きな影を落とし始めていた。火星への距離が増すにつれて、通信の遅延は顕著になっていた。当初は片道3分だった遅延が、今や22分に達していた。リアルタイムでの会話は完全に不可能だ。彼らは、ビデオメッセージを送り合い、返事が来るまでの数十分間、焦燥感に苛まれるようになった。
ある日の夕食時、地質学者でロボティクス専門家のカルロス・ガルシアが、いら立ちを隠せずに言った。「もう勘弁してくれよ。母さんからの返事が3時間も来ないんだぞ。何かあったんじゃないかって、気が気じゃない。」
副司令官のジェイク・コナーズが、彼の肩を軽く叩いた。「カルロス、落ち着け。地球管制も家族も、みんな無事だ。ただの電波の時間差だよ。」
「わかってるさ!だが、この**『地球から切り離された感覚』**が、俺を狂わせるんだ。」カルロスは、フリーズドライのミールをフォークで突きながら呟いた。彼の普段の陽気さは、影を潜め始めていた。
ミーナ・タケダは、そんなカルロスの様子を注意深く観察していた。彼女は宇宙生物学者であると同時に医療担当官として、クルーたちの生理的・心理的状態を常にモニターしている。彼女のタブレットには、各クルーの心拍数、睡眠パターン、さらには声のトーンの変化までが記録されていた。モスクワの「MARS-500実験」や、ハワイの「HI-SEAS」など、地上模擬閉鎖実験で観察された**心理状態の周期的な変動(初期高揚→倦怠→苛立ち→再安定)**が、現実のクルーたちにも表れ始めていることを、ミーナは感じ取っていた。彼らは、最初の数週間の「初期高揚」を終え、今は「倦怠」のフェーズへと移行しつつあった。そして、それがやがて「苛立ち」へと変わる可能性を、ミーナは恐れていた。
単調な生活も、彼らの精神を蝕む主要因だった。毎日同じ景色、同じ音、同じ人間関係が続くことで、**「感覚遮断症候群(sensory deprivation)」**の兆候が見られ始めていたのだ。船内は、白と中間色で統一され、心理的な閉塞感を軽減するようデザインされているとはいえ、数カ月間も地球の自然な刺激から隔絶されることは、人間の精神にとって大きな負担だった。
カルロスは、作業中に流すBGMの選択について、他のクルーと衝突することが増えた。彼は常にアップテンポなロックを好んだが、イブラヒムは静かなアラブ音楽を、ミーナはクラシックを求めた。些細なことだが、それが彼らの間の小さな火種となっていた。
アレックスは、心理的なストレス軽減のため、さまざまな工夫を凝らした。アロマセラピー用のディフューザーを共有スペースに設置し、森林の香りや柑橘系の香りを漂わせた。また、週に数回、全員でマインドフルネスの時間を設け、瞑想を促した。しかし、全員がそれに協力的というわけではなかった。
「VRで地球の海を見る時間だぞ、カルロス。」ジェイクがVRゴーグルを差し出した。
カルロスは、しぶしぶゴーグルを装着した。画面には、青い地球の波打ち際が広がり、潮騒の音が聞こえてくる。彼はしばらくその光景に没入していたが、やがてゴーグルを外した。「……結局、偽物じゃないか。触ることもできない、潮の匂いもしない。余計に寂しくなるだけだ。」
ジェイクは、カルロスの言葉に何も言えなかった。彼自身も、夜中にふと孤独を感じ、故郷のテキサスの広大な牧草地を思い描いては、現実とのギャップに寂しさを募らせることがあった。
そして、最も根深い**“見えない恐怖”が、クルーたちを蝕み続けていた。宇宙放射線だ。ミーナは、毎日、放射線線量計のデータを監視し、顔をしかめていた。船外のセンサーが捉える銀河宇宙線(GCR)**は、地球の磁場の防護がない深宇宙では、まさに容赦ない脅威だった。
「被曝線量の累積が、予測曲線よりもわずかに上回っています。このままでは、6か月間の航海で0.5〜1シーベルトに達する可能性があります。これは、地球でのCT検査500回分以上に相当します。」ミーナが、ブリーフィングで報告した際、クルーたちの間に、重い沈黙が流れた。
ジェイクが眉をひそめた。「そんなに高いのか?身体にどんな影響があるんだ?」
ミーナは、ためらいながら説明した。「長期的ながんリスク増加は避けられません。短期的な影響としては、中枢神経系への影響(集中力低下、記憶障害、抑うつ)、そして白血球数減少などが指摘されています。まだ具体的な兆候はありませんが、警戒が必要です。」
カルロスは、両手で顔を覆った。「まさか、そんなことになるなんて……。」
イブラヒムが、静かに言った。「**放射線遮蔽材(ポリエチレン、液体水、局所的な“ストームシェルター”)**は、搭載されているが、ミーナの言う通り、根本的な遮蔽は困難だ。宇宙線は、質量を持つものは何でも貫通する。」
ある日、船内に激しいアラートが鳴り響いた。太陽の活動モニターが、強烈な**太陽フレア(SEP)**の発生を予測したのだ。
「全員、ストームシェルターへ退避!急げ!」アレックスが、冷静ながらも緊急を要する声で指示した。
クルーたちは、ヘリオス号の中央部にある、最も厚い遮蔽が施された狭い区画へと急いだ。そこは、水タンクと頑丈な壁に囲まれた、わずか数平方メートルの空間だ。6人が身を寄せ合うと、文字通り身動きが取れない。
シェルターのハッチが閉められ、暗闇と密閉された空間に、彼らの息遣いだけが響いた。外では、高エネルギー粒子がStarshipの機体を激しく叩きつけている音が、微かに聞こえるような錯覚に陥る。ミーナは、シェルター内部の簡易線量計を監視していた。数値は、ゆっくりと、しかし確実に上昇している。
「どれくらい続くんですか、司令官?」アイシャの声が震えていた。
「分からない。太陽の活動次第だ。」アレックスは、静かに答えた。彼女の心臓も、不安で激しく鼓動していた。この狭い空間で、いつ本物のフレアが来るか分からないという心理的重圧は、計り知れない。
数時間が経過し、線量計の数値が低下した。アレックスがハッチの開放を指示した時、クルーたちは、解放されたかのようにシェルターから飛び出した。だが、その顔には、見えない脅威に対する深い疲労と、無力感が刻み込まれていた。
長期の閉鎖環境と、放射線という見えない恐怖は、クルー間の人間関係にも影響を及ぼし始めていた。NASAの行動健康とパフォーマンスプログラムで訓練されたにもかかわらず、彼らは皆、人間だった。
カルロスは、単調なルーティンと閉鎖感から来る苛立ちを募らせ、ジェイクの楽天的な態度に反発することが増えた。
「ジェイク、お前はいつもヘラヘラ笑ってばかりで、この状況の深刻さが分かってないのか!」カルロスが、突然ジェイクに食ってかかった。
ジェイクは、いつもの笑顔を消し、真顔で答えた。「深刻さは分かっているさ。だからこそ、俺は笑っているんだ。笑わなきゃ、やってられないだろうが。」
二人の間に、険悪な空気が流れる。イブラヒムは、静かに二人の間に割って入ろうとしたが、カルロスはそれを払いのけた。
ミーナは、そんな衝突を見て、自身の感受性の高さから、他のクルーたちの負の感情を強く感じ取り、抑うつ状態に陥り始めていた。睡眠障害や食欲不振の兆候が見られ、彼女自身もまた、この閉鎖空間の犠牲者となりつつあった。
アレックスは、チームの分裂を何よりも恐れていた。文化的多様性やパーソナリティの相性が、プラスにもマイナスにも作用する。彼女は、対立回避の訓練で学んだ技術を駆使し、二人の間に割って入り、何とか事態を収拾した。しかし、彼女自身の内面にも、孤独感と責任の重さからくる疲労が蓄積していることを、彼女は自覚していた。夜、自室で一人、アレックスは、地球の家族からのメッセージを何度も見返した。その声が、遠い過去からの響きのように聞こえた。
火星への旅は、まだ続く。この深淵の航海は、単なる技術的な挑戦ではなく、人間の身体と精神がどこまで耐えられるかという、究極のテストだった。「火星へ行けるか」という技術的な問題は、今や「火星まで人間性を保って行けるか」という、より根源的な問いへと変貌していた。クルーたちは、この見えない戦いを、それぞれの方法で続けていた。