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その若い娘は宮部亜樹だ。
以前の接触事故を教訓に、ナノンの作用で顔も身体も変えていたが、わたしの中の安伸の部分が彼女の女に反応してしまったようだ。舌が渇いて動きが取れなくなる。
「最後の仕掛けだよ」
小鬼が言う。
今では、この時空でのスタイルらしい黒服の男の姿が九割以上明確になっている。
「きみのその反応も食事のうちだ」
にやりと笑うと小鬼が完全に実体化する。
「数世紀振りに――といってもきみたちの時間線とは異なるが――美味な食事にありつけるよ。喜ばしいことだ」
そこで、わたしが息を吐く。
「残念だったな」と、わたしは言う。
未だ身体は硬直している。小鬼は先にわたしが撃った局所時空固定化銃の作用で完全にこの時空に固定されている。だから再度銃からエネルギービームを浴びせかければ、ガラスのような脆弱構造に改変でき、破砕することも可能さえ可能なのだ。まさにこの時空に所属する構造物=燃えないゴミとして……。
しかし――
「残念? ふむ、どういう意味かね」
小鬼が少しだけ訝しむ。
「おまえには、おれの心の中まで見えないだろう。推定だけがすべてじゃないのさ!」
やっとのことで、わたしが言う。それだけいえば充分だ。
とたんに小鬼全体の表情が変わる。
だが手遅れだった。
ボ ン !
煙に包まれ、瞬間的に小鬼が縮小&ガラス化する。
「まいったねェ。……どうして奴に見えないってわかったんですか、旦那?」
びっくりして呆然とその場に佇んでいた娘の肩に手をかけると、メドルが訊ねる。反対の手に銃を持っている。いくらナノンの仕掛けとはいえ、これじゃただの変身ロボットだ。
「こいつが本当は実体じゃないからだろう。たぶんね……」
やっと身体の自由が利くようになったわたしが首をまわして凝りを解しなら答える。
「推定事象から現実への侵略さ。だから予想できなかったことは見えないんだ……かどうかはわからんがね」
「あの、わたし?」
「映画の撮影だとでも思えばいいさ。それともチンケなヴィデオか?」
わたしが娘にそう説明する。すると娘がコクンと首肯く。
「あるいは、起こったことは起こらなかったとか……」
固まった小鬼は美しい。憎悪でも感情だから綺麗なのか? あるいは、こいつが喰うことによって彼らの憎悪が浄化されたからか? 数ある小鬼の中にはそういった性質=消化――あるいは昇華?――構造を持つものもいるらしい。小鬼について人類はまだ何も知らないのだ。実は無意識と同じく、われわれ人類にとって近しい存在かもしれないのに……。
「事後処理にかからなくちゃな」
ぐるりを見渡すと、わたしが言う。
メドルはすでに持ってきた檻=時空封鎖網に掌大となった小鬼を収納している。
「申し訳ないが、出遭いがなかったことにするのが、いちばん不具合が生じないだろう」
一万分の一秒だけこの時空からずれて固まっている、男ひとりと女三人を見やって、わたしが言う。
「亜樹ちゃんはどう思う?」
「忘れることは幸せじゃないよ」
「そりゃ、ま、そうだ」
しかし、わたしは小鬼の餌になることで、すでに救済されている。奴は自分に対するわたしの憎しみさえ喰ってしまっていたのだ。もっとも、それは次回の対決に対する奴独自の安全弁だったのかもしれないが……。
「新藤愛美」
「え?」
「きみが、かつて怪我をさせた人の名前だよ」
「死んでいなかったの?」
「だが記憶を失った」
「いずれ、思いだすんでしょうね」
「おそらくね。だが、きみに引き受ける気があるなら、それは変えない」
亜樹は即座にコクリと首肯く。
「わかったわ」
「話ばっかりしてないで少しは手伝ってくださいよ。ねえ、旦那」
「ああ、悪かった」
西森雅彦はすでに内藤高志ではなくなり、この場から戻されている。矢崎美和は嶺村麗子と分離され、すでに惨劇の痕跡さえ消されたこの部屋に残される。仁科琉里のアパートに小鬼からの電話はかかって来ず、中原真希子との歓談はあの日の深夜まで続く。
日常は修復されたのだ。