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調教は、まったく失敗に終わった、と熱いシャワーを浴びながら矢崎美和は思う。
嶺村麗子と内藤高志いう別人格まで設定し、時間と金をかけたにもかかわらず、西森雅彦は結局ただの気弱な青年に戻ったのだ。
「まいったわね」
それが美和の実感だ。
保険の外交をしながら目をつけておいた結婚願望のある女まで抱かしてやったのに、意気地なしの男め!
もっとも雅彦に意気地があれば、彼を調教することなど美和にはできなかっただろう。
「ほんっとに、まいったわね」
そう呟いて美和が溜息を吐く。
逸材だと思ったのだ、雅彦を見つけたとき。それは美和の直感だ。加えて雅彦は美和好みのきれいな顔立ちと肢体をしている。いわゆる、すらりとした醤油顔の持ち主で、中国人の若者のように身体が細くて足が長い。
結局、惚れてはいたんだ、わたしは、あいつに……。
が、仕事で出向いた先の自然公園で知り合って簡単に口説き落とし、自分の資金持ちでデートを繰り返すうち、美和は雅彦に我慢のならない苛立ちを覚えるようになってしまう。とにかく優柔不断なのだ。自分ひとりでは何ひとつ決められない。レストランでの食事も、ベッドでの体位も、すべてについて美和がお膳立てをしなければならない。
美和がマインド・コントロールに興味を覚えたのは、そんなときだ。勘のいい美和は数冊の本を読んだだけで、その基本的極意を理解する。そして雅彦の劣等感と裏腹の願望を巧みに操りながら彼に別の人格を与えていったのだ。
最初はゲーム感覚でしかない。もっと簡単にいえば、ごっこ遊び。赤ん坊から雅彦を育て直すために、いやいやながら、子供をあやす母親の役までこなしている。
作業は楽しいし、美和に十分な満足を与える。けれども、ときとして恐怖を感じさせられる瞬間もある。与えてもいない命令を雅彦が実行し、それが自分の狙いから微妙に外れ、しかも予想以上にその行為が自分を満足させる結果を生み出したときなどだ。ずれの快楽。予想される相手の動きと、それを期待する自分の感情との相互関連のない微妙な食い違い。
「まるで、だれかに糸を引かれているようだ」
そんな瞬間、美和はいつも心でそう感じている。
所詮、心理学には素人でしかない自分が雅彦を操れたのだ。少なくとも昨日までは完璧に……。だからこそ彼女は自分の存在を離れた何者かの介在を感じられずにはいられなかったのだ。それが何であるかは見当がつかない。しかし、それが人の心の中に潜む何かであることは直感的にわかっている。
――と、そのとき、
「え、なに?」
シャワー室の鏡の中を何かが通り過ぎていく。
黒い服を来た何者かだ。