10
あの音には聞き憶えがある、と中原真希子が思う。電車の音が聞こえてくる。駅はすぐ近くだ。
(琉里は変に思わなかったかしら? でも今のわたしにとっては、こっちの方が大切)
それは電車の走る音だ。アパートの窓から入ってくる湿った夜の街の音。矢崎美和のアパートで何度も何度も聞いた音。
その環境音がわたしを狂わせた張本人。
最後に美和の声を聞いてから二ヶ月経っている。思いだしたくもない声だ。戸口に立ったとき、アパートの外にまで洩れてきたあえぎ声。しかも相手は男だったのだ。男にしては妙に甲高かったが、しかしそれは紛れもなく美和と快楽をともにしている男のあえぎ声。
殺してやる!
そのとき本当にそこまで思いつめたかどうか、真希子には実はわからない。けれども、それに近い感情を抱いたことだけは間違いない。
真希子は意を決し、矢崎美和の住む安アパートのドアを開ける。中にいた男女が真希子に気づくまで数秒の間がある。その間に真希子は美和の乗るベッドまで辿りつき、呆然とした男女が意味のある言葉を発する前に二人の頬を張りとばすと踵を返し、その部屋を去る。頬が悔し涙に濡れている。
今にして思えば、美和がバイセクシャルだったと推定できる断片はいくつも思いつく。きれいならば、と但し書きはついたが、美和は筋肉質で痩せた男の裸体を好きだと言っていたし、伝統的な家父長制度に支配されたいという類ではなく、純粋に頭が悪くても、きれいな男は許せるとも言っていたからだ。しかし、そう思い至ったところで真希子には美和に裏切られたという感情を消すことができない。
けれども、もっと悔しかったのは自分が美和から与えられた快楽を決して忘れることができないだろうという想いだ。美和と幸せに、そして狂おしく睦みあうとき、そこに環境音楽として電車の音が漂う。実際には幻聴だったのかもしれない。初めて美和のアパートを訪れたときの印象が自分に聴かせた音。が、仮にそうだとしても、その音が美和との記憶に密接に結びついていることは否定できない。
(さて、着いちゃったわね。どうしようかしら……)
矢崎美和の住んでいるアパートの二階部屋の窓を見上げながら中原真希子が思う。冬なので窓は閉まっていたが、電灯の明かりは点いている。