第二話 キズあり令嬢
クレアは、きらびやかに着飾った人たちを少し離れた所から眺めながら、大きなため息を吐いた。
それはこの場ではすべきでないことだとクレアにも分かっていたけれど、このような華やかな場で完全に気後れしてしまって壁の花になっている彼女がそうしたところで、誰も見てはいない。
彼女が正式に社交界にデビューしたのはもう四年も前になるが、その時の夜会は領地が近い伯爵家で催された少人数のものだった。クレアはこの日参加しているような王都で開かれる大規模な夜会にはほとんど出たことが無かった。
母は恐らくクレアを人前に極力出したくないし、結婚もさせたくないのだと思う。母に言わせれば、クレアは不吉な娘なのだそうだ。もし結婚相手が見つかったとしても、そんな娘は離縁されるはずだから家の恥になる。クレアは聞き飽きるほど、母がそう言うのを聞いてきた。
母がそう考えている理由は、クレアが遠目でも分かるほど大きな傷跡を持っているからだ。左腕にあるそれは、普段は服で隠せるけれど、夜会ではそうはいかない。夜会では肩を出したドレスを着るものと決められている。
そんな中、二の腕に傷跡のあるクレアは、長い手袋をつけるしかない。そして、クレアにお金はかけられないと既製品しか買い与えられないので、クレアの細身の体にはそれは大きすぎて、終始手袋を気にしていることになる。
万が一誘われたとしてもダンスをするなどもっての外と母にも言われていた。手袋がずれて傷跡が見えたら、お相手が不快な思いをするからだそうだ。
ダンスに誘っても応じない、会話をしていても手袋ばかりが気にして上の空。そんな令嬢と距離を詰めようとする人などいない。だから彼女が壁際にいるのはいつものことだった。
ごく稀にクレアに好感を持ってくださる年上のご婦人方との挨拶を終えると、ただ誰の目にも見えていないかのような、孤独の中で時間を過ごす。それがクレアにとっての夜会での通常通りの行動だった。
そんなクレアに転機が訪れたのは、二年前に妹のエマが社交界に華々しくデビューしてからだった。エマは母から嫌われていない。それどころか非常に愛されている。だからきちんと王都で開かれた格式のある夜会でデビューした。そして、その美しさと気さくさで、あっという間に多くの知己を得た。
クレアは華やかな妹の付き添いのような地味なドレスを着て、何度か一緒に夜会に参加することがあった。そんな時でもいつも通り一人きりになった。それは全く構わなかったのだが、時間が経つごとに妙な視線を感じるようになった。それらの視線は、とても好意的とは言えないものだった。
やがて、「あの方が呪われた……」だとか、「近づくと不幸になるそうよ」だとか言う声が、あえて聞こえるように言っているのか、はっきりとクレアの耳にも届くようになった。そして、特に同年代のご令嬢を中心に、通りすぎる際に軽く交わす挨拶さえ無視されるようになった。
これはまず間違いなく、社交界デビューをした妹が、姉は呪われているのだとか、不吉だとか、そういった噂を面白おかしく話して回ったのだとクレアは思ったし、それは事実だっただろう。それからは夜会や社交の場に出ること自体が苦痛となった。
クレアは妹のエマに怒るべきだっただろうか。しかし、クレアが周囲を不幸にした元凶となった事実は確かにあるので、それに甘んじることしか出来なかった。
悔しいという感情を、恥ずかしいという感情を、ありとあらゆる感情を押し殺していれば耐えられた。
それに、クレアには少数ではあったけれど、彼女がまだ母親から愛されていた頃と同じように、何かと気にかけてくれる使用人たちがいてくれた。そのおかげでクレアは特別不自由のない生活は送れていたのだから、それ以上を望んではいけない気もした。
その妹のエマは、あっという間に結婚相手を見つけて嫁いでいった。妹の縁談がまとまると、クレアが社交シーズンに王都にいたとしても、母がクレアを夜会に連れて行くこと自体が無くなった。
そんなわけで、この夜会が久しぶりに参加する社交の場だった。
ベルガー子爵家の当主である、クレアの父親は、領地経営の他にもいくつかの事業に手を出している。この夜会はその仕事仲間の家で開催されているものだったため、招待に関する采配を父が行った。
そのため、母にはクレアの出席を阻止出来なかったのだろう。クレアは大きな夜会になんて出席したくなどなかったけれど、決まったことを覆すような発言は彼女には出来ないから、命じられるままに支度をしてここへやってきた。
しかし、また一人きりになった今、まさに「あれが噂の呪われた令嬢か……」などと言う声が聞こえて来るのには当然うんざりしていた。
正直言って、クレアにはもう結婚をする意思はなかった。
父と母の様子を見ていると家族を作ることなど無駄に思えたし、どうせなら自分の力で生きてみたかった。
彼女の傷跡の噂を知らないような地方の裕福な商家などに赴けば、家庭教師の口があるかもしれない。一番望ましいのは、父から多少の金銭の融資くらいは受けられるだろうから、それを元手にして何か商売でも始めることだった。
それらの行動は全て母を不快にさせてしまうだろうけれど、今さら母の愛などいらないとクレアは自分に言い聞かせていた。
◆
クレア・ベルガー子爵令嬢の容姿は平凡だ。
くすんだ金色の髪に草色の瞳は華やかさとは程遠い。顔立ちも褒められたことはない。年齢もすでに十九歳だ。つまり、何のとりえもない行き遅れの令嬢であると一般的には見られる存在だった。しかも不気味な傷跡や不吉な呪いの噂まで持っている。
誰も呪われた花嫁など欲しくはないだろうとクレアは思う。母や妹にもそう言われながら過ごしてきた。
もし結婚までこぎつけたとして、初夜には彼女の醜い傷跡が夫にはほぼ確実に露見する。きっと夫となった人物も彼女を不気味に思うだろう。それで離縁されるくらいならば、一人で生きていく道を探したほうがいいのだろうとクレアは思っていた。
しかし、クレアは、生まれた時から傷跡を持っていたわけでもなければ、母から愛されなかったわけでもなかった。
彼女の、少しばかり生き辛い人生が始まったのは、それまで健康だった彼女が突然謎の病に倒れた時だった。
クレアは、まだ十歳の少女だった頃に、ひどい高熱を出して何日も寝込んだ。そして、看病してくれていた、その頃は優しかった母が彼女の左腕と胸の中心部に大きな傷が急に現れ、血を流しているのを発見した。
クレアは高熱で朦朧としていたが、母やメイドたちが大騒ぎをし、医者が呼ばれたのはおぼろげながら記憶している。
しかし傷がふさがる気配はなかったらしく、半狂乱となった母が魔術師を呼んでクレアの傷を治療させたらしい。その時にはクレアの意識はなかったから、これは後に聞いた話だ。
魔術師は、クレアのその傷はおそらく何か呪いに関わるものだが、原因となった呪いがどのようなものなのかは分からないと言ったそうだ。
それが、クレアを始めとした、ベルガー子爵家全体に起こることになる不幸の始まりだったと言っていいだろうとクレアは思っている。
魔術などという時代錯誤なものを馬鹿にしている父は、始めに「外傷が与えられたとしか思えない」と町一番の医者が言ったことを信じた。
そのため、母が娘であるクレアに害を与えたのではないかと疑った。そして、母が自分の罪を隠すために魔術師などと言う詐欺まがいの真似をしている輩を家に入れたのだと自分の妻を責めた。母は必至で否定していたが、それによってただでさえ危うかった夫婦関係が破綻した。
とはいえ、体面というものがあるから、父が本宅にごく稀にしか帰らなくなっただけだった。父は元からいた愛人に買い与えていた、別の屋敷で暮らすようになったのだ。
そして、クレアに傷が現われた数週間後に、生まれて三月しか経っていなかった末の弟が高熱を出して、そのまま亡くなった。医者はクレアがかかった熱病がうつったのかもしれないと言った。
それからは、熱も下がり、魔術師が施した術によって傷も治りかけていたクレアの元には、母は一切近寄らなくなった。
歩けるようになったクレアが寂しさから母を探しあてると、母は妹のエマと弟のトーマスをかばうように立ちふさがった。まるでクレアが恐ろしい魔物にでも見えているように、母の顔は恐怖に引きつっていた。
「この子たちには手出しさせないわ!」
母はそう言ってクレアを追い払わせた。
母に拒絶されたその出来事は、クレアにあまりにも大きな衝撃を与えた。そして、その時以来まともに母と話をしたことはない。
食事も自室でとらなければいけないと決められたし、母やきょうだいとの接触は禁じられた。
屋敷内を移動するにも、クレアに同情的な昔からいる使用人に頼んで、その先に誰もいないことを確認して貰わなければならなくなった。
そのような状況は半年もする頃には多少落ち着いたが、父以外の家族がクレアと食事を共にすることはなかったし、妹や弟とも言葉一つ交わす機会はなかった。母がそれを頑なに嫌がったのだ。
父が母に命じたことで辛うじて社交界デビューは出来たものの、クレアはその頃には、自分は不幸を呼ぶ存在なのだと確信するようになっていた。
もちろん、恐ろしくて友人を作ることなど出来なかった。そして、父が命じた時以外は社交の場にクレアを出そうとしない母の言いつけを守って、彼女は家でおとなしく過ごすようになった。
本を読み漁り、誰もいない時に昔から好きだった竪琴を弾いた。
クレアは特に医学に関する本を読み、自分になかった知識を得た。そして自分の醜い傷跡を見ながら、母はひどい思い込みをしているのかもしれないと思うようになった。たまに二人で食事をする父との会話の影響もあっただろう。父は迷信を信じはしなかった。
あの時クレアに現れた傷は大きく見えはしたものの、内臓を傷つけるものではなかった。熱病は数あるが、中には皮膚に異常が出るものがあると本には書いてあった。
そして、これはとても悲しいことだけれども、赤子が熱を出して亡くなってしまうのは特段珍しいことではないという。
その程度のことだったのだ。クレアはそう思って、自分に起きたことに納得した。悲劇だと嘆く、クレアに優しくしてくれる少数の使用人に、彼女は「平気よ」と微笑んでみせた。
これ以上、自分の置かれた状況を嘆きながら生きたくはなかった。
社交界に出年頃になると、クレアは母からの、そして母の命令に忠実なメイドたちからの、さらには妹からの、心ない仕打ちに晒され、罵りの言葉を浴びて暮らしていたので、いわゆる人並みの幸せには憧れすら持たなくなっていた。
でもきっと自分なりの幸せの形を見つけるのだと、クレアは生きる希望は捨てなかった。
そんなことを考えていた時、クレアは嫌な雰囲気の視線を感じた。
彼女は長手袋がずれ落ちて醜い傷跡が見えてしまっていることに気づき、慌ててそれを戻したけれど、周囲の目が気になって化粧室に向かうことにした。
彼女はグラスを渡すために給仕を探しながら歩き出した。
ところが後ろから急に左腕を掴まれて、驚いた拍子にグラスを落としてしまった。それが砕け散る音に数人の給仕が駆け付け、そして痛いほどの視線が彼女に突き刺さる。
クレアは戸惑いながら、自分の腕を掴んでいる男を見やった。
そこにいたのは、濃い茶色の髪をした、整った顔立ちをした美しい青年だった。年齢は彼女よりも上に見えた。
クレアは途方に暮れた。彼は手を放してくれない。
そして、彼が掴んでいる部分のすぐ上に見える不吉な傷跡を、彼は食い入るように見つめていた。
つづく……