5 月下美人
月下美人・・・花言葉は「1度だけ会いたい」
空は瓦礫の中に残った崩れかけの塀に背中を預けると、頭上に広がる蒼穹を見上げた。
こんな国でも、青空は美しい。
彼女は今、T国の首都にいる。
そこは日本から遠く離れた、荒廃した都市だった。
T国は内戦の絶えない国で、ここ10年の間にも首脳の交代が10回以上あった。経済的にも鉱山資源が多少あるくらいで、決して裕福では無い。国民の生活レベルは低く、首都でさえ瓦礫の中で日々の糧を得るためだけに生きる人々が大多数だった。荒んだ空気が漂う場所だ。
数日前この国に来て、サラと言う名で行動している。もう既に、現在ここT国に存在するレジスタンスの全てを調べ上げ、その中の1つ『ヌエボムンド』という最も過激な組織に入り込んでいた。
(ここからが、正念場ですね)
空は無表情のまま、美しい青を見続けている。白い雲が、ポツンと1つだけその中を流れていた。
ここに来る前、脇腹と両腕に受けた怪我は、化膿して熱を持っていた。微熱が浮いているのはそのせいだろう。けれど、今はそれさえも嬉しいような気がする。
(少し熱っぽい感じは・・・あの時を思い出します)
彼と過ごした時間を、こうやって思い出すことくらいは自分に許そうと思った。誰に迷惑が掛かるわけでもないのだから。
彼に抱かれて愛された時間。熱に満たされて、腕の中で心から安心して眠りについた夜。
(真昼間から、悪化した怪我の熱でこんなことを思い出しているなんて・・・)
ふと自分を振り返って冷静に考えると、何だかとても変な性癖を持つ人間のような気がする。
(いわゆる変態のような・・・)
空は妙におかしくなって、口元だけを歪ませた。
(まぁ、今更ですね)
自分が変わり者であるという自覚はある。考え方、身体能力、無感情など、普通の人間と比べればかなり変わっている。変わり者の範疇を越えているレベルかもしれないが。
こんな普通じゃない自分に、また1つ変なところが追加されても大して変わりは無いだろう。
空はゆっくりと立ち上がると、『ヌエボムンド』のアジトに向かって歩き始めた。クラップスの、特にBBに関する情報を集めなければならない。どんな手段を使っても。
FOI日本支局では、それなりの通常業務が行われている。空が抜けた穴をカバーするために、捜査官たちの仕事は増えたが誰もそれに対して文句も言わず、黙々と仕事をこなしていた。
本部から捜査官補填の話も来ていたが、博を始めとして全員がそれを却下した。
そんな日々の中、局長である博はアンジーに言われた通り、人脈を生かして例の密命にかんする情報を集めていた。
本来なら極秘事項であるそれを、博はメンバー全員に伝えている。アンジーと連絡がついて、空の任務について説明された時から、彼は全ての情報を自分の責任において全員に伝えると決めていた。
そして集まった密命に関する情報を伝えた時、捜査官たちは出口の見えないトンネルの中に立っているような気分になる。
A国政府からの密命は、ひと言で言えば、T国のクーデター支援だった。現在大統領という地位を作り就任している男は、その任期を1年も過ごしていない。それなのに、T国内では既に幾つものレジスタンス組織が、政府転覆を目論んでいる状態だった。T国の平和回復のため、と大義名分を掲げたその密命は、レジスタンス組織に潜入しクーデターを成功させろというものだった。
今までに5名の捜査官たちが、空と同じようにしてT国に渡っていた。そのうち2名が消息不明、2名が死亡確認、残る1名は任務を果たせないまま脱出したが今も療養中で復帰は見込めない状態だと言う。
現在、彼女が置かれている状況はどうなのか。それを知る術は何1つない。
空を信じて、ただ待つしかない。
そんな中、小夜子と春が博に提案する。
「ねぇ、あの部屋。この際、全部リニューアルしちゃわない?」
カーペットの染みも、染み付いた臭いも、エリィが寝たであろうダブルベッドやその他の家具も全て、総取り換えしてしまったらどうか、と言うのだ。
空が戻ってきた時のために、と。
博は少しだけ明るい顔になって、その提案を受け入れたのだった。
見違えるほど綺麗に変わったその部屋に、博はビートを案内した。
「どうですか、こっちにまた引っ越してきませんか? ここで一緒に空を待つというのはどうでしょう」
そんな彼の言葉に、灰色の鳥は羽をばたつかせて喜ぶ。
《 イッショ イイネ~ イッショニマツノ サンセイ~ 》
博は、ビートの止まり木やフードなどを部屋に運び込む。そして、この賢いヨウムに毎日話しかけて、自らを慰めた。
「何もかも新しくなってしまったのは、ちょっと寂しい気もしますね」
《 ソラノニオイ シナイネ~ デモ ヘンナニオイシナイカラ オッケー 》
「そうですね、空が残していったものは全部無くなってしまったけれど・・」
カーペットの染みでさえ、彼女の残していったものだったのだから。
「・・・ビート、僕は傲慢だったと思うんです。自信過剰だったと言ってもいい。自分の弱さに気づかない、と言うか見ないふりをしていたのでしょう。この年になると、経験や実績はそれなりに溜まるし、それが自信に繋がって、自分は強いと自惚れていた」
視覚障碍者でも、アイカメラのAIから入る情報で、慣れた場所ならば殆ど健常者と変わらず行動できる。短期間でそこまで出来るようになるには、大変な努力を必要としたが、それを成し遂げたことは大きな自信になっていた。けれどそこに、自分自身を過信する落とし穴があったのかもしれない。
「僕はきっと、空に対しても優位に立っていたかったのでしょう。思い返せば、いつも上から目線でいたような気がします」
ビートは、話が難しくなってきて理解が追いつかなくなったらしい。コキコキと首を横に振って、つまらなそうになっていたが、それでも大人しく博の話を聞いている。
「教えるとか育てるとか、そんな立場を楽しんでいたんですね。彼女が、僕を守りたいと言った時、納得したつもりでいたんですが・・・」
空を抱きしめて『ありがとう』と行った時、お互いに守り守られることを、頭の中では『簡単な事』として自分を納得させた。けれど、今になって考えれば、無理やりだったのかもしれない。
「自分自身に馴染んでいなかったんですよ。でも、今なら解ります。愛する相手と向き合う時、その心は対等でなければならないんです。立場とか年齢とかプライドとか、そういうものは寧ろ邪魔なんですね」
「守りたい」と言う気持ちが、彼女の愛の形なら、守られたいと思う。
実際に守られたのだ。彼女の大きな愛によって。
おそらく彼女は、それを自覚していないとは思うが。
そして自分は、ただ愛する人の心と体、全てが欲しいのだ。
だから、彼女を「守りたい」。
ずっと、傍にいて欲しい。
素直に、ただそれだけを願う。
「だから僕は、空が帰ってきたら、今度は対等な心で彼女を愛していきたいんです。ビートには難しかったですね。・・・素直になる、って言うことですよ」
そこまで来て、ビートは漸く理解できる言葉に出会ったらしい。
《 スナオ スナオ ビート スナオナイイコ ソラ ホメルノ スナオ イイコト! 》
博は、彼女が良くしてやっていたように、ビートの首筋を指で掻いてやった。
「空は、どうしているでしょう・・・つらい目に遭っていないと良いのですが。信じる事しかできないと言うのは、もどかしくて苦しいものですね。1日でも1時間でも、早く帰って来て欲しいです」
《 ソ~ダネ~ ソラ ハヤク カエッテクルトイイネ~ 》
博は、賢いヨウムの同意を得て、少し慰められていた。
空は窓枠に腰かけて、ぼんやりと夜空を見上げていた。
(これで『ヌエボムンド』にクラップスが関与していることは確実になりました)
シャツ1枚を羽織っただけの彼女と同じ室内には、ベッドで鼾をかいて寝る男がいる。この男から、『ヌエボムンド』という過激な地下組織にクラップスが武器などを流しているという情報を得たのだ。
(シャワーを浴びたいけれど・・・我慢するしか無さそうです)
身体はべとついているし、下半身も汚れている。けれど、この国では水さえもなかなか手に入らない事が多い。空は仕方なく、床に散らばっていた自分の衣類を身に着けると、そっと部屋を出る。
(どこかで、水を見つけて体を拭くことにしましょうか)
そうしたら、またどこかの片隅で、つかの間の睡眠をとるのだろう。
半分崩れかけた建物から出ると、つぶれかけたバケツに水が溜まっているのを見つける。空はバケツを持って、建物の裏に回った。
バケツの水とあり合わせの布で体を拭いた空は、少しだけさっぱりした気分になって周囲を見回す。
瓦礫の間から這い出たような、緑の植物があちこちにあった。波打つ長い葉を持つそれは、多肉植物のように見える。その葉から直接、蕾のような芽が幾つもついていた。
(月下美人・・・でしょうか)
ふと上を見上げるが、月の姿はどこにも見えない。けれど、空はしばらくそのまま夜空を見上げて立ち尽くしていた。
思い出を辿るしか、今の自分を忘れる手段は無かった。
翌日の夜、空はレジスタンスのメンバーたちと一緒に、半地下の1室にいた。彼らはどこから持ち寄ったのか、安酒を回し飲みし口角泡を飛ばす勢いで議論している。そんな喧騒から離れて、空はスマホを取り出しアンジーに連絡を入れた。
「・・・ねぇさん?」
「・・・・・・・・・・」
「うん、元気。・・・ええ、もうこっちにもだいぶ慣れたから。・・・え?・・ああ、今職場の仲間と打ち上げパーティーみたいな感じ。煩くてごめんね」
「・・・・・・・・・・」
そんな会話をしていると、男の1人が近づいてくる。空気の流れで、それに気づいた空は通話を切って男に向き直った。
「サラ、だっけ?誰と電話してたんだ?」
不審そうな声ではなく、ただ興味を引かれただけのようだ。
「ああ、ねぇさんよ。外国に住んでて、旦那さんと子供と、普通に幸せに暮らしてる。たまに連絡入れてるけど、私は死んだことになってるから、ゴーストからの電話ってところよね」
男は、空に興味を持ったようだった。彼が『ヌエボムンド』の中で、かなり上の立場であることを、空は知っていた。抜け目のなさそうな口元と酷薄そうな眼をした男は、空の横に座った。
「サラ、オマエ東洋の血が入っているのか?」
「人種なんてどうでもいいでしょ。ついてるモノは同じなんだから」
空はそう言うと、唇の端を持ち上げて微かに笑って見せる。目を細めたその表情は、妖艶にも見えた。
「ふふん、イイこと言うじゃねぇか。オマエ、どこで寝てるんだ?」
「まだここじゃニューフェイスだからね。いつもその辺で、適当に」
「それじゃ、使っていい部屋教えてやるよ。こっち、来な」
男は、空の腕を掴むと、立ち上がって騒がしい部屋を出る。そして1階の奥にある一室のドアを開け、彼女と一緒に中に入った。
「これから、この部屋を使うといいぜ。一応、皆には専用って言っておくから」
(一体、何の専用部屋なのでしょうか)
とは言え、ある意味それは情報収集には便利なのかもしれない。空は、専用の意味を薄々感じてはいたが、甘んじてそれを受け入れた。
部屋と言っても、屋根があって壁があると言う程度のもので、あちこちヒビが入り埃だらけだ。窓が1つあるが、ガラスは全て割れ落ちている。錆びて軋むベッドだけが、家具と言えるだろう。
けれど、それさえあればコトは足りる。
その晩から、夜はその部屋で情報取集、昼はレジスタント活動という生活が始まった。
支局の博の元へ、アンジーから電話が入った。
「昨日、空から連絡が入ったわ。一応元気みたいだけど、状況的に長電話できなかったみたいで、直ぐに切られちゃった」
「・・・そうですか・・・でも、声だけでも元気そうなら良かった・・・アンジー、空の声を聞かせて貰えませんか?」
録音するなりなんなりして、声だけでも聴きたいと思う博である。
「出来るわけないでしょ!大体、彼女の連絡窓口を私にしてるっていうだけでも、相当な無理を通したんだから」
そうだろうな、と博は思う。政府の密命を受けているエージェントからの連絡を、人事部長が受けるというのは普通は考えられないのだから。
「彼女の任務の進み具合とかも、まだ全く分からないんですね」
博の言葉に、アンジーは肯定の言葉だけを残し通話を切った。短い時間だったが、それでも彼女から連絡をくれたということは、当初よりだいぶ怒りは収まったのだろう。
(きっと、また連絡を貰えるでしょう)
そんな思いで自分を慰め、いつもの仕事に戻る博だった。
空が、専用の部屋を与えられたその晩。
「それじゃ、またな」
と満足そうに言って、男が部屋を出て行くと、空は直ぐにベッドから起き上がって自分の胸を見た。
(・・・流石に痛かったです)
首を曲げ舌を伸ばしてもギリギリ届かないその場所、胸の谷間には、煙草を押し付けられた跡がある。
(反応が鈍かったので、焦れたのでしょう)
そもそも嫌々受け入れているので、感じることなど殆どない。その上、空には痛みをある程度コントロール出来るというスキルもある。それは痛覚以外の感覚も、ある程度制御できるということなのだ。
不感症かと疑われるような態度で相手をすれば、焦れることもあるだろう。
(サービスでもすれば良かったのでしょうが・・・)
そう言うテクニックについては、せいぜい用語を知っているというレベルだ。その方面の知識を増やすことは、博に禁止されていたこともあって、何一つ実践は出来そうにない。
(せめて、怪我しないようにするくらいしかないですね・・・)
どこかで、オリーブオイルでも入手しておこうと思う空だった。
それから数日が経った。
毎晩男たちが入れ替わり立ち代わり、彼女の部屋を訪れる。その中で、空は幾つかの重要な情報を入手していた。
T国におけるクラップスの活動を統括しているのは、幹部の中でも№3の地位にいる男だということ。
その男は、頭脳と呼ばれているということ。
そして、時折このアジトの最奥の部屋を訪れているということ。
『ヌエボムンド』が大きな計画を立て、実行に移す日が近いということ、などであった。
(後は、何とかしてその男を確認しないと)
けれど、それが1番難しいと空は思う。もし彼がBBなら、向こうもこっちを知っているのだ、雌犬として。
気づかれないように、ある程度遠くからでも良いから、この目で確認したい。
必ず付いているに違いない彼の護衛やレジスタンスのメンバーにも悟られないように。
そして1番厄介なのが、今の空ではリーダーが居住する最奥の部屋にさえ近づけないということなのだ。
(どうしたものでしょう・・・)
空は、今晩の相手が帰った後、シャツを羽織って窓辺に立つ。
そこには以前にも見た、月下美人の葉が沢山垂れ下がっていた。先日見かけたものより、もっと大きな蕾が重そうに下がっていたが、中に1つだけ首を持ち上げ咲くのを待つ風情のものがある。
(あと五日くらいで咲きそうですね)
こんな場所でも、美しく咲く花はあるのだ。それだけでも、何故か慰められる気がする。
(皆、どうしているでしょう・・・ビートはそれなりに楽しくしているでしょうね。・・・博は・・・幸せに暮らしているでしょうか・・・)
つい、そんな事を考えてしまう。考えても仕方がない事なのに、と空は静かに細く息を吐いた。
その夜も、博はビートを相手に話をする。
「食事がね、楽しくないんですよ」
《 ゴハン オイシイヨ タベルノ タノシイヨ 》
「花さんの料理は何時も美味しいですし、時間が合えば誰かと一緒に食べることも多いのですが、つい空と一緒の食事を思い出してしまって・・・」
彼女と一緒の食事は、いつも楽しかった。初めて食べる料理を口に入れた時の彼女の表情。好きな甘いものを味わう彼女の瞳。僅かな変化、微かな喜び、そんなものをその表情から読み取るのは、本当に楽しかった。
「空はちゃんと食事をしているのでしょうか・・・」
毎日、些細な事から彼女を思い出しては、どうにもできない今を悔やむ。
《 タベナイトダメ ソラ イウノ ダカラタベテルヨ 》
今晩も、ビートに慰められた。けれど、彼女への想いは増すばかりだった。
空の胸に火がついた煙草を押し付けたあの男が、再び部屋を訪れてきた。
あからさまに警戒する空に向かい、男は今晩はそんなことはしないと言い、目の前で煙草を部屋の隅に遠ざける。そして、全てが終わった後、空は自分の身体に異常を感じた。
(・・・眠い・・)
何とか頭を上げると、男は注射器を持って笑っている。
「心配するなよ、ドラッグじゃねぇから。少しばかり眠っててもらうだけさ」
行為の最後に、打たれたらしい。無意識に感覚を抑えていたせいか、注射器の針が入る痛みには全く気づかなかった。空は、男の言葉を最後まで聞けず、そのまま深い眠りに入った。
意識が浮上する感覚に、空は目を瞑ったまま辺りを窺う。血と消毒液の匂いがしたが、違う部屋に寝かされているようだ。補聴器は外されていない。近くに誰かいる気配がした。
「勿体ない美人かとも思ったが、他に良い人材はいないから仕方がないな」
「銃も扱えると仲間も言っていましたし、煩い身内もいないようなので、うってつけでは無いかと」
「麻酔が覚めるまで、まだ30分以上かかりますから、今のうちに用意した部屋に移しましょう」
「3日後の決行に間に合うな?」
「はい、鎮痛剤を与えておけば普通に動けるはずです」
空は黙って、されるがままに部屋を移動させられる。
(さっき話していたのは3人・・・)
薬物耐性の高さで早々に麻酔から覚めた空は、処方されているらしい鎮痛剤の効果も切れつつあると感じていた。今までとは格段に良いベッドに寝かされると、掛けられた毛布の下でそっと手を動かす。右の脇腹、彼から貰った傷跡が残るその部分には大きなガーゼが当てられている。そして何かが体内に入っているという感覚があった。
(この場合、入れられたのは小型爆弾ということでしょうね)
3日後の決行については、レジスタンスの仲間内でもひっそりと噂になっていた。大統領を暗殺するらしい、という程度の話ではあったが。
(あと3日のうちに、クラップスの№3がBBであることを確認しないと・・・)
そのチャンスはあるのだろうか。何とかして確認し、アンジーに連絡しないといけない。
そのために、この任務を引き受けたのだ。これを達成できなければ、『やりたい事』の半分さえ出来なかったことになってしまう。
空は焦りを感じながら、目を瞑ったまま考えていた。
30分くらいは経っただろうか。例の煙草男が空のバッグを持って、部屋に入ってきた。空は眼を開けて男の顔を見る。
「・・・ここは?」
「目が覚めたな。いい部屋だろ。リーダーの寝室さ。もうこっちは使わないから、オマエの部屋にしていいとよ」
「どういうことです?」
「3日後のクーデターで、オマエに白羽の矢が当たったってことだ。詳しい手順なんかは後で教えるが、今オマエの腹の中には小型爆弾が入ってる。暗殺が上手くいけば、そいつは取り出してやるし報酬もある。逃げようとしても無駄だぞ。スイッチはこっちが持ってるんだからな」
(だろうと思っていましたが、お定まりの台詞ですね)
あまりに典型的な男の言葉に、思わず苦笑したくなるが、何とか無表情を保って質問する。
「報酬って?」
「クーデターが成功すれば、お望み通りの額を支払うってさ」
(・・・つまり最初から払うつもりはない、と)
空は顔を背けて壁の方を見る。無表情を作りにくくなっただけだったが、男の方は彼女が絶望したのではないかと思ったらしい。
「3日間、この部屋でのんびりするといいさ。飯も運んできてやる。監視が付くから部屋からは出られないが、スマホでも弄ってネェちゃんと話でもしな。ただ、今はお客が隣の部屋に来てるからな、話が終わるまでは静かにしてろよ」
煙草男はベッドの上に空のバッグを置くと、部屋を出て行った。
(お客?・・・まさか)
空は起き上がって室内を見回す。男が出て行ったドア以外に、隣室に通じるらしいドアがもう一つあった。動きづらい身体と脇腹の痛みに抗ってベッドから降りると、隣室へ通じるドアに向かう。音を立てないよう充分注意して、そっとドアに隙間を作った。
(・・・ゲルベゾルテ!)
僅かな隙間から流れ込んできた隣室の空気には、特徴的な煙草の臭いが微かに含まれている。
あの時、BBの特徴として記憶したゲルベゾルテという煙草の甘い臭い。
どうやら隣室の客は、もう帰るところらしい。
空はもう少しだけドアを開け、その隙間から中を窺った。
TV電話の映像で見た、BBの姿を確認した。
(何だか一生分の運を使い切っちゃったような気がします)
空はベッドに戻り、スマホを取り出すとアンジーに連絡を入れた。
「ねぇさん、今いい?」
監視が付いていると言われているので、一応今まで通りの役柄で話す。聞き耳を立てられていては、何かと面倒になるだろう。
「サラ、大丈夫よ。どうしたの?」
「彼を見たわ。拍手3回、頭脳派ね、凄いわ」
拍手=クラップス、3回=№3,頭脳=ブレインという暗喩を、アンジーは正確に受け取った。
「あら、凄いじゃない。それじゃ、もう帰ってくる?」
BBがクラップスの№3でブレインと呼ばれているという情報は、これで彼女に伝わった。
「ううん、帰れそうにない」
そこから先は、廊下の監視役に聞かれても構わない。空は現状を全てアンジーに話した。
「ここまでで半分しか『やりたい事』は出来なかったけど、彼には仲間がいるしアンジーもいるから、心配はしてない。本当は、残り半分もやり遂げたかったけど・・・」
アンジーは、空の現状、つまり腹の中に爆弾を抱えたまま逃げ出すこともできないということに、激しい衝撃を受ける。けれど、そこで直ぐに打開策を考えるのが彼女の凄いところなのだろう。
「いい、私が何とかする。・・・それと、彼には伝えたわよ。『必ず戻る』ってね。だから私に任せて、安易に命を投げ出さない事!」
アンジーの言葉に、空は諦めかけていた自分を認識する。
もうどうしようもない、と諦めて『やりたい事』の半分でもできたことで満足しようと思っていた自分を。
つい、言葉が出た。言うつもりなど、決してなかった言葉が。
「・・・アンジー・・・死にたくないです。・・・だから、ヴィクターにもそう伝えて」
空は絞り出すようにそう告げると、スマホを切った。
そして、ドアの外の見張りにタオルを要求し、持ってきてもらうとそれを持ってベッドに入る。
(しがみついてみよう。少しでも生還できる可能性があるなら、それに・・・)
寝たままの姿勢で毛布をどけ、タオルを敷いてガーゼを剥がした。
切開されたのは5センチ程度。けれど、押し込まれた物体はそれなりに奥へ入っているようだ。
空は毛布の端を引き寄せ、口の中に入れる。そして躊躇うことなく、荒く縫われた傷の隙間に二本の指を突っ込んだ。
「・・・・っ・・・ぅぐ・・・」
毛布を噛み締めてはいたが、僅かに声が漏れる。けれど深く差し入れた指先に、硬い物が当たった。
空は、その小型爆弾を指先で移動させる。できるだけ、表面付近まで。
(・・・取り出してしまえば、また入れられるだけです)
だから、少しでも浅い場所に爆弾を移動させる。指先で形状を確認し、知識の中からその威力を推測する。このタイプだと、威力はかなり低そうだ。
「・・・ぐっ・・ぅ・・・っ・・・」
最初にあった位置だと、内臓が3つ4つ吹き飛びそうだが、表皮付近まで移動させて威力を半分程度外に逃がせば、損傷は抑えられるかもしれない。
可能性にしがみつこう、と空は歯を食いしばって指を動かした。
頭の中だけは冷静に、空は何とか目的を達して再びガーゼを当てなおす。血まみれの指をタオルで拭って、汚れたタオルはベッドの下に隠した。
(彼らは、私が銃を扱えると言っていました。おそらく暗殺はそっちで、爆弾は口封じでしょう)
暗殺が成功した後、実行犯が生きていたら色々面倒だと考えたのだろう。
荒い呼吸と痛みを何とか抑え、空は考え続けていた。
(暗殺・・・は嫌ですね。人を殺すのは・・・)
それから2日間、空は大人しく与えられた部屋で過ごす。少しでも体力を回復させた方が、生存率は上がるからだ。一応室内は全て調べたが、やはり脱出は不可能だという結論に達した。服は、見張りに頼んで持ってきてもらった。飾り気のない白の長衣で、死に装束のようでもあったが、ありがたく着ることにする。やはり何かを身に纏っている方が、何となく落ち着くものだ。全てをアンジーとヴィクターに任せると決めた後は、自分の事だけを考えて行動する。
生き延びる、という目的を達成するために。
2日目の晩。夜が明ければ決行の日の朝になる。
空は、ふと窓辺に寄った。ガラス窓の向こうに、鉄製でアンティークな飾り枠が鉄格子のようにはめ込まれている。月明かりが、窓を通して床にアラベスク風の模様を作っていた。まだ新しい飾り枠は美しいが頑丈で、ここが牢獄であることを否が応でも思い知らされるようでもあった。
ガラス戸を開けると、夜気が室内に流れ込んでくる。
(・・・・あ・・)
少しひんやりとした空気は、柔らかくふくよかな甘い香りに満ちていた。
空は飾り枠に指をかけ、顔を前に出す。月に照らされた1輪の白い花が、伸びやかに花弁を広げ誇らしげに咲いていた。
「・・・咲いたんですね、月下美人」
思わず声に出して呟き、じっとその花を見つめる。
ひと夜だけ花を咲かせ朝にはしぼむその花は、限られた時間の中で強く甘い香りを放つ。
(ひと晩だけの花・・・ひと夜限りのメッセージ)
花言葉は、「1度だけ会いたい」
必ず戻る、と決意した。
そして今、その理由に気づく。
彼に伝わったから、言ったからには実行しなければという『やるべき事』では無かった。
「・・・もう1度だけ会いたい・・・」
口に出すとはっきりする。
これは自分の『やりたい事』だ。
願いでもあり祈りでもある。
「1度だけ・・・1度だけでいいから・・・会いたい」
何度も繰り返し、それだけを思う。
月の光を浴び、窓辺に立つその姿こそが、月下美人そのもののようだった。