4 マリーゴールド
マリーゴールド・・・花言葉は「絶望」
空港の搭乗口近くで、少し早く着いた空はアンジーを待っていた。
やがて急ぎ足で近づいてきた彼女は、どこか泣き出しそうな眼で空を見る。
「本当に、これで良かったの?」
空は、穏やかな笑顔で答えた。
「はい、これが『やりたい事』なんです。アンジーが心配することは、何もありません」
空はアンジーが用意してくれた紙袋を受け取ると、着替えに行く。戻ってきた時は、ジーンズに薄いグレーのシャツだけと言う地味で目立たない姿だった。そして首には、傷跡を隠す包帯を巻いている。
「さっき着てた服、空に一番似合うと思うわ。アイツが贈ってくれたものでしょ。とりあえず、預かっておくわね」
アンジーは、空から紙袋を受け取りながら言う。アイツ、博の事は絶対に許せないが、ここまでこの服を着てきた彼女の気持ちを大事にしたかった。
アンジーには、一昨日電話でほぼ全てを打ち明けていた。
彼を守りたい、という『やりたい事』ができたこと。
彼の傍には、エリィと言う存在ができたこと。
BBの正体に関する、自分の推測。
だから、この任務を受けて推測を確信にしたいのだということ。
「それじゃ、これ・・・」
アンジーはそう言って、1枚の搭乗券とパスポートを差し出した。替りに、空は自分の持っている搭乗券と身分証、そして装備品のウィップと拳銃を渡す。
これから、空は別の人間になる。FOI捜査官としての身分を捨て、一般人として任地に赴くのだ。
「名前、本当にこれで良かったの?」
「はい、死んだことになっているアンジーの妹、ということにしておけば、今後連絡を取る時も不自然ではないと思いますので」
サラ・リッチ、とパスポートには記載されている。名字だけ一部分変えてあったそれは、アンジーが仕事上の立場を利用して作成してくれたものだ。
そして、2人はスマホも交換する。ソラに渡されたそれは、必要最小限のアプリとアンジーの連絡先だけが入っている。今後はこれで、彼女とだけ連絡を取ることになる。
そして最後に空は自分の髪に触れ、祖母から貰った護符のウッドビーズを外す。留め具も兼ねている1番下のビーズをパチンと緩めると、4つのウッドビーズは掌の上にコロコロと転がった。
「最後に、これも預かっておいてください」
そう言って、彼女はアンジーにウッドビーズを差し出した。
自分の特徴になるようなものは、全て置いていかなくてはならない。補聴器だけは、仕方がないので髪で隠すしかないが。アンジーは差し出されたビーズを受け取って、手持ちの小袋に大切そうにしまった。
「では、行きますね。・・・もし・・・」
空は搭乗口に向かい歩き始めたが、ふいに立ち止まって振り返る。そして逡巡するが、最後にもうひと言アンジーに伝えた。
「もし・・・彼が聞いたら、いえ、アンジーが良いと判断したら、『必ず戻る』と伝えてください。そう言うことは、無いとは思いますが・・・」
空は少し自嘲気味の笑みを口元に浮かべたが、黒い瞳は寂しげだった。
「空・・・絶対に戻ってきなさいよ」
アンジーはそう言うしかない。
「当然です。私の『やりたい事』はこの任務を達成して、やっと半分になるのですから」
空は向き直って真っすぐに前を見る。無表情の顔には、意志の力が輝く瞳だけがあった。
その日の夕方、支局に戻ってきた捜査官たちは全員疲労の極致で、早々に自室に戻ってベッドに倒れ込んでいた。見つかった女性の遺体がエリィであることを確認し、警察とFOI本部に身元確認を徹底的に行って欲しいという依頼だけはきっちりしておいたが、昨晩から一睡もせずにいたのだから、仕方がなかっただろう。空が出て行ったことに気づいたのは、翌朝になってからだった。
出勤し、エリィに続いて空も居なくなったことに気づいたメンバーは、愕然とし何をどうすれば良いやら分からなくなって呆然とする。
そんな時ふみ先生から、博の意識が戻ったという連絡を受け、とりあえず真が医務室に向かった。
博はベッドの上に横になったまま、入ってきた真を見る。既にいつものサングラスとアイカメラを着けていた。
「ああ・・・真ですね。迷惑をかけたようで・・・」
アイカメラのAIからの情報も、しっかり理解できているようだ。
「特に精神的ダメージは無いようよ。資料にあった2つの生還例だけど、効果時間が終了する直前の獣性が低いほど、ダメージは低いみたい。2例だけだから、断定はできないけどね」
ふみ先生の言葉に、真は最後まで見ていた監視カメラの映像を思いだす。あの凄惨としか言えないような、殺傷欲と性欲のすり替えの様子。
まるで獣姦のようなその時間を、彼女はよく耐えたと思うしかない。
「・・・空の、お陰なんだな」
小さく呟いた真の言葉に、博は何度か瞬きをして問いかける。
「・・・・空?」
「あぁん?何をどこまで覚えてるんだ?」
博は、額に手を当てしばらく目を瞑って考え込んだ。
「・・・はっきりしてるのは、ベンチに座っていたところまでです。その後、オルゴールの音色とオードトワレの香りがして・・・そこからは、断片的にしか・・・エリィという女性がいましたが」
「そのエリィだがな、昨日遺体で見つかったよ」
「何ですって!」
博は、ガバッとベッドから起き上がった。
何か大変なことが起きていたらしい。今の自分の急務は、事実を完全に把握することだ。けれど、体中は筋肉痛の酷い状態で思う様に動けそうもない。
「ふみ先生、とりあえず鎮痛剤を下さい」
彼はそう言ってベッドから何とか降りると、服を着替え始めた。
博がメインルームに復帰して、改めて最初から何があったのかを検証する。
「これ、寝室に残ってたぜ」
真がテーブルに置いたのは、オルゴールとオードトワレの瓶。エリィが持っていたものだ。
「この音色と匂いは、僕の子供の頃の思い出と密接につながっています」
博が低く呟いた時、TV電話が繋がった。
相手は、以前も画面越しに会ったBBその人だった。
「やあ、久しぶりだ。こっちは相変わらず多忙な毎日で、今も出先からなのだが、少し話をしておこうかと思ってね」
以前と同じような服装と雰囲気で、特徴の無い男が話し始める。
「先に行っておくが、今回の事は私が計画したことではない。部下の女が、勝手にやったことだ。そっちでは、エリィと名乗っていたようだが」
(・・・もしかして、エリィは)
ふと、小夜子は彼女が言っていた言葉を思い出す。
「本名は何と言ったかな・・・ジェ・・・ジェニーだったか、ジェーンだったか、まぁそんな名前だ。仲間内では、ハニーAと呼ばれていたな。彼女はなかなか使える部下だったが」
(エリィは、本当の名前も覚えて貰ってなかったの・・・)
小夜子は、BBに対して憎悪すら覚える。
「ハニートラップが得意でね、その際に暗示を使うんだ。相手の過去を徹底的に調べ、弱みに付け込む。弱みと言っても、懐かしい思い出とか幸せだったころの事などを利用するので、ハニートラップにかかった人間にすれば多幸感で満たされて最高の時間を過ごせる。一応、彼女からは最初から報告を受けていたが、敢えて止めなかった。いつも最高のリフレッシュを与えてくれる君に、たまにはお礼をしようかという気になったんだ」
(何が、お礼だ!)
博は心の中で怒鳴る。
「だが、彼女が最後にやったことは、明らかに私を不快にした。そう『BSD』だ。あれは彼女が勝手に持ち出していたものでね、おまけに知識も半端だった。私としては君の人格が崩壊したり死亡したりしては困るんだ。リフレッシュできなくなるからな」
BBは、勝手にしゃべり続ける。
「だから、彼女を処分した。勝手なことをする部下は不要だ。とりあえず、君が知りたいだろうことを教えておいた。また休暇が取れたら、その時はよろしく」
TV電話は、一方的に切られた。
5人の捜査官たちは、言葉が出てこないくらいの怒りに満ちて立ち尽くした。
やがて、何とか落ち着くことのできた博が口を開く。
「暗示に掛けられていた、ということですか・・・原因は僕にあったというわけですね」
「あっ、でもそれは被害に遭ったということだし、悪いのは・・・エリィ?ううん、やっぱりBBじゃないですか!」
春のフォローも、博の落ち込みに歯止めをかける事は出来無い。
「僕がエリィを連れてきてからの事を、全て教えてください。さっきまで霞が掛かったような頭の中でしたが、今はだいぶはっきりしています。断片的だった記憶も繋がりましたが、客観的な事実を把握することが必要です。空がここにいない事も、関係してるんですよね?」
きっぱりと言う彼の言葉に、この後の話は暗く重たいものなりそうだと思いながらも、メンバーたちははっきりと頷いて応えた。
エリィが博に『BSD』を使用したことは明らかだった。その直後、彼女はメインルームに来て叫ぶと、直ぐに支局を出て行ったのだろう。そして、殺され川に投げ込まれた。
「エリィ・・・可哀そうすぎるわ。私、彼女が出て行く前にちょっとだけ、ここで話をしたのよ」
小夜子が独り言のように、低い声で話し始める。
「その時、エリィには他に好きな人がいるのかも、って思った。BBの部下でハニートラップ専門だったなんて知らなかったけど、何か事情があって博の元に来て、でも本気で好きな人がどこかにいるっていう感じだった」
小夜子は、あの時エリィが、どこか遠くを見ていた顔を知っている。
「好きな人に、名前を呼んで欲しいって言ってた。でも、それはなかなか上手くいかないみたいで・・・さっきBBの話を聞いた時、エリィが好きな人って彼じゃなかったのかって思った。何となく、だけど」
自分の姿を変えることには器用だったけれど、好きな相手に対しては不器用だったのかもしれない。
いや、部下を犬か猫のように扱うBBでは、誰であっても想いを叶えることは難しいだろう。
それでも彼女は彼に振り向いて貰いたくて、命じられるままに仕事をしてきた。そして、今回は自分の意志で、彼を喜ばせようと博の所に来た。
博が苦しめば、BBは喜ぶ。ハニートラップに陥れて、彼が大切にしている相手を引き離し、その後自分が姿を消せば彼は苦しむだろう。エリィはきっと、そう考えたのだ。
そして、ここを出て行く時に『BSD』を使った。BBは彼女の知識は半端だと言っていた。単に獣のようになるだけの薬だと思っていたのかもしれない。
最後の仕上げに、もう少しBBを喜ばせようとしたことが、結果的に彼女に死を与えたと言えるだろう。
小夜子の言葉にメンバーたちは、あの捉えどころのない、けれど決して幸せではなかった女性を悼んで顔を伏せた。
そこまで事実を把握し終えた時、博は青褪めた顔を俯けて唇を噛み締めた。
自分は、どれほど酷い仕打ちを空にしてしまったのだろうか。いくら自分を責めても、責めたりない。
けれど、まだ続きがあるのだ。彼女に与えた惨い仕打ちは、他にもある。
「空は・・・自分の部屋にいるのですか?」
ここに来れないほどの状態なのだろうか、と苦しそうな表情で問う博に、真が苦々しい口調で答えた。
「いないんだよ・・・さっき、ちょこっとだけケトルに聞いたら、任務に出たって事だったんだが」
春が急いでPCを操作し、その任務について調べる。
「・・・昨日、博が許可を出しています。本部への臨時転属ですが、それ以外の事は解りません。人事部長のアンジーなら、詳細を知っていると思いますが」
春の言葉に、彼は自分がそれを承認したことを思い出した。
あの時、自分は何のためらいもなく、彼女が離れてゆくことを許したのだ。暗示云々の言い訳などできない。それを決定したのは自分だ。
アンジーと連絡が取れたら、また集まってもらうことにして、博は一旦解散を告げる。各自、いつも通りの業務に戻って欲しい、と。
彼らは今まで空がやっていた仕事の分担を決め、それぞれが沈んだ気持ちで自分の持ち場に戻った。
博は自室に戻った。
カーペットの汚れは、掃除しても落ち切らなかったようで、所々茶色の染みが残っている。
換気してもまだかすかに残っている臭いは、染み付いたオードトワレと血と汗、そして房事のそれだ。
おそらくこの室内で『BSD』の支配下にあった自分に、空が1人で対応してくれたのだ。それは目覚めた後の、ふみ先生と真の話の内容からも推測できる。
知らなくてはならない。
「ケトル、この部屋の監視カメラの映像がある筈です。非常時に当たるので誰かが、おそらく真だと思いますが、見ていたのでしょう。それを見せてください」
《 ゲンザイシキケン ヒロ デスガ シンカラ ミセナイヨウニ メイジラレテイマス 》
(やはりそうですか・・・本人にさえ見せられないような代物なんですね)
博は立ち上がって、真を探しに行く。彼を説得して、映像を見なければならない。それがどれほど自分にとって辛く苦しいものであったとしても、自分が彼女にしたことに比べれば大したものでは無いのだから。
博は、とっくに覚悟を決めていた。
空は飛行機の座席に座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
雲海の上を、乗っている機体の影が滑ってゆく。
少しでも身体を休めようかと姿勢を変えた時、脇腹と両腕の傷が鈍く疼いた。
(そう言えば、ちゃんと手当していませんでした)
残っている筈の歯型は、きっと腫れ上がっているのだろう。消毒さえしていないので、化膿するかもしれない。
それでも、いや寧ろその方が良いかもしれない。そんな痛みが、何故かありがたいとさえ思えるのだから。あの時感じた、達成感を思い出すことが出来る。
(不思議ですね・・・今まで、達成感など感じたことは無かったのですが)
父の借金を返し終えた時も、両親の遺骨を日本に埋葬した時も、こんな達成感はなかった。
考えてみれば、日本に来てから自分は随分変わったと思う。
「美味しい」「好き」「嬉しい」「楽しい」そんな正の感情を知った。そして、それらは蓋をしなくても良いものだと解った。
そんな風に、根気よく教えてくれたのは博だった。
そう思うだけで、何となく体の中が暖かくなるような気がする。
(それだけで、充分です・・・)
空は、静かに目を閉じた。
アンジーとの連絡が取れないまま、博は真を何とか説得して非常用監視カメラの映像を見る許可を貰う。真は資料の生還例にあった、獣性の支配下にあった己を知って廃人同様になった男たちの事を知っていた。だから博がそれを見ることを危ぶんでいたのだ。そんな彼を説得できたのは、決意と覚悟を極めた博の態度だったのかもしれない。
博は1人、自室のノートパソコンで監視カメラの映像を流す。
アイカメラのAIが伝える画面情報は、覚悟を決めていても耳を塞ぎたくなるようなものだった。
四つ足の肉食獣と化した己の姿。吐き気を催すようなその行動。
そんな自分に、12時間もの長い間、その獣性を抑えるために全てを投げ出してくれた彼女。
最後の数時間は、地獄のような時間だっただろう。
辛かっただろう。苦しかったに違いない。
血を流し体力の限界を超えて、それでも諦めずに最後は彼女自身の身体まで与えて、自分の命を救い人格崩壊さえも起こさないように配慮してくれた。
空は本当に、自分を守ってくれたのだ。
あれほど酷い仕打ちをした、こんな自分を。
博は、頭を抱えて俯き、涙を流すことしかできなかった。
翌日になり、博はようやくアンジーと連絡を取ることに成功した。
ひと晩中、様々な方法でコンタクトを取ろうとしたが、全て無視されていた。最終手段で、真のスマホから電話を入れた時も、博が話し始めた途端、通話を切られたりもしたのだ。けれど、それでも諦めず何度もしつこくコールを続け、ついにアンジーの方が根負けした形だった。
「お願いです!切らないでください!」
最初に発した博の言葉は、それだった。
「あ~~もう、煩いっ! いっそ着信拒否しようと思ってるところだわ」
「解っています、解っていますから・・・それでもどうかお願いします。話をさせてください!」
必死過ぎる相手の声に、大きなため息をついたアンジーは諦めて話をすることにした。
「仕方がないわ、我ながら心が広いもんよ。大切な妹を最悪の形で捨てた男の話を、聞いてあげようと思うなんてね」
博は、安堵のため息をつき感謝の言葉を述べると、一連の事情を説明する。
「今話した事が、何の言い訳にもならない事はよく解っています。全ての責任が、僕にあることも。空に許してもらおうなんて思っているわけじゃない。ただ、彼女の事が心配で堪らないんです。今、どこにいて、どんな任務に就いているのか、教えてください」
アンジーは、敢えて淡々と事実を伝えた。
「彼女は昨日付で辞職しているわ。その手続きがさっき終わったところ。だから、空は今、少なくとも表向きは、FOIの任務に就いているわけじゃないの」
アンジーは声を潜めて話を続けた。
「A国政府からFOIへの密命。T国に工作員として潜入することよ。以前から何人も捜査官が派遣されたけど、全部失敗に終わってる。うちの上層部が躍起になって次の候補を探してたってわけ。でも貴方なら空を手放さないだろうから、転属依頼は断るに違いないって信じてたのよ。こんな任務、彼女に引き受けさせたくなんて無かった・・・」
声は低くなり、最後はよく聞き取れなかった。
それでも博に、返す言葉など無い。
「これ以上の事は極秘事項だから、たとえ貴方でも言えないわ。もっと知りたければ、人脈を生かして情報収集して」
アンジーはそこまで言うと一旦話を切って、再び何かを決断したように続けた。
「あの子、空港で別れる時、最後にこう言ったわ。『もし彼が聞いたら、必ず戻ると伝えて』って。彼女は今でも、貴方の傍にそのエリィって言う子がいると思ってる。それでも、自分を気に掛けることがあったら、必ず戻るつもりなのよ。一応、多少は連絡は取り合えるようになってるけど、多分向こうからの一方通行になると思う。そっちのこれまでの事情を説明することは無理ね。だから、今は彼女を信じるしかないわ」
空から頼まれた事は、これで全て果たしたと言って、アンジーは電話を切った。
博はスマホを握りしめたまま、いつまでも動けずにいた。